第十二話 冷たい帳簿(2)
シュアラは、鍋の縁をそっと撫でながら答えた。
「今ここで『足りないから諦めろ』って言えば、この村は次から、自分たちで生き延びる方法を探します」
「……盗みか」
「それもあります」
彼女は、鍋の中を覗き込みながら続ける。
「あるいは、砦を見捨てる。北の街へ逃げる。蛮族と手を組む。選択肢はいくつもあります」
ゲルトは、何も言わなかった。
「『砦は、ぎりぎりでもこっちの命を数に入れる』と一度でも伝えられれば、次の選択が変わる可能性があります」
ひしゃくで薄いスープを少しすくい、砦から持ってきた水袋の水を足して温度をなじませる。
「これは、その最初の一回目です」
トマスの体には、少しずつ震えが戻ってきていた。
ぬるい湯を少しずつ唇に含ませる。
喉は弱々しいが、ちゃんと飲み込もうと動いている。
「よし、その調子だ」
いつの間にか近くに来ていたカイが、低く声をかけた。
外套には雪と煙の匂いが染みついている。
彼は村の被害と、敵の足跡を一通り見てきたのだろう。
「敵は?」
シュアラは湯飲みを支えながら尋ねた。
「足跡の深さと幅からして、十人前後だな」
カイは、村の端を顎で示す。
「森の手前で馬を降りて、あとは走り。家畜をさらって、麦を半分。村の男とやり合って、一人斬って退いた」
斬られたのは、布の下に眠る男だ。
(“ゼロ”は、もう崩れている)
事実として、受け入れるしかない。
(でも、“これ以上増やさない”ゲームは、まだ終わっていません)
「文官」
カイが視線を向ける。
「この村に、どれだけ出せる」
その問いには、二つの意味があった。
物として、どれだけ。
そして、砦の首をどこまで差し出せるか。
「……帳簿上の限界は、見ています」
シュアラは小さく息を吸う。
「麦なら――今の在庫と冬までの日数と、砦と三つの村の胃袋の数を合わせて、“全員から一日ぶん”ずつ削る余地が二十日ぶんあります」
「一日……?」
ゲルトが眉をひそめる。
「誰のだ」
「全員のです」
シュアラは答えた。
「兵も、砦の使用人も、他の村も。全員の皿から、一日だけ少しずつすくって集める。それを、この東の村の『今日から十日』に回します」
「バカ言え」
ゲルトが吐き捨てる。
「ただでさえぎりぎりだって言ってんだろ。これ以上減らしたら、今度は砦が倒れる」
「だから、『一日だけ』です」
シュアラは彼を見た。
「一日より多くは削りません。削れません。それ以上やったら、今度は本当に砦が死にます」
カイは腕を組んだまま、黙って彼女を見ていた。
シュアラは続ける。
「十日分の猶予があれば、この村は組み直せます」
「組み直す?」
「はい。今日奪われた家畜と、残った畑と、人手。砦からの支援条件です」
地面の雪を指先でなぞりながら、簡単な円と線を描く。
「それを全部まとめて、『誰も死ななくて済む線』を一緒に探します」
村の男たちの表情が、半信半疑と、それでも掴みたい期待で揺れた。
「もちろん、これは賭けです」
シュアラは言った。
「今日、ここで私が出す線が間違っていれば、冬までに砦ごと凍えます」
誰かが小さく息を呑んだ。
自分で言っておきながら、シュアラの背中にも冷たいものが走る。
「でも――」
彼女は、トマスとリナを見る。
「ここで一度も賭けないなら、“七割は死ぬ”という帝都の予測どおりになります」
少しだけ、自分でも驚く言葉が口から出た。
「嫌です。私は、父の帳簿どおりに死にたくありません」
その一言に、あたりの空気が変わった。
カイが、ゆっくりと息を吐く。
「……お前、本当に怖えな」
ゲルトとは違う温度で、同じ言葉を繰り返す。
「はい。よく言われます」
シュアラが返すと、カイは口の端をわずかに上げた。
「そういう意味じゃねえ」
彼は頭をかき、村の男たちに向き直る。
「聞いたな」
冬の空気を震わせる声。
「十日分。砦と他の村から、一日だけ少しずつ引っぺがして、ここに持ってくる」
男たちの顔に、驚きと戸惑いと、それでも消しきれない期待が走る。
「その代わりだ」
カイの声が、少しだけ鋭くなる。
「その十日の間に、できることは全部やれ。畑を起こせ。小屋を直せ。木を切れ。“まだ生きるつもりがあります”って証拠を、軍師殿に全部見せろ」
ゲルトが横で小さく吹き出した。
「若、今はっきり“軍師”って呼んだぞ」
「黙ってろ」
カイは肩をすくめ、シュアラに視線を投げる。
「いいか、文官」
「はい」
「お前のその“死者ゼロ”ってやつ、気に入らねえ。だが、一度くらいは乗ってやる」
彼は短く笑った。
「ここで、“最初の一人”を救え」
シュアラは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「了解しました、団長」
夕方には、トマスの唇の色は、薄い青から鈍い赤へと変わっていた。
指先の感覚は完全ではないが、命に関わるほどの危うさはもうない。
「……団長」
かすれた声で、トマスが呼んだ。
「なんだ」
カイが膝をつく。
「すみません……俺、もっと早く、狼煙……」
「バカ」
カイは、迷いなく額を小突いた。
「お前が走ったから、俺たちはここに来れたんだろうが。謝るのは、遅れた俺たちの方だ」
トマスの目から、じわりと水が滲んだ。
それが涙なのか、溶けた雪なのかは分からない。
その隣で、リナが小さな木椀を握っている。
中には、薄いが温かいスープが少しだけ。
「……あのね、トマス」
少女は、椀を胸に抱きしめながら言った。
「私、今日、あったかいの飲んだよ。お腹いっぱいまではいかないけど」
「そうか」
トマスの手が毛布の下から伸び、少女の頭をそっと撫でる。
「よかったな」
「うん」
そのやり取りを、少し離れたところから見ていたシュアラの手が、ゆっくりと手帳を開いた。
ページの端に、小さく書き込む。
『東の村襲撃 ケース1
到着時点の死者:1
危険度高の者:2名(トマス/リナ)
介入後の追加死者:0(暫定)』
書きかけて、ペン先が止まる。
続きは、丁寧な言葉ではなく、短く乱暴な言葉にした。
『今回ぶん:勝ち』
「何書いてる」
隣から、カイの声がした。
「記録です」
シュアラは手帳を少しだけ傾ける。
「この冬の“最初の勝ち”です」
カイは一瞥して、ふっと鼻で笑った。
「ずいぶん子どもっぽい字だな。“勝ち”ってよ」
「分かりやすくしておかないと、あとで集計しづらいので」
「そういうとこだけ子どもで、そういうとこだけ仕事人なんだよな、お前」
カイは立ち上がり、空を見上げた。
東の空は、もう群青に染まり始めている。
遠く、ヴァルム砦の方向に、かすかに煙が立っているのが見えた。夕餉の火だ。
「帰るぞ」
「はい」
シュアラは手帳を閉じ、懐に戻した。
村の男たちは、壊れた納屋の前で何かを話し合っている。
リナはトマスの毛布の端をぎゅっと掴んだまま、こちらを見て、ぺこりと小さく頭を下げた。
その仕草が、数字にならない何かを胸に残す。
名前はまだ分からない。ただ、失いたくない種類のものだと思った。




