第二話 作為的計画
翌日、正午より少し前だった。
王都アークライトの北門近くで、クライフェルト侯爵家の紋章を掲げた馬車列が、城壁の影に沈むように並んでいた。白い石畳をかすめる車輪の音が、一定の間隔で続いている。誰かが机の端を指の関節で、とりあえず叩き続けているときの、あの虚しいリズムに似ていた。意味はないのに、止まるとかえって落ち着かない類の音だ。
エリアーナは、そのリズムの内側、黒いカーテンに仕切られた馬車の中で、膝の上の封筒の縁を指先でなぞっていた。羊皮紙の表面は思っていたよりも荒く、削り残された繊維が小さな棘のように立っている。同じ場所を何度もなぞるうちに、そこだけ皮膚が薄く削られていく感覚があった。少し痛いのに、手を止めると余計に気が散る。
濃い紅の封蝋には、クライフェルト家の紋章が押されている。蝋の表面には、父の執務机の傷が細い筋となって逆写しになっていた。宛名欄だけは、白紙のままぽつんと残されている。
――死亡届。
帝国の帳簿から「エリアーナ・クライフェルト」という一行を消すための紙だ。昨夜、父が机の引き出しから出してきたとき、指先にわずかに震えがあった。その震えが封蝋に移ったのか、紋章の輪郭の一部がほんの少しだけ滲んでいる。
(この封が切られて、所定の台帳に転記された時点で――エリアーナ・クライフェルトは死亡。資産と負債はクライフェルト家に戻入。……手続きとしては、簡潔です)
封筒の上に片手を乗せたまま、もう片方の手で胸元を探る。ドレス越しに、細長いガラス瓶の固さが押し返してきた。布と骨のあいだを、小指ほどの細さの硝子が、不自然な異物として挟まっている。
父と二人で昨夜まで調整していた揮発性の強い発火剤だ。本来は崖下で燃え上がる馬車を、遠くからでも分かりやすく見せるための「演出用」だった。父は「帝都は、物語より絵を好む」と言っていた。帳簿でどれだけ説明しても動かない予算が、火と煙の一枚絵にはあっさり付く、と。
車輪の音が、ふっと一段高くなる。止まっていた指が、急に机を叩き始めたような変化だ。馬車がゆっくりと動き出し、北門のアーチの下に入る。石の天井の下をくぐる瞬間、外気が一度冷えた。鼻腔の奥で、冬の鉄の匂いが細く光る。
石畳が途切れ、土の道に変わる。車輪が土を噛む鈍い音が、蹄の音と混ざって低く響いた。王都の喧噪は、あっけないほど短い距離で背後へ遠ざかっていく。人の声の代わりに、風が馬具の金具を揺らすかすかな音が耳に残った。
エリアーナはカーテンの縁を指幅ほど持ち上げた。外の光は、城内よりもいくぶん白い。冬枯れの畑が続いている。麦の切り株が並ぶはずの地面にはところどころ窪みが残り、土が抉られたまま固まっていた。十年前の洪水でえぐられた箇所だ。予算案の表で何度も見た地名が、泥の色と奇妙に重なって見える。
畑の端で、農夫が鍬を振るっていた。背筋は伸びきらず、振り下ろす軌道も浅い。鍬が土に入るたび、乾いた音だけが響く。土が返ってこない。そこだけ映像が早送りされているようで、視線を外しそびれた。
(洪水からの復旧予算を削った結果のひとつ。……教材より分かりやすい現物ですね)
カーテンをそっと下ろす。視界を閉じると、そのぶん音が濃くなった。軋む車軸、革の擦れる音、馬の鼻息。耳の裏側で、勝手に数字の列が組み上がっていく。災害対策費、復旧費、年ごとの減額幅。
封筒は膝の上。胸元にはガラス瓶。対面の座席には、誰も座っていない。父は別の馬車だ。侯爵家の家長には、もう少し「それらしい」箱が用意されている。形式の問題だと分かっていても、その形式が今日限りで役割を終えるという事実の方が、今はよほど形式ばっている。
エリアーナの乗る馬車は列の中ほどにいた。先頭には護衛騎士と、荷物を積んだ簡素な荷車。最後尾には、紋章を大きく掲げた飾り馬車が続いている。窓の外から、馬具の金具が一度だけ高く鳴った。合図の音だ。
街道はやがて、ゆるやかな上りに変わる。北門から北西へ半日ほど行った先で、山を縫うように曲がり始める細い道に入る。表向きには「静養のための山間の別邸」へ向かう行程。地図の上ではそう書かれていた。
道の脇に、樽が見えた。油樽だ。木板を締める鉄輪には、まだ新しい錆が薄く浮いている。エリアーナはカーテンを指幅だけ持ち上げたまま、一本ずつ目で追った。
(……十五)
昨日、倉庫で確認した帳簿上の申請数は「十」。差分五。油樽五本分の予算と、その裏付けになる署名の数。指先が無意識に、膝の上で五まで数えていた。
護衛の顔ぶれも少し変わっていた。見慣れた団の紋章がないマントが混じっている。新調したばかりの革靴。王都の泥がほとんど付いていない。鎧の肩を動かすたび、金属が身体の上でぎこちなく鳴った。借り物の鎧、借り物の身分。
風が、一度ぴたりと止む。鳥の声も、同じ瞬間に途切れた。音の層が一枚剝がれたみたいに、世界が薄くなる。逆に、自分の呼吸の音がうるさく感じられた。
前方で、短い舌打ちの気配がした。
次の瞬間。
「――止まれ!」
怒鳴り声と同時に、馬車が大きく跳ね上がる。片輪が何かを乗り越え、車軸が悲鳴を上げた。座面が斜めに傾き、身体が横へ滑る。頬が窓枠にぶつかり、歯の根がかちりと鳴った。膝の上から封筒が浮きかけ、慌てて手のひらで押さえ込む。
外から、馬の嘶きと兵の叫びが重なって押し寄せてきた。車輪の下で木が折れる音。板が割れる音。金属が石にぶつかって跳ね返る高い音。いちいち区別している余裕はないのに、音だけは妙にくっきりと耳に残る。
衝撃が一度収まり、それとは違う振動が始まった。矢羽が擦れる音。空気を裂く高い音。続いて、木板に何かが突き立つ鈍い音。
馬車の側板に矢が刺さった。内側に木片が飛び散り、頬に冷たい破片が当たる。すぐ後ろの箱から、甲高い悲鳴が一つ上がった。声の主を特定しようとする前に、別の叫びがそれをかき消す。
「火矢だ、離れろ!」
誰かが叫ぶ。その叫びを合図にしたみたいに、視界の片隅が赤く染まり始めた。馬車の幌に火が移っている。布が焼ける匂いが、煙と一緒に狭い空間へ流れ込んできた。
喉の奥がきゅっと縮む。肺が急に重くなる。それでも、手は勝手に動いていた。
膝の上の封筒を胸の内側のポケットに押し込み、ドレスの縫い目をなぞってガラス瓶に指をかける。瓶を引き抜き、細い首の部分を布越しに折った。乾いた音とともに硝子が砕け、揮発性の液体がじわりと指先を濡らす。
匂いが一気に広がった。鼻の粘膜を焼くような鋭い匂い。喉の奥で咳が跳ねかけるのを、舌で押し戻す。
ドレスの裾の一部を掴み、思い切り引き裂いた。高価な布地が嫌な音を立てて裂ける。裂け目から冷気が入り、素肌を撫でた。鳥肌がざっと立つ。
裂いた布片に、液体をざっと振りかける。布が一瞬で重くなり、黒い染みが広がっていく。布片を、燃え始めた幌とは反対側の車内の隅に放り投げた。
数拍のあいだ、心臓の音だけが耳の中で数を刻む。
ぱん、と小さな破裂音。次いで、濃い煙が布片から噴き出すように膨らんだ。灰色と黒の煙が狭い空間を満たし、炎の赤をたちまち呑み込んでいく。視界が真っ黒な壁で塗りつぶされ、喉の奥に鋭い刺激が走った。
(これで、敵も味方も例外なく視界を失います。……公平な処理です)
処理、という言葉が自分の頭の中で浮かんだ瞬間、胃のあたりがわずかに冷えた。この場面にふさわしくない単語だと分かっているのに、他に適切な言葉が見つからない。
反対側の扉の取っ手を探り当てる。熱で膨張した金具が、指先の皮膚をじりじりと焦がした。握力でそれを押し切り、力任せに引き開ける。
開いた先は、崖側だった。
真下には、岩と木々が混じり合った斜面が広がっている。高さを測る暇はない。落ちれば骨折で済むかどうかも分からない。ただ一つ、ここに留まれば焼けるということだけははっきりしている。
馬車はまだ完全には横転していない。
片輪が崖の縁に引っかかったまま、ぎりぎりのところで均衡を保っている。
均衡が崩れる前に外に出る、それだけが猶予だ。
胸元の封筒が、心臓の鼓動に合わせてかすかに動く。紙同士が擦れる、小さな音がした気がした。
エリアーナは一度だけ息を吸い込み、躊躇なく外へ身を投げた。
風が顔を打つ。焼ける布の匂いが一瞬だけ薄れ、冷たい空気が肺に刺さる。視界の端を、燃え上がる馬車の赤が横切っていった。木の枝が折れる音と一緒に、ドレスのあちこちが裂ける感触があった。
斜面の途中で、硬い何かが身体を受け止める。木の根と石が混ざった出っ張りだ。衝撃で肺の空気が全部押し出される。世界の音が一瞬遠ざかり、耳鳴りだけが残った。
転がり落ちる動きが、やがて土と枯葉の摩擦で止まった。背中に冷たい土の感触が広がる。泥と腐葉土と、古い煙の匂い。顔の横で小さな石が転がり、頬に当たった。
(……骨折は、ありませんね)
遅れて、膝の辺りから鈍い痛みがじわじわと湧き上がってきた。足先を動かす。一本ずつ、指の関節を曲げていく。痛い。けれど、「折れている痛み」ではない。昔、庭で木から落ちたときに味わった痛みと、同じ系統だ。
肘を支点に身体を横向きに起こし、周囲を見渡した。崖下は、岩と低木が入り混じった窪地になっている。折れた枝や、落ちてきた木片が散らばっていた。その中に、不自然な形の塊がひとつ。
クライフェルト侯爵が、岩にもたれかかるように倒れていた。
外套の裾には土と血が乾いてこびりつき、布の色がところどころ固まって変色している。胸のあたりには破れた跡があり、その下から覗くシャツの布が赤黒く染まっていた。そこだけ時間が止まったみたいに、色が動かない。
エリアーナは膝をつき、父の口元に耳を近づけた。頬にかすかな呼気が触れる。間隔は長く、不規則だ。数えようとしたわけではないのに、「一、二、三」と呼気のあいだを測っている自分に気づく。
父の目はひらいていた。ただ、光を捉えてはいない。
微かに生体反応が見られるものの、その命が長くないことは明らかだ。
見たくなかった。
それでも、瞳の色が伽藍洞へ変わっていく過程が、焼き付いてしまう。
目を離したいと思えてしまうのに、決して目を離せない。
自分自身がなんで目を背けないのかが、不思議でしょうがない。
それを理解しようと分析しようとする自分が、どうしても嫌いになる。
冷静さを取り繕うとして、無駄な情報ばかりに目が行ってしまうのだ。
なぜ、声をかけない。自分を育ててくれた恩に報いようとしない。
なぜ、小鹿のように体を震わせるのだ。立ち上がれ、立ち上がれ。
そう言い聞かせようとしても、彼女の体は動かない。
「ぅ……ぁっ……」
焦る彼女の鼓膜を父の声がゆらす。
次に彼女の目がとらえたのは、ゆっくりと動いた彼の手であった。
掴んでいた何かを、エリアーナの方へ押し出してくる。
革張りの厚い帳簿だった。角が擦り減り、背表紙の布がところどころ剝がれている。表紙には、見慣れた手書きの題名。
『帝国破産帳簿』
父が長年かけて書き続けてきた、帝国の収支とほころびの記録。書き損じの紙束を、子どもの頃に勝手にぱらぱらとめくって叱られた記憶が、今さら首をもたげる。
エリアーナは帳簿を両手で受け取った。
革表紙の冷たさと、内側に詰まった紙の重みが、手のひらに沈む。
「……持っていけ」
喉の奥で擦れるような低さだった。
言葉と言葉のあいだに、細い空白が挟まる。
「私は……もう…もたん。お前に、託す……」
「……私に、できるのでしょうか?」
「…できるさ」
父はそういって、口を閉ざした。
託された分厚い本を胸元に置きながら、数刻だけ父を見つめる。
すくっと立ち上がると、踵を返していく。
空を見る。空は少しばかりの雲が広がっており、陽も沈みかけている。
じき、夜が来る。夜目の効く人間がいたら自分の命が危ないだろう、そのように彼女は判断した。
ドレスの裾があちこち裂け、泥と血で重くなっている。布が肌に貼りつき、動くたびに冷たい感触を残した。膝と脇腹の打撲から伝わる鈍い痛みが、逆に自分がまだ生きていることを知らせてくる。
「…? これは」
何かが帳簿から落ちる。それは父が愛用していた財布だった。
中には金貨が数枚鈍く輝いているのが見える。
彼女は口をくっとしめてから、裏地を折り畳み自分の荷に加えた。
「……お疲れさまでした」
言い直した声は小さく、窪地の空気にすぐ吸い込まれていった。耳の外では音にならなかったかもしれない。自分の喉の震えだけが、内側で確かに響いた。
崖の上から流れてくる煙は、風に押されて谷の側面に細い層をつくっている。陽光は灰に遮られ、空の色はくすんで見えた。さっきまで自分が乗っていた馬車の位置あたりから、黒い煙がとくに濃く立ちのぼっている。
(あれで、侯爵家一同分の葬送の絵にはなるはずだ。自分が生きているとは、決して悟られないだろう)
帝都の劇場で見た悲劇のラストシーンを思い出す。舞台の奥で燃え上がる城と、その手前で跪く役者たち。安物の煙の匂いと、客席のため息。あれに比べれば、今の方が費用対効果はずっと高い。そう考える自分に、少しうんざりする。
エリアーナは一度だけ崖の上を見上げ、それから斜面を横へ移動し始めた。上へ戻る方向ではない。岩を踏み、木の根を掴み、斜面に残っている踏み跡をなぞる。かつて鉱山へ続いていた旧道が、このあたりから谷を巻くように伸びているはずだ。
少し進んだ先で、崩れた石積みと半ば埋もれた道形が見つかった。雑草が繁っているが、人ひとりが通れる隙間は残っている。
腕の中の帝国破産帳簿を再度、力強く抱え直す。
革表紙が肋骨に当たり、硬さが身体の中心をもう一度縦に通り抜ける。
胸元の封筒が、帳簿と自分のあいだで薄くきしむ。
斜面の上方から、風に乗った声が届いた。
「……こりゃ助かっちゃいねえな。樽の火が移って、馬車ごと真っ黒だ」
「侯爵の娘は? 顔が分かるか」
「燃え方を見ろ。女物の靴と髪飾りはあった。十分だろ」
「そうか。じゃあ、これで完了だな」
「あぁ、それでいいだろ――」
言葉の残りは、煙と木々のざわめきに紛れて聞き取れなかった。上の世界は、もう「事故」として話をまとめ始めている。話し合いの速さに妙な感心すら覚える。
同時に、感謝した。
帝国の結論しか見ない主義は、結果的に杜撰さを生み出すのだから。
(エリアーナ・クライフェルト、死亡。原因:山道での事故…行方不明の理由は、森に落下したって処理でもされるのでしょうか)
少しばかり考察しながら、彼女は獣道ですらない道を駆ける。
岩場を抜けると、傾斜が緩やかになった。獣道に近い細い道が、谷を巻くように続いている。そこから先は、帝都の税区の線がまだ引かれていない領域だ。
エリアーナは、崖の方角へ一度だけ振り返った。
山の稜線のあたりに、黒い煙が細く伸びている。
口の中に、煤の味が残っていた。小さく息を吸い、前を向く。
火の匂いを背に、彼女は歩き出した。
どこへ行くのかは、まだ決めていない。
ただ、足が勝手に前へ出る。
一歩。
もう一歩。
靴底と土が触れるたび、心の中で数を打つ。
一、二、三――と。
彼女は静かに歩いていく。




