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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第十二話 冷たい帳簿(2)

 シュアラは、鍋の縁をそっと撫でながら答えた。


「今ここで『足りないから諦めろ』って言えば、この村は次から、自分たちで生き延びる方法を探します」

「……盗みか」

「それもあります」


 彼女は、鍋の中を覗き込みながら続ける。


「あるいは、砦を見捨てる。北の街へ逃げる。蛮族と手を組む。選択肢はいくつもあります」


 ゲルトは、何も言わなかった。


「『砦は、ぎりぎりでもこっちの命を数に入れる』と一度でも伝えられれば、次の選択が変わる可能性があります」


 ひしゃくで薄いスープを少しすくい、砦から持ってきた水袋の水を足して温度をなじませる。


「これは、その最初の一回目です」


 トマスの体には、少しずつ震えが戻ってきていた。

 ぬるい湯を少しずつ唇に含ませる。

 喉は弱々しいが、ちゃんと飲み込もうと動いている。


「よし、その調子だ」


 いつの間にか近くに来ていたカイが、低く声をかけた。

 外套には雪と煙の匂いが染みついている。

 彼は村の被害と、敵の足跡を一通り見てきたのだろう。


「敵は?」


 シュアラは湯飲みを支えながら尋ねた。


「足跡の深さと幅からして、十人前後だな」


 カイは、村の端を顎で示す。


「森の手前で馬を降りて、あとは走り。家畜をさらって、麦を半分。村の男とやり合って、一人斬って退いた」


 斬られたのは、布の下に眠る男だ。


(“ゼロ”は、もう崩れている)


 事実として、受け入れるしかない。


(でも、“これ以上増やさない”ゲームは、まだ終わっていません)


「文官」


 カイが視線を向ける。


「この村に、どれだけ出せる」


 その問いには、二つの意味があった。

 物として、どれだけ。

 そして、砦の首をどこまで差し出せるか。


「……帳簿上の限界は、見ています」


 シュアラは小さく息を吸う。


「麦なら――今の在庫と冬までの日数と、砦と三つの村の胃袋の数を合わせて、“全員から一日ぶん”ずつ削る余地が二十日ぶんあります」


「一日……?」


 ゲルトが眉をひそめる。


「誰のだ」

「全員のです」


 シュアラは答えた。


「兵も、砦の使用人も、他の村も。全員の皿から、一日だけ少しずつすくって集める。それを、この東の村の『今日から十日』に回します」


「バカ言え」


 ゲルトが吐き捨てる。


「ただでさえぎりぎりだって言ってんだろ。これ以上減らしたら、今度は砦が倒れる」

「だから、『一日だけ』です」


 シュアラは彼を見た。


「一日より多くは削りません。削れません。それ以上やったら、今度は本当に砦が死にます」


 カイは腕を組んだまま、黙って彼女を見ていた。

 シュアラは続ける。


「十日分の猶予があれば、この村は組み直せます」

「組み直す?」

「はい。今日奪われた家畜と、残った畑と、人手。砦からの支援条件です」


 地面の雪を指先でなぞりながら、簡単な円と線を描く。


「それを全部まとめて、『誰も死ななくて済む線』を一緒に探します」


 村の男たちの表情が、半信半疑と、それでも掴みたい期待で揺れた。


「もちろん、これは賭けです」


 シュアラは言った。


「今日、ここで私が出す線が間違っていれば、冬までに砦ごと凍えます」


 誰かが小さく息を呑んだ。

 自分で言っておきながら、シュアラの背中にも冷たいものが走る。


「でも――」


 彼女は、トマスとリナを見る。


「ここで一度も賭けないなら、“七割は死ぬ”という帝都の予測どおりになります」


 少しだけ、自分でも驚く言葉が口から出た。


「嫌です。私は、父の帳簿どおりに死にたくありません」


 その一言に、あたりの空気が変わった。

 カイが、ゆっくりと息を吐く。


「……お前、本当に怖えな」


 ゲルトとは違う温度で、同じ言葉を繰り返す。


「はい。よく言われます」


 シュアラが返すと、カイは口の端をわずかに上げた。


「そういう意味じゃねえ」


 彼は頭をかき、村の男たちに向き直る。


「聞いたな」


 冬の空気を震わせる声。


「十日分。砦と他の村から、一日だけ少しずつ引っぺがして、ここに持ってくる」


 男たちの顔に、驚きと戸惑いと、それでも消しきれない期待が走る。


「その代わりだ」


 カイの声が、少しだけ鋭くなる。


「その十日の間に、できることは全部やれ。畑を起こせ。小屋を直せ。木を切れ。“まだ生きるつもりがあります”って証拠を、軍師殿に全部見せろ」


 ゲルトが横で小さく吹き出した。


「若、今はっきり“軍師”って呼んだぞ」

「黙ってろ」


 カイは肩をすくめ、シュアラに視線を投げる。


「いいか、文官」

「はい」

「お前のその“死者ゼロ”ってやつ、気に入らねえ。だが、一度くらいは乗ってやる」


 彼は短く笑った。


「ここで、“最初の一人”を救え」


 シュアラは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


「了解しました、団長」


 夕方には、トマスの唇の色は、薄い青から鈍い赤へと変わっていた。

 指先の感覚は完全ではないが、命に関わるほどの危うさはもうない。


「……団長」


 かすれた声で、トマスが呼んだ。


「なんだ」


 カイが膝をつく。


「すみません……俺、もっと早く、狼煙……」

「バカ」


 カイは、迷いなく額を小突いた。


「お前が走ったから、俺たちはここに来れたんだろうが。謝るのは、遅れた俺たちの方だ」


 トマスの目から、じわりと水が滲んだ。

 それが涙なのか、溶けた雪なのかは分からない。

 その隣で、リナが小さな木椀を握っている。

 中には、薄いが温かいスープが少しだけ。


「……あのね、トマス」


 少女は、椀を胸に抱きしめながら言った。


「私、今日、あったかいの飲んだよ。お腹いっぱいまではいかないけど」

「そうか」


 トマスの手が毛布の下から伸び、少女の頭をそっと撫でる。


「よかったな」

「うん」


 そのやり取りを、少し離れたところから見ていたシュアラの手が、ゆっくりと手帳を開いた。

 ページの端に、小さく書き込む。


『東の村襲撃 ケース1

 到着時点の死者:1

 危険度高の者:2名(トマス/リナ)

 介入後の追加死者:0(暫定)』


 書きかけて、ペン先が止まる。

 続きは、丁寧な言葉ではなく、短く乱暴な言葉にした。


『今回ぶん:勝ち』

「何書いてる」


 隣から、カイの声がした。


「記録です」


 シュアラは手帳を少しだけ傾ける。


「この冬の“最初の勝ち”です」


 カイは一瞥して、ふっと鼻で笑った。


「ずいぶん子どもっぽい字だな。“勝ち”ってよ」

「分かりやすくしておかないと、あとで集計しづらいので」

「そういうとこだけ子どもで、そういうとこだけ仕事人なんだよな、お前」


 カイは立ち上がり、空を見上げた。

 東の空は、もう群青に染まり始めている。

 遠く、ヴァルム砦の方向に、かすかに煙が立っているのが見えた。夕餉の火だ。


「帰るぞ」

「はい」


 シュアラは手帳を閉じ、懐に戻した。

 村の男たちは、壊れた納屋の前で何かを話し合っている。

 リナはトマスの毛布の端をぎゅっと掴んだまま、こちらを見て、ぺこりと小さく頭を下げた。


 その仕草が、数字にならない何かを胸に残す。

 名前はまだ分からない。ただ、失いたくない種類のものだと思った。

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