第十五話 ミルストーンの粉と欲(2)
胸を抱え込む腕が、微かに震えている。
シュアラは、差し出された帳簿を受け取り、表紙の汚れと指の跡を一度確かめてから、ゆっくりと開いた。
ページを捲ると、インクは不自然に均一。
日付の並びに対して、筆圧がどれも同じだ。
(筆圧が同じ。日付の改竄……後書きですね)
貸し付け欄は多いが、返却欄は空白。
そして貸付先が偏りすぎている。特定の家名ばかりが並ぶ。
「困っていた村人を助けた、とありますね。返却は?」
「そ、それは……多少“見返り”が……」
「あなた個人への、ですね」
ブライスの喉が、ごくりと動いた。
風が粉袋を揺らし、空気の冷たさが肌を刺す。
風車の羽根が鈍く回り続ける音が、妙に大きく感じられた。
カイが低い声で言う。
「村長。お前のやり方じゃ、村の外に借りが残る」
「外って?」
ブライスが虚勢を張るように眉を吊り上げた。
「砦だ。お前が個人で粉を動かしても、村の信用にならん。“粉が消えた村”って評価だけが残る」
シュアラは静かに帳簿を掲げた。
「村単位で砦と取引しましょう。不足は砦が貸し、返すのは“村”。あなたの懐ではなく、村の帳簿に記録します」
ブライスは長い沈黙のあと、肩を落とした。
雪を踏む足音が遠くで聞こえる。粉挽き小屋の中で働いていた若者たちが、そっとこちらを伺っていた。
「……そこまでやる理由は……」
「あなたの村が沈めば東が沈み、東が沈めば砦が沈みます。合理的に考えた結果ですよ」
シュアラは、淡々と、しかしごまかさずに告げた。
「この村だけの問題ではありません。無駄を減らさないと、不明確な支出が増え続けるだけですよ」
観念したようにブライスは、もう一冊――隠していた帳簿を差し出した。
それは先ほどのものよりも薄く、紙質も良い。
「……粉の本当の流れも……全部出す」
「最初からそうしてくだされば、壺は一つで済みました」
カイがぼそりと付け加える。
ブライスの顔が引きつり、若者たちの間から小さく乾いた笑いが漏れた。
粉挽き小屋の奥は、粉塵と湿気で白く霞んでいた。
石臼の低い響きが腹に伝わる。足元の板は踏むたび軋み、そのたびに粉がふわりと舞い上がる。
「くしゃみ出そうだな……」
ゲルトが鼻を揉みながらぼやく。
シュアラは、粉袋の重さを測り、一つずつ記録していった。
布の縫い目、湿り具合、積まれ方――普段なら見過ごされる細部も、全部数字に変えていく。
遠巻きに村人たちが見ていた。
緊張と不安と、「バレるかもしれない」という恐れが混ざった顔だ。
「返却がゼロの方、手を挙げてください」
沈黙が落ちる。
雪の上ではなく、粉塵の中での沈黙は、やけに重かった。
しばらくしてから、数人がそっと手を挙げた。
年老いた男。赤子を抱いた女。痩せた青年。
「……すまねえ……」
「子どもが熱出して……粉が足りなくて……」
弱い声だが、そこには生活の切迫がにじんでいた。
(生活困窮、個人の善意、独占、帳簿の改竄……積み重なった結果がこれ)
帝都の帳簿で見てきた「不正」とは、少し質が違う。
ここには、自分の腹と子どもの腹を秤にかけた結果が混ざっている。
「返せとは言いません。返すのは“村”。来年の収穫で処理します」
村人たちは驚いたように顔を見合わせた。
「そんな仕組みが……」
「できます。我々が証人です」
シュアラは粉袋を押しながら言った。
「今日から、粉袋の重さを毎朝測り、押印します。記録は砦で帳簿を扱っている兵に教えます。勝手に動かせば――」
「動かせば?」
ブライスが肩をすくめる。
視線の端で、ラルスの顔つきが過った。
彼のように「抜け道を知っている人間」がいる以上、ここでも同じ穴が開きかねない。
シュアラは、意図的に少し間を置いてから答えた。
「わかっていますよね?」
後ろでカイが腕を組み、淡々と頷く。
それを見たブライスが顔を青くした。
「壺でも、扉でも、粉挽き車でも。壊す物がなくなると困るから、なるべく動かすな」
村人たちが苦笑した。
張り詰めた空気が少し柔らいだ。
ゲルトがその隙を逃さず、声を張る。
「それとよ。お前ら、粉の貸し借りする時は、必ずこの女か村長か、どっちかの目の前でやれ」
「この女って……」
「軍師殿だ」
ん、と顎でシュアラを示す。
その呼び方はまだ村には馴染んでいないが、砦では少しずつ広まりつつあった。
「勝手にやると、あとで数字に殴られんぞ」
「数字に……?」
「怖えぞ、数字は。黙って人を殺すからな」
ゲルトの妙に実感のこもった言い方に、村人が身をすくめる。
(……そこまで暴力的なものとして扱うつもりはないのですが。まぁ、いいでしょう)
心の中で小さくため息をつきつつ、シュアラは粉袋の最後の一つに印を押した。
外へ出ると、風車は先ほどよりわずかに力強く回っていた。
ギィ、ゴン……と低く響くが、弱り切った音ではない。
作業を終えた村人たちが、小屋の前で分厚い手袋を揉みながら息を吐いている。
ブライスはその輪から少し離れた場所で、帳簿を抱えて所在なげに立っていた。
「……あんた、本当にやる気か」
彼はぽつりと訊ねた。
「何をでしょう」
「『村の帳簿』ってやつだよ。今まで俺が自分の懐でやってきた貸し借りを、わざわざ表に出して……」
「名前が出た方が、誤魔化しづらくなります」
シュアラは率直に告げる。
「その代わり、あなただけが火消し役をする必要はなくなります。村全体の責任になりますから」
ブライスは、しばらく黙り込んだ。
分厚い指で帳簿の角を何度も撫でる。
「……あんた、清いな」
「清くはありません。計算しているだけです」
「計算、ねえ。俺には、清く見えるがな」
その言葉には少しだけ棘があった。
シュアラは、その棘の意味を完全には理解できなかった。
(清廉さだけでは動かない人間――父が何度も言っていた種類の人ですね)
帝都の貴族や商人とは違う。
ここにいるのは、自分の腹と村の腹を同じ鍋で煮詰める男だ。
鍋から少し多く掬っても、鍋ごと焦げさせる気はない。
「村長」
代わりに口を開いたのはカイだった。
「お前が今までやってきたことも、全部ひっくり返す気はねえ」
「……ほう?」
ブライスが怪訝そうに眉を上げる。
「困ってた奴を助けてやったってのは、たぶん本当だろ。
その代わりに利子を取った。そこまではお前の『商売』だ」
カイは雪を靴で軽く蹴った。
粉雪が散り、白い地面に靴跡がひとつ増える。
「これからは、砦と『村』の貸し借りも、同じだ。俺たちは粉を貸す。お前らは春に収穫で返す。ただし、返せなかったときに首を絞めるのは“村全体”だ。お前の家の棚じゃねえ」
「……それで、砦は得をするのか?」
「するさ」
カイは腕を組んだ。
「『モノが消える村』よりも、『ちゃんと返そうとする村』の方が守り甲斐がある。信頼できるしな」
その言い方は、どこか戦場の「盾と槍」の話に似ていた。
役に立つ盾なら手入れをし、穴が開いた盾なら捨てる。
ただし、今のカイは「穴を塞いで使い続ける」方を選んでいる。
ブライスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。やれるところまでやってみる」
「できなかったら言え」
ゲルトが横から口を挟む。
「今さら『狸』が素に戻ったところで、誰も驚かねえ。
そのときゃ、若と軍師殿がまた壺を割りに来るだけだ」
「割られる壺が残ってればな……」
ブライスの嘆きに、村人たちの間から笑いが漏れた。
砦への帰り道。
風車は背後で回り続けている。
雪雲を切り裂くように、ゆっくりと。
手綱を握りながら、カイが呆れたように言った。
「お前、村全体をでっけえ帳簿だと思ってねえか?」
「はい。数字に置き換えれば動かせる部分が分かります」
「……数字の女だな」
「“数字女”は王宮での呼ばれ方です。好きではありません」
むっとして返すと、カイは少しだけ視線を逸らした。
雪を踏む馬の蹄音が、会話の合間を埋める。
「じゃあ……軍師殿でいい」
何気なく放たれたその言葉が、胸の奥に落ちた。
それは白湯のようにじんわりと広がり、冷たい朝の空気を押し返していく。
(清廉さだけでは、盤面は動かない)
(でも、だからといって、全部を濁らせる必要もない)
ブライスの帳簿を思い出す。
汚れた数字と、どうしようもない生活の匂い。
そのどちらも切り捨てずに扱うやり方を、少しだけ掴めた気がした。
(東の村に煙。南の村に帳簿。天秤は……ほんの少し動いた)
風車の羽根が雪雲を切り裂き、回り続ける。
冬は近い。
だがその羽根は、もはや沈んでいなかった。




