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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第十五話 ミルストーンの粉と欲(2)

 胸を抱え込む腕が、微かに震えている。

 シュアラは、差し出された帳簿を受け取り、表紙の汚れと指の跡を一度確かめてから、ゆっくりと開いた。

 ページを捲ると、インクは不自然に均一。


 日付の並びに対して、筆圧がどれも同じだ。


(筆圧が同じ。日付の改竄……後書きですね)


 貸し付け欄は多いが、返却欄は空白。

 そして貸付先が偏りすぎている。特定の家名ばかりが並ぶ。


「困っていた村人を助けた、とありますね。返却は?」

「そ、それは……多少“見返り”が……」

「あなた個人への、ですね」


 ブライスの喉が、ごくりと動いた。

 風が粉袋を揺らし、空気の冷たさが肌を刺す。

 風車の羽根が鈍く回り続ける音が、妙に大きく感じられた。

 カイが低い声で言う。


「村長。お前のやり方じゃ、村の外に借りが残る」

「外って?」


 ブライスが虚勢を張るように眉を吊り上げた。


「砦だ。お前が個人で粉を動かしても、村の信用にならん。“粉が消えた村”って評価だけが残る」


 シュアラは静かに帳簿を掲げた。


「村単位で砦と取引しましょう。不足は砦が貸し、返すのは“村”。あなたの懐ではなく、村の帳簿に記録します」


 ブライスは長い沈黙のあと、肩を落とした。

 雪を踏む足音が遠くで聞こえる。粉挽き小屋の中で働いていた若者たちが、そっとこちらを伺っていた。


「……そこまでやる理由は……」

「あなたの村が沈めば東が沈み、東が沈めば砦が沈みます。合理的に考えた結果ですよ」


 シュアラは、淡々と、しかしごまかさずに告げた。


「この村だけの問題ではありません。無駄を減らさないと、不明確な支出が増え続けるだけですよ」


 観念したようにブライスは、もう一冊――隠していた帳簿を差し出した。

 それは先ほどのものよりも薄く、紙質も良い。


「……粉の本当の流れも……全部出す」

「最初からそうしてくだされば、壺は一つで済みました」


 カイがぼそりと付け加える。

 ブライスの顔が引きつり、若者たちの間から小さく乾いた笑いが漏れた。


 粉挽き小屋の奥は、粉塵と湿気で白く霞んでいた。

 石臼の低い響きが腹に伝わる。足元の板は踏むたび軋み、そのたびに粉がふわりと舞い上がる。


「くしゃみ出そうだな……」


 ゲルトが鼻を揉みながらぼやく。

 シュアラは、粉袋の重さを測り、一つずつ記録していった。

 布の縫い目、湿り具合、積まれ方――普段なら見過ごされる細部も、全部数字に変えていく。


 遠巻きに村人たちが見ていた。

 緊張と不安と、「バレるかもしれない」という恐れが混ざった顔だ。


「返却がゼロの方、手を挙げてください」


 沈黙が落ちる。

 雪の上ではなく、粉塵の中での沈黙は、やけに重かった。

 しばらくしてから、数人がそっと手を挙げた。

 年老いた男。赤子を抱いた女。痩せた青年。


「……すまねえ……」

「子どもが熱出して……粉が足りなくて……」


 弱い声だが、そこには生活の切迫がにじんでいた。


(生活困窮、個人の善意、独占、帳簿の改竄……積み重なった結果がこれ)


 帝都の帳簿で見てきた「不正」とは、少し質が違う。

 ここには、自分の腹と子どもの腹を秤にかけた結果が混ざっている。


「返せとは言いません。返すのは“村”。来年の収穫で処理します」


 村人たちは驚いたように顔を見合わせた。


「そんな仕組みが……」

「できます。我々が証人です」


 シュアラは粉袋を押しながら言った。


「今日から、粉袋の重さを毎朝測り、押印します。記録は砦で帳簿を扱っている兵に教えます。勝手に動かせば――」

「動かせば?」


 ブライスが肩をすくめる。

 視線の端で、ラルスの顔つきが過った。

 彼のように「抜け道を知っている人間」がいる以上、ここでも同じ穴が開きかねない。

 シュアラは、意図的に少し間を置いてから答えた。


「わかっていますよね?」


 後ろでカイが腕を組み、淡々と頷く。

 それを見たブライスが顔を青くした。


「壺でも、扉でも、粉挽き車でも。壊す物がなくなると困るから、なるべく動かすな」


 村人たちが苦笑した。

 張り詰めた空気が少し柔らいだ。

 ゲルトがその隙を逃さず、声を張る。


「それとよ。お前ら、粉の貸し借りする時は、必ずこの女か村長か、どっちかの目の前でやれ」

「この女って……」

「軍師殿だ」


 ん、と顎でシュアラを示す。

 その呼び方はまだ村には馴染んでいないが、砦では少しずつ広まりつつあった。


「勝手にやると、あとで数字に殴られんぞ」

「数字に……?」

「怖えぞ、数字は。黙って人を殺すからな」


 ゲルトの妙に実感のこもった言い方に、村人が身をすくめる。


(……そこまで暴力的なものとして扱うつもりはないのですが。まぁ、いいでしょう)


 心の中で小さくため息をつきつつ、シュアラは粉袋の最後の一つに印を押した。


 外へ出ると、風車は先ほどよりわずかに力強く回っていた。

 ギィ、ゴン……と低く響くが、弱り切った音ではない。

 作業を終えた村人たちが、小屋の前で分厚い手袋を揉みながら息を吐いている。

 ブライスはその輪から少し離れた場所で、帳簿を抱えて所在なげに立っていた。


「……あんた、本当にやる気か」


 彼はぽつりと訊ねた。


「何をでしょう」


「『村の帳簿』ってやつだよ。今まで俺が自分の懐でやってきた貸し借りを、わざわざ表に出して……」

「名前が出た方が、誤魔化しづらくなります」


 シュアラは率直に告げる。


「その代わり、あなただけが火消し役をする必要はなくなります。村全体の責任になりますから」


 ブライスは、しばらく黙り込んだ。

 分厚い指で帳簿の角を何度も撫でる。


「……あんた、清いな」

「清くはありません。計算しているだけです」

「計算、ねえ。俺には、清く見えるがな」


 その言葉には少しだけ棘があった。

 シュアラは、その棘の意味を完全には理解できなかった。


(清廉さだけでは動かない人間――父が何度も言っていた種類の人ですね)


 帝都の貴族や商人とは違う。

 ここにいるのは、自分の腹と村の腹を同じ鍋で煮詰める男だ。

 鍋から少し多く掬っても、鍋ごと焦げさせる気はない。


「村長」


 代わりに口を開いたのはカイだった。


「お前が今までやってきたことも、全部ひっくり返す気はねえ」

「……ほう?」


 ブライスが怪訝そうに眉を上げる。


「困ってた奴を助けてやったってのは、たぶん本当だろ。


 その代わりに利子を取った。そこまではお前の『商売』だ」

 カイは雪を靴で軽く蹴った。

 粉雪が散り、白い地面に靴跡がひとつ増える。


「これからは、砦と『村』の貸し借りも、同じだ。俺たちは粉を貸す。お前らは春に収穫で返す。ただし、返せなかったときに首を絞めるのは“村全体”だ。お前の家の棚じゃねえ」

「……それで、砦は得をするのか?」

「するさ」


 カイは腕を組んだ。


「『モノが消える村』よりも、『ちゃんと返そうとする村』の方が守り甲斐がある。信頼できるしな」


 その言い方は、どこか戦場の「盾と槍」の話に似ていた。

 役に立つ盾なら手入れをし、穴が開いた盾なら捨てる。

 ただし、今のカイは「穴を塞いで使い続ける」方を選んでいる。

 ブライスは、ゆっくりと息を吐いた。


「……分かった。やれるところまでやってみる」

「できなかったら言え」


 ゲルトが横から口を挟む。


「今さら『狸』が素に戻ったところで、誰も驚かねえ。


 そのときゃ、若と軍師殿がまた壺を割りに来るだけだ」


「割られる壺が残ってればな……」


 ブライスの嘆きに、村人たちの間から笑いが漏れた。


 砦への帰り道。

 風車は背後で回り続けている。

 雪雲を切り裂くように、ゆっくりと。

 手綱を握りながら、カイが呆れたように言った。


「お前、村全体をでっけえ帳簿だと思ってねえか?」

「はい。数字に置き換えれば動かせる部分が分かります」


「……数字の女だな」

「“数字女”は王宮での呼ばれ方です。好きではありません」


 むっとして返すと、カイは少しだけ視線を逸らした。

 雪を踏む馬の蹄音が、会話の合間を埋める。


「じゃあ……軍師殿でいい」


 何気なく放たれたその言葉が、胸の奥に落ちた。

 それは白湯のようにじんわりと広がり、冷たい朝の空気を押し返していく。


(清廉さだけでは、盤面は動かない)

(でも、だからといって、全部を濁らせる必要もない)


 ブライスの帳簿を思い出す。

 汚れた数字と、どうしようもない生活の匂い。

 そのどちらも切り捨てずに扱うやり方を、少しだけ掴めた気がした。


(東の村に煙。南の村に帳簿。天秤は……ほんの少し動いた)


 風車の羽根が雪雲を切り裂き、回り続ける。

 冬は近い。

 だがその羽根は、もはや沈んでいなかった。

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