第十二話 冷たい帳簿(1)
ヴァルム砦から東の村までは、馬で小一時間。
数字でそう分かっていても、今はやけに遠く感じられた。
冬前の風はまだ「本番」ではないはずなのに、頬を削ぐ刃物みたいに冷たい。
シュアラは鞍の上で揺られながら、手綱を握る指に力を込めた。
(……揺れる。高い。怖い)
乗馬は、得意ではない。
帝都の行列で、飾りのように乗せられたことはあっても、こうして本気の速度で駆けるのは数えるほどだ。
馬が足元の雪を蹴るたび、体がふわりと浮いて、腹の底がひやりとする。
(落ちたら、死亡予定者が一人増えます。最も…貢献度はまだ低いので損害はでかくないですがね)
自分のことなのに、つい他人事のように「予定者」と数えてしまう。
その癖が、まだ抜けない。
「若、雪が固まりかけてる。足取られるぞ!」
風の向こうから、ゲルトの怒鳴り声が飛んだ。
先頭では、カイが黒い外套を翻して馬を走らせている。
その少し後ろにゲルト。第一班と第五班の兵がつらなり、徒歩組も雪を蹴って走る。
「分かってる!」
カイは短く怒鳴り返し、速度をわずかに落とした。
それでも、雪煙は高く上がったままだ。
さっき見えた狼煙は二本。
この辺境で、その意味はひとつしかない。
襲撃だ。
頭の中で、手帳の文字が自動的に浮かぶ。
砦から東の村までの距離。
普段、商人の荷車がかかる時間。
狼煙が上がってから、自分たちが門を出るまでに食った時間。
全部を掛け合わせた結果が、重く胸に沈んだ。
(……間に合う可能性は、低い)
冷たい数字が、淡々と結論を出す。
その冷たさに、ほんの少しだけ腹が立った。
(だからこそ、拾えるものは全部拾います)
全部は救えない。
それは知っている。
けれど――だからといって、最初から諦めるのも、性に合わなかった。
東の村は、森と丘の境目にへばりつくように広がっていた。
藁葺きの屋根。石積みの低い塀。
その端っこに、狼煙台と見張り台がちょこんと乗っている。
近づくにつれ、鼻をつく匂いが変わった。
ただの煙ではない。焦げた木の匂い。
それに混じって、冷えた血の鉄臭さ。
ひときわ大きな家の屋根が、半分黒く焼け落ちていた。
別の納屋は戸が打ち破られ、干し草が雪の上にぶちまけられている。
肉の匂いは、しない。
(家畜は、持っていかれましたね)
馬を降りながら、シュアラはそう見積もった。
「……遅かったか」
隣で、カイが低く呟く。
村の男たちが、こちらへ駆け寄ってきた。
袖のほつれた上着。泥で重くなった靴。
顔には、眠れていない目の下のくまが刻まれている。
「団長!」
最初に声を張り上げたのは、東の村のまとめ役らしい初老の男だった。
「来てくださったのはありがてえが……遅えよ。家畜は持ってかれた。納屋の麦もだ」
「おせえよ……もう手遅れだ……終わりだ……」
その声に、周りの男たちが「そうだ」「全部だ」と重ねる。
言葉の端々に、感謝と怒りがぐちゃぐちゃに混ざっている。
「怪我人は」
カイは謝罪も言い訳も飛ばした。
「何人だ」
「大怪我が三人、小さいのが……五、六……だと思う」
村の男の声がかすれる。
「一人、もう……」
視線の先を追うと、雪の上に粗末な布が一枚掛けられていた。
その下から伸びた足は、もう動かない。
真っ白な雪に、赤黒い染みが薄く広がっている。
シュアラは、そこから視線を逸らさなかった。
(“想定内の損耗”)
帝都の書類で何度も見た言葉が、頭の中をよぎる。
胸の奥で、何かがぞっとした。
(……違います)
ここでその言葉を使えば、自分は父と同じになる。
「文官」
カイの声が、内側の声を断ち切った。
「見て回れ。怪我人と、麦と、薪。俺は足跡と、こいつらがどこから来たかを見る」
「はい」
シュアラは頷いた。
まず、怪我人。
次に、食糧と燃料。
最後に、これから十日間で死にかねない人間。
(優先順位は、それでいいはずです)
自分に言い聞かせるように、村の中へ足を踏み入れた。
焼け落ちた屋根の影。
半分崩れた壁にもたれさせるように、若い男が座らされていた。
年は二十に届くかどうか。
粗末な革鎧の上に掛けられた毛布は、雪と汗でびしょ濡れだ。
唇は青く、指先は紫色に変わっている。
毛布の端から覗く爪の色が、嫌な色をしていた。
「こいつが、狼煙を上げに走ってくれた見張りだ」
隣でしゃがんでいた村の男が言った。
「丘の上でしばらく倒れてたのを、さっき仲間が見つけてな。引きずって戻ってきた……が、厳しいな」
近くの雪には、人影が何度も転んだ跡が、ぐちゃぐちゃに残っている。
(体温の低下。指先の色。震え)
帝都の学舎で読んだ医学書の断片が、勝手に引き出される。
(凍傷と低体温の境目。ここを外せば、一人分の労働力と、一人分の冬が消えます)
彼女の視線に気づいたのか、若い男が、かすかに片目を開いた。
「……誰、だ」
「ヴァルム砦の文官です」
シュアラは答える。
「名前は?」
「トマス……東の見張り、で……」
言葉の途中で、歯ががちがちと鳴った。
「喋らなくて構いません」
シュアラは、濡れた毛布に手を伸ばした。
「まず、これを替えます」
「待て」
背後から、低い声が刺さる。
振り向くと、ゲルトが立っていた。
腕組みをしたまま、眉間に思い切りしわを寄せている。
「濡れたままなのは分かるがな。替えるって言っても、ここに乾いた毛布は余ってねえ」
「砦の馬の毛布を外して使ってください」
シュアラは即答した。
ゲルトの眉が跳ね上がる。
「あ? 嬢……軍師殿よ。馬が寒さで動けなくなったら、そいつを運ぶ脚もなくなるんだぞ。頭だけじゃ動かねえんだ」
「分かっています」
自分でも少し驚くほど、声が強く出た。
「馬は厚い毛皮を持っています。兵より寒さに強い。今この場で、動けなくなる可能性が一番高いのは彼です」
トマスの指先をつまむ。
冷たさと固さで、判断ははっきりしていた。
「馬一頭の行軍能力が少し落ちるリスクと、兵一人分の行軍能力を完全に失うリスク。
どちらが高いか、という話です」
ゲルトはしばらくシュアラを睨んで、それから乱暴に鼻を鳴らした。
「……チッ。分かったよ」
踵を返し、外で馬をつなぐ兵に怒鳴る。
「おい! 馬の毛布を一枚持ってこい! 文官様のご下命だ!」
言い方は嫌味だったが、声には従う気配が混じっていた。
シュアラはトマスに向き直る。
「指先の感覚は、まだありますか」
「……あんまり……」
「あとで、もう一度確認します」
濡れた毛布を慎重に外し、代わりに持ってこられた厚い毛布を掛ける。
肩と胸に手を滑らせて、服の濡れ具合を確かめる。
胸のあたりに耳を寄せる。
鼓動は遅いが、まだ一定のリズムを刻んでいる。
間に合うかもしれない。思う刹那、口が開く。
「ぬるい湯が要ります」
シュアラは振り返る。
「熱すぎても駄目です。内臓が追いつきません」
「そんな都合のいい湯、どこにある」
村の男が苛立ちを隠さず言いかけて、ふと口をつぐんだ。
村の真ん中の広場に、大鍋が一つ。
襲撃の前に煮ていたであろうスープの鍋だ。中身はほとんど残っていないが、鍋肌にはまだ温もりが残っている。
「砦から持ってきた水袋を入れれば、ちょうど良くなります」
シュアラは言った。
「ついでに、彼に飲ませる分とは別に、子どもたちにも少し」
「子ども?」
村の男が眉をしかめた、その時だった。
焼け跡の向こうから、小さな影がとてとてと歩いてきた。
薄茶色の髪を二つに結んだ少女。
年は七つか八つ。大人用の上着を着せられていて、袖口から出た手首は、枝みたいに細い。
「おじちゃん、、、 ……死んじゃう?」
少女は、トマスの顔を覗き込んだ。
口元には、乾いたパン屑が少しだけくっついている。
それが今日の全部の食事だったのだろうと、シュアラは推測した。
「リナ、あっちで寝てろって言ったろ」
村の男――父親だろう――が慌てて娘の肩を掴む。
「でも……」
少女の視線が、トマスとシュアラの間で揺れる。
シュアラは、その瞳の色を知っていた。
(『予算が足りないので、今年はここまでです』)
父の机の前で、何度も聞いた言葉。
そして、そのたびに硬くなる、大人たちの顔と、静かに肩を落とす誰かの背中。
(帳簿の外側に置かれると、人はこういう目をします)
父は間違っていなかった。
帝都という巨大な盤面では、それが“正しさ”のひとつだった。
でも。
(ここは帝都ではありません)
砦と、三つの村と、商隊がたまに通る細い道。それが今の世界の全部。
盤面が小さいなら――
(小さい盤面では、“ゼロ”に喧嘩を売るくらいはしてもいい)
心の中で、父の言葉を書き換える。
『どこまで切り捨てるか』ではなく。
『どこまでなら切り捨てないで済むか』を決める。
「リナさん」
少女の名を呼ぶと、彼女は肩をびくりと震わせた。
「あなたも、少し暖かいものを飲んでください」
「……私? でも、そんな」
「あなたのお腹が空いていると、トマスさんが落ち着けません」
シュアラは、数字にならない理屈を口にした。
「見張りをしている人は、守る相手が倒れているのを見るのが一番こたえます。
村の子どもが震えているのを見たら、きっと安心できません」
リナの目が、わずかに揺れる。
「……トマス、心配する?」
「ええ。とても」
少女は、少し考えてから、こくりと頷いた。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
「ちょっとだけで、十分です」
シュアラは立ち上がり、鍋の方へ歩き出した。
背後で、ゲルトが小さく舌打ちする。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「お前な。兵一人とガキ一人のために、そんなにあれこれ使ってたら、すぐ底が見えるぞ」
「見せなきゃいけない底もあります」




