第十四話 盤から香るのは金の匂い
リナは、その日いつもより早く目を覚ました。
寝床の上で膝を抱えたまま、しばらく天井を見つめる。
家の梁には、昔干していた肉を吊るしていた紐の跡が残っている。今は何もぶら下がっていない。
それでも、昨日より胸が軽かった。
かすかに、パンの焼ける匂いがする。
「……パンだ」
布団を跳ねのけて、納屋代わりの部屋から居間に飛び出す。
小さな竈の前で、父が丸い背中を丸めていた。
灰の中に押し込んで焼いた黒パンを、木の板の上に出している。
「おはよ」
「おう」
父は振り向きもせずに返事をする。
「今日はちゃんと一人分だ。団長殿が『まずガキに食わせろ』ってうるさくてな」
木皿の上で、黒パンが一つだけ、ぽつんと転がった。
いつもより、ほんの少しだけ厚い気がする。
リナはごくりと喉を鳴らした。
「……トマスの分は?」
「朝っぱらからそれか」
父は鼻を鳴らし、それでも奥の寝台を顎で示した。
「熱はまだあるが、昨日よりはましだ。後でスープを少し持ってってやる。お前はまず、それ食え」
「うん」
黒パンを両手で抱える。
手のひらに、焼きたての温かさがじんわりと移ってきた。
(昨日、文官のねえちゃんが言ってた)
『子どもが倒れているのを見るのは、見張りの人には一番こたえます』
よく分からない言い回しだったが、「ちゃんと食べろ」という意味だということだけは理解している。
パンにかじりつこうとした、そのときだった。
外から、軋むような車輪の音と、蹄の音が重なって聞こえてきた。
父が顔を上げる。
「……荷車か?」
「砦の人?」
二人は顔を見合わせた。
リナは黒パンを布でくるむと、慌てて外套を羽織る。
「リナ、転ぶなよ」
「分かってる!」
返事だけは威勢よくして、雪の外へ飛び出した。
冷たい空気が頬を刺す。
村の入り口の方から、何人もの声がする。
見張り台のあたりに人だかりができていた。
リナは黒パンを胸に抱えたまま、人の隙間をすり抜ける。
見慣れた黒い外套が目に入った。
「団長さん!」
自分の声が雪の上で跳ねた。
馬から降りたカイが振り向く。
その向こうで、馬の列と、材木を積んだ荷車が並んでいた。
砦から来た男たちの背中からは、汗の匂いと鉄の匂いがした。
「おう」
カイはリナを一瞥し、口の端を僅かに上げる。
「……腹は、減ってないか」
「へってるけど、ちゃんと食べた!」
リナは慌てて布を開いてみせた。
中には、かじりかけの黒パンが一つ。
「ほら、今日の分。ちゃんと」
その様子に、近くにいた村長が苦笑する。
「一口残すと、こいつ、トマスの枕元に置きに行こうとするんでな。今日は見張ってた」
「それは、とても良いことです」
そう言ったのは、カイの後ろから歩いてきた、フード姿のシュアラだった。
昨日よりも少し厚い外套を着ているが、顔色は相変わらず雪のように白い。
けれど、目だけはよく通った光を宿していた。
「トマスさんの熱と指先、後で見させてください」
「約束しよう」
村長は短く頷き、すぐに目つきを変えた。
「で、今日は何の用だ。今度は、どんな条件を聞かされる」
周りの男たちの視線が、一斉に砦の一団へ向かう。
感謝と不安と、言葉にならない苛立ちが混ざり合った目だ。
カイは腕を組み、顎でシュアラを示した。
「こいつが言い出した。お前らの村を、『腹の貯蔵庫』にするってな」
「……貯蔵庫?」
村長の額に皺が寄る。
「寒い倉だか何だか知らねえが、うちはこれ以上冷やされるのはごめんだぞ」
「今より寒くはしません」
シュアラは慌てて首を振り、馬の側帯から布の袋を外した。
丸めた羊皮紙を取り出し、雪の上に広げて見せる。
「ただ、ここを冬のあいだの『食べ物の置き場』に変えたいのです」
簡略図の上で、川の線と村の四角い印が並ぶ。
その川脇に描かれた小さな四角――燻製小屋の予定地を指した。
「この川、森、その周りの獣と魚。全部を『長く残る形』にする小屋を建てます」
「干し肉なら前からやってる!」
髭面の男が、たまらず声を荒げた。
「紐で吊って、外の風に当てりゃいい。寒さは勝手にあるんだ」
「紐で吊るのも良い方法です。ですが、欠点が一つあります」
シュアラは村人たちを見渡した。
「襲ってくる側から見ても、一番先に目に入るのは、外にぶら下がった肉だということです」
男たちの顔が強張る。
こじ開けられた納屋。散らばった藁。もしそこに干し肉があったら――想像は容易かった。
「小屋の中に煙を閉じ込めて、肉と魚を隠します。外から見えないぶん、略奪のリスクは減る。煙の匂いは残りますが、それは――」
一度、息を整える。
「この村に『まだ食べ物が残っている』って印にもなってしまいます」
「だから狙われるんじゃねえか!」
誰かが叫んだ。
「他の村の分まで預かるなんざ、的になれって言ってるのと同じだろ!」
口々に不安があふれ出す。
カイが前に出ようとしたのを、シュアラは片手で制した。
「団長。先に、私に話させてください」
「……三分だ」
カイが一歩下がる。
雪の上で靴底がきしり、輪になった視線がシュアラ一人に集まった。
視線の重さに、喉がひゅっと狭くなる。
(怖いのは、私も同じです)
それでも、目は逸らさなかった。
「皆さんの言う通りです。この村は、きっとまた狙われます」
肯定すると、ざわめきが止まった。
「川があり、魚がいて、森がある。そのこと自体が、『襲う側にとって都合のいい村』の条件ですから」
「んなことは分かってる。だから怖ぇんだよ!」
「私も、怖いです」
シュアラは、昨日の光景を思い出した。
雪の上の布。布の下からのぞく、もう動かない足。
「昨日、布の下で冷たくなっていた足を見ました。ああいう足を、『仕方がない』と書類に書いて終わらせるやり方を、私は知っています。でも」
胸の奥で、何かがきしむ。
「ここでそれを使ったら、私は帝都にいたときと同じ人間になります。それは嫌です」
自分で口にして、初めてはっきりと自覚する。
村長が目を細めた。
「じゃあ、どうする」
「この村を変えたいんです。『刈られるだけの場所』から、『落とされたら皆が困る場所』に」
「何が違う」
「『ただ狙われる村』は、砦から見て守る理由が薄い村です。襲われても、『仕方がない』で終わる。そう扱われている村は、帝都の地図の上に、いくらでもあります」
言いながら、自分の言葉に腹が立った。
「けれど、『落とされたら皆が困る村』は違う。『あそこだけは死守しろ』と言われる村です。砦にとっても、他の村にとっても、『頼むから持ちこたえてくれ』と祈られる場所」
川の音が、妙に大きく聞こえた。
「冷蔵庫にする、というのはそういう意味です。冬の食料を一手に預かる村は、この一帯の『胃袋』を握る村になります」
「……そんなふうに、俺たちを見てくれるのか」
村長の声は、わずかに震えていた。
「はい。少なくとも、ヴァルム砦の天秤ではそう扱います」
シュアラは淡々と言い添えた。
「帝都の帳簿が何と言うかは……あまり気にしていません」
「おい」
カイが苦い顔をする。
「そこまで言うと、あとで俺まで怒られる」
「では、『さほど気にしていません』に訂正します」
すました返しに、村人の何人かが噴き出した。
重くこわばっていた空気に、小さなひびが入る。
カイはその隙間に踏み込むように前へ出た。
「俺はな、『守れねえかもしれねえ』と思った場所を守るとは言わねえ」
低い声が、村の広場に落ちる。
「無理なもんは無理だと言う。俺も人間だ」
「団長、それはそれでどうかと思います」
「黙ってろ文官。今は格好つけてんだ」
シュアラがむっとして口をつぐむと、笑いが一つ増えた。
「だけど、こいつの話は筋が通ってる。この村を落とされたら、砦も他の村も腹を空かせる。なら、『ここは守れ』って命令がなくても、俺は来る」
それは、約束というより、噓の混じらない宣言だった。
村長はしばらく黙って川を見た。
やがて、長く息を吐き出す。
「……分かった。話くらいは、最後まで聞こう」
「ありがとうございます」
シュアラは深く頭を下げる。
そこからは、言葉よりも手が動いた。
川の流れを指でなぞり、堤の位置、石を積む場所を説明する。
「ここが毎年一番怖いところだ」「氷が割れて流れてきて、土を持ってく」
村人たちの「怖い場所」と、シュアラの線が重なっていく。
燻製小屋の図に移ると、煙の通り道と熱の溜まり方をなぞった。
「ここに煙を溜めて、出口をこの高さまで上げます。煙は上に行きたがるので、ここに溜まった熱と一緒に、肉と魚をいぶします」
「言ってることは分かるような、分からんような」
髭の男が頭を掻く。
「要するに、ここに飯を隠すってことか?」
「そうです」
「最初からそう言え!」
そこにカイが割り込む。
「難しい話を全部聞きたい奴は文官に食いつけ。分かりやすく聞きたい奴は、俺んとこ来い。まとめてやる」
「団長、それは職域の侵害です」
「お前が小難しすぎるんだよ」
そんなやり取りに、今度ははっきりとした笑い声が混ざった。
説明を終える頃には、シュアラの足先は芯まで冷えていたが、村人たちの顔には、来た時よりも明らかに血の気が戻っていた。
「どうせ、このままでも冬は厳しい」
村長は顎に手を当てて唸る。
「沈むなら、もがきながら沈んだ方がマシだと思ってたが……沈まないように足場組んでくれるなら、乗ってみるさ」
「沈ませません」
言い切ってから、自分で驚くくらい強い声だと思った。
「沈まないように組んでいます。もし沈んだら、それは設計した私の負けです」
「負け、ね」
村長は小さく笑う。
「その勝負、村ごと乗っからせてもらおうか」
そう言って、村人たちに向き直った。
「おい、お前ら! 明日から川の石運びだ! 腰が悪い奴は小屋用の材木だ、さっさと乾かし始めろ!」
「へいへい!」
「腰は元から悪ぃ!」
「うるせえ働け!」
雪の上に、いつもの調子の罵り合いが戻っていく。
裾を小さく引っ張られた。
見下ろすと、リナがいる。
「文官おねえちゃん」
「はい」
「その……れいぞーこってさ」
リナは真剣な顔で見上げてきた。
「お腹空いたとき、勝手にご飯出てくるやつ?」
シュアラは思わず笑ってしまった。
「それが理想ですが、残念ながら違います。自分たちで入れたぶんしか出てきません。入れなければ、ただの空っぽの箱です」
「ふーん」
リナは少し考えてから、にっと笑う。
「じゃあ、いっぱい入れなきゃね」
「はい。いっぱい入れられるようにするのが、今の私の仕事です」
その会話を横で聞いていたトマスが、毛布を羽織ったまま歩いてきた。
足取りはまだおぼつかないが、自分の足で立っている。
「文官殿」
彼は耳まで赤くして頭を下げた。
「昨日は……助けてくれて、ありがとうございました」
「間に合って良かったです」
顔色を見る。昨日よりずっといい。
「俺、次はもっと早く走ります。次は――」
「それは、あまり良い目標ではありません」
シュアラは首を振る。
「次は、あなたが走らなくても済むようにするのが一番です。狼煙を上げる役目がないことが、平和な冬ですから」
トマスは目を丸くし、少ししてから照れくさそうに笑った。
「それも、そうですね」
日が傾く頃には、川沿いに木の枠が組み上がっていた。
雪の上に四角い骨組みが立ち上がり、工兵たちの振るう槌の音が、川の音と混じりながら響いている。
「なあ、若」
枠の横で板を支えながら、ゲルトが言った。
「なんだ」
「この穴から煙が出るんだよな」
彼が指さしたのは、天井近くに空けられた煙突用の穴だ。
「冬の間じゅう、ここから煙が上がる。遠くから見りゃ、『あそこに飯がある』って印だ」
「ああ」
「敵から見てもそうだが、こっちから見てもそうだ。『まだ飯が残ってる』ってな」
ゲルトは川面を見下ろし、白い息を吐いた。
「同じ煙なのにな」
「見る場所が違えば、意味も変わる」
カイは釘を口にくわえたまま、あっさりと返す。
「俺たちには、『ここに戻ってこい』って合図に見えるだろうさ」
「……そいつは悪くねえ」
二人の会話を耳の端で聞きながら、シュアラは空を仰いだ。
試し焚きの煙が一本、細く立ち上っている。
冷たい川の上に、焦げた木と、肉の匂いを混ぜたような香ばしい匂いが広がっていった。
(この煙が、『まだやれる』という合図になればいい)
胸の中で、そっと願う。
手帳を開きかけて、少しだけ迷った。
いつものように「今回ぶん:」と書きかけて、ペン先を止める。
(……まだ、勝ち負けをつける段階じゃありませんね)
代わりに、余白に短い一行を書き込んだ。
『シルバークリーク 食料拠点化 試験開始』
雪と煙の匂いの中で、その文字が小さな旗印のように見えた。
*
その煙を、遠く高い場所から見下ろしている男がいた。
村から川を挟んだ対岸、木々の影が濃く落ちる小さな丘の上だ。
凍った地面に片膝を立て、男は指先で金貨を弾いている。
チン、と硬い音が冬の空気に吸い込まれた。
仕立ての良い革手袋。フードの奥には、整えられた口髭と、爬虫類じみた細い目。
「……オッズが変わったな」
男は独りごちると、片目に小さな硝子のレンズを押し当てた。
単眼鏡の向こうで、村の景色が拡大される。
整列した杭。川の流れを変えようとしている石積みのライン。計算された位置に建てられつつある小屋。
野蛮な辺境の村人だけで、あの配置は出てこない。
そこには明らかに、都市の論理が介在していた。
「『刈られるだけの獲物』から、『牙を持った番犬』か……なるほど、盤面をひっくり返しに来たプレイヤーがいるわけだ」
男の視線が、村の中央へと吸い寄せられる。
剣を腰に提げた屈強な男。その隣で紙束を抱え、何かを指示している小柄な人影。
風に揺れる髪と外套の隙間から、若い女の横顔が覗いた。
「ほう?」
男の口角が、ゆっくりと三日月のように吊り上がる。
指先で弄んでいた金貨が、ぴたりと止まった。
彼にとって戦場は、ただ賭場の大きな盤面にすぎない。
どちらが勝つか。どちらが死ぬか。人間をチップにした遊戯。
だが、この辺境の小さな煙は、いつもの退屈な「死」以外の匂いを運んできていた。
「……金の匂いだな」
男は鼻を鳴らす。
肉体ではない。その思考そのものが、この不毛な土地で金貨を生む鉱脈になり得る。
「欲しいな」
愛の告白にも、品物の査定にも聞こえる声色だった。
「あの騎士から、どうやってあの女王を引き剥がすか……次の手札は、僕が配らせてもらおうか」
男は手のひらの金貨を握り込む。
影の中で、捕食者の笑みが深くなる。
風向きが変わろうとしていることに、川辺の二人はまだ気づいていなかった。




