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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第十五話 ミルストーンの粉と欲(1)

 東の村から戻った翌朝、ヴァルム砦の空は鉛の薄膜を張ったように重かった。

 雪を孕みながら降りてこない雲が、夜の名残を惜しむように空を塞いでいる。

 石床の冷たさは、踏みしめるたび骨の奥へ沁みる。朝というより、冷気の底から這い上がるような時間だ。


 シュアラは、小さな執務室で簡易地図を広げていた。

 厚い羊皮紙の上に、パン屑と小石で作った三つの村の印――東のシルバークリーク、西のアイアンストリーム、そして南のミルストーン。

 本来なら、南は粉が余っているはずだった。


 だが帳簿は逆を示している。

 紙の端には、昨夜カイと突き合わせた数字が、そのままの勢いで残っていた。


『ミルストーン:粉袋の収支に不一致多数』

『村長ブライスの私的貸し付け疑い』

『冬越しの天秤上、最重要』


(南を無視した瞬間、三皿の天秤は崩れる)


 砦、東の村、西の鉱山村――それぞれの皿に、粉と鉄と人の胃袋が乗っている。

 そのうち一枚でも底が抜ければ、残りの皿も連鎖して傾く。

 粉は、冬の命の最低ラインだ。

 東の村へ“十日分”を送った以上、南の循環が止まれば、砦も沈む。


 ペン先でミルストーンの印を軽く叩いた。

 乾いた音が、自分の胸の奥にも響く。


(ここで数字を誤魔化されると、盤面が歪む)


 そう考えている最中、扉が軽く叩かれた。


「文官、入るぞ」


 返事を待たずに入ってきたのはゲルト。その後ろには、湯の湯気を揺らすカイがいた。

 カイのマグから立ち上る湯気は白く、彼の寝癖混じりの黒髪の周辺で、妙な輪を描いている。


「南に行く準備はできてる」


 そう言うカイの声は、いつもよりわずかに張りがあった。

 東の村での狼煙と死体の布――あれが、彼のどこかをわずかに覚醒させたのだと、シュアラは推測する。


「団長、昨夜の帳簿ですが――」

「ああ、粉の減り方がおかしいってやつな」


 カイは湯を一口飲み、ひりつく喉を洗うように息を吐いた。


「三割だっけか。自然に減る数字じゃねえ」

「袋の破損、もしくは意図的な移動です」


「なら、現物を見れば早い」


 その声音は軽く見えて、奥に戦場のような緊張があった。

 戦場では「地図より地面」を優先する。

 彼は、今目の前に広げられた簡易地図よりも、実際の粉袋の重みを選ぶ人間だ。


「今日の目的は二つです」


 シュアラは、羊皮紙の端を押さえながら言った。


「一、粉挽き小屋の帳簿確認。二、村長個人の貸し借りを“村の帳簿”に戻すこと」

「また天秤の話か?」


 ゲルトが鼻を鳴らす。


「ええ。粉の胃袋に穴が空けば、東に送った分も無駄になります」


 数字だけでなく、昨日見たリナの細い手首も頭をよぎる。

 あの手が抱えるパンを、これ以上薄くしたくはない。

 ゲルトは腕を組み、尾てい骨で壁を軽く叩いた。


「相手はブライスだぞ。狸だ」

「昨年の税記録にも“後書き”の跡がありました」

「数字より壊れ物が効くタイプだな」


 カイのつぶやきに、シュアラは首を傾げた。


「壊れ物……?」

「行けば分かる」


 彼はそれ以上説明しなかったが、その眼差しはいつもより冷静だった。

 酔いに濁っていた瞳から、少しずつ霧が晴れつつある。

 窓の外で寒気を切る風が石壁を震わせた。

 シュアラは柔肌を軽く擦ってから外套を羽織り、二人の後に続く。

 南へ向かう街道は、朝霧の名残が薄く漂っていた。

 霜柱を踏む音が、一定のリズムで続く。


 馬の息が白く膨らみ、冬の入り口が空気を固くしていく。

 行列の先頭にカイ、その少し後ろにゲルトと第一班の兵たち。

 シュアラは列の真ん中、借りた馬の背で、揺れに合わせて必死に腰を固定していた。


(……やっぱり、落ちそうです)


 鞍の上で体が浮くたび、腹の底がひやりとする。

 東の村へ向かったときと同じ恐怖だが、今回は少しだけマシだった。

 落ちる危険を、一度「経験値」として数字に組み込んだからだ。


「嬢ちゃん、馬に慣れたか?」


 後ろからゲルトの声が飛んでくる。


「死ぬほどではありません」

「ほう、上出来だ」


(死ぬほどではない=高評価……? 素人基準で、ということでしょうか?)


 妙な評価基準に戸惑いつつも、返す言葉は「ありがとうございます」だけだった。

 丘を越えた瞬間、のっそりと巨大な影が見えた。

 ミルストーンの大風車だ。

 雪を抱いた羽根は重く、不器用に空を掻いている。

 ギィ……ゴゴゴン……と、どこか痛みに耐えるような音が響いた。


(回転が遅い。七割……粉袋の減少と一致)


 風車の回転は、村全体の“呼吸”だ。

 息を吸い込み、粉に変えて吐き出す。

 今のミルストーンは、明らかに息が浅い。

 風車の根元には、粉挽き小屋。


 その前に、丸い腹の男――村長ブライスが立っていた。

 人懐っこい笑みの形だけ作り、目だけが冷えている。

 脂の乗った狐に、人間の服を着せたような顔だ。


「いや~砦の皆さん、朝早くからどうして」


 後ろで粉袋を抱える若者たちが、誰一人目を合わせようとせず、小屋へ急いで消えていく。

 怯えではなく、後ろめたさ。それが速さに表れていた。

 カイが馬を降り、手綱を兵に渡す。

 シュアラも、慎重に鞍から降りた。


「昨年比で粉が三割減っています」


 足元の雪がきしむ音と重なるように、静かに告げる。


「冬前にこれは不自然です。帳簿を拝見します」


 ブライスは大げさに手を振り、笑顔を作った。


「いやあ風が強くてね! 粉なんて軽いもんで、飛ぶんですよ!」

「三割も?」


 シュアラの問いに、ブライスの笑みが僅かに引きつる。


「そ、そりゃネズミも食いますしね! 賢いんですよあいつらぁ!」

(賢くても三割は食べません。そんなネズミがいたら、帝都の食糧も消えているはずです。そもそも、三割も食うわけないですよ。保管場所の質が担保されていることは確認済みなんですから)


 喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 代わりに、数式だけを頭の中で並べた。


「触っていいか?」


 カイが積まれた粉袋に手を伸ばした。

 掌を押し当て、軽く沈める。ずぶりと頼りない感触。

 ブライスの額に汗がにじむ。


「……村長」


 シュアラは穏やかに言った。


「帳簿を確認したいだけです。隠さなければすぐ終わります」

「な、なにも隠してなんて――」

「嘘くせえ声だな」


 ゲルトが冷たく吐き捨てた。

 風車の軋みと、男の声の薄さが、雪の上で奇妙に重なる。

 ブライスが口を開きかけた、その瞬間――音がした。


 パキン。

 粉挽き小屋の窓辺に飾られていた陶器の壺が、床に落ちて砕けた音だ。

 壺を持ち上げ、落としたのはカイだった。


「だ、団長さん! 高い――」


 ブライスの叫びを、カイが肩越しに振り返って遮る。


「次はもっと高いやつ割る。帳簿を出せ」

「ひっ……わかった! 本物を!」


 ブライスは慌てて奥へ消え、埃をかぶった帳簿を抱えて戻った。


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