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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第十話 情け感情は罰のために(1)

 夜の冷え込みは、昼間のそれとは別の生き物みたいだった。肺の奥まで入り込んだ空気が、骨の内側をぎゅっと掴んでくる。ヴァルム砦の中庭にはもう人影はほとんどなく、外壁の上で見張りが交代する鎧の擦れる音だけが、間延びした残響になって石壁を回っていた。


 執務棟の一室だけ、窓の奥に灯りが浮かんでいる。そこだけが、湿った石の廊下から切り離された小さな島のように見えた。


 その灯りの真下で、シュアラは紙の山に囲まれている。昼間に作った新しい在庫表、古びた帳簿、第三倉庫の出入り記録。紙の端には指の脂と埃が薄く染み込み、重ねるたびに、少しだけざらついた音がした。


 その上に散らばる赤インクの点が、今は小さな発疹にしか見えない。放っておけば、いずれ壊疽になる種類の。


(……ここだけ、やはりおかしい)


 第三倉庫の糧秣棚。夜番の時間帯に限って、帳簿より袋の減りが一つ分ずつ早くなる。昼間の「在庫調査ゲーム」で洗ったほかの棚は、誤差と呼んでいい範囲に収まっていた。


 赤い点だけが、一列に並んでいる。


 シュアラは息を細く吐き、欄外に短く書き込んだ。


『第三倉庫 夜間持ち出し ×3』


 そこから矢印を伸ばし、夜番の勤務表に赤で印を付ける。


『西門夜番C班と一致』


 ペン先が紙をひっかく乾いた音が部屋に残った。指先が冷えすぎて、インクの重みが普段より少しだけ重く感じる。


(三日連続。そろそろ「偶然」という言い訳の賞味期限が切れる頃合いですね)


 喉の奥でその結論を転がしてから、シュアラは椅子を引いた。外套を肩にかけ、いつもの手帳とペンを懐に滑り込ませる。椅子の脚が床石を擦る音が、夜の静けさの中で妙に大きく響いた。


 扉を開けると、廊下の冷気が肌に薄く貼り付いてくる。灯りの間引かれた燭台からは、熔け残りの蝋の匂いが微かに立っていた。


 執務室の角を曲がろうとしたところで、反対側から足音が近づいてくる。


「若」


 副団長ゲルトの声だ。彼はいつもの癖で手に持っていた小さな帳簿をぶんぶん振り回しながら現れ、歩みを止めた。髭の間に紙埃が一粒ひっかかっている。


「お前んとこに追加の記録を持ってきたんだがよ……その顔は、もうなにか嗅ぎつけた顔だな?」


 問いと同時に、彼の視線がシュアラの手元の紙束へと落ちる。


 シュアラはほんの一瞬だけ指先を握り直し、それから頷いた。


「可能性の段階です」


「……嫌な言い回しだな」


 ゲルトが片眉を上げる。彼の手の中の帳簿が、わずかにきしんだ。


「第三倉庫の糧秣棚。夜番C班の時間に限って、減り方が早い日が三日続きました。一晩で袋一つぶん程度ですが、冬前のこの時期に三つ減ると、計算が変わります」


 数字を言いながら、自分の舌の動きがいつもより滑らかなことに気付く。眠気が完全に引いていた。


 ゲルトは額にしわを寄せ、舌打ちを一つ。


「西門第三班だな。ラルスのところだ。前から『ちょろまかしてねえか』って噂はあったが……」


 噂、という言葉に、シュアラは瞬きの回数を一度だけ増やした。


(噂は証拠になりません。けれど、視線の向け方の参考値にはなります)


 彼女は視線をゲルトのマグカップに一瞬だけ落とし、縁にこびりついた酒の跡を眺め、それから言葉を選んだ。


「団長に、立ち会っていただきたいのですが」


「今か?」


 ゲルトの声には、明らかに眠気が混じっている。


 シュアラは廊下の窓の外、沈みかけた月の位置を一度だけ確かめた。


「はい。今夜も同じ時間に同じ棚が減れば、『偶然』ではなくなります」


 副団長は頭をがしがし掻き、大きなあくびを一度飲み込んでから、肩を回した。


「……ったく。昼も夜も、文官にこき使われるとはな」


 文句を吐きながらも、踵はもう砦の奥へ向いている。


「若は先に第三倉庫の影で待ってろ。団長は俺が引きずり出してくる」


 そう言い残して、ゲルトはマグカップと帳簿を片手に闇へ消えた。


 外へ出ると、夜気が皮膚に小さな針を刺したように触れてくる。ヴァルム砦の中庭は、昼間の騒がしさをすべて飲み込んで、石と風の匂いだけを残していた。第三倉庫と西門のあいだは月の光が届かず、黒い布で雑に縫い付けたような影が広がっている。


 シュアラは、その影の中に身を滑り込ませた。石壁に背中を預けると、冷えが外套越しに背骨へゆっくり食い込んでくる。


(この寒さが、もう少しだけ増えれば、食糧を削られた兵や村の家族から順番に倒れていく)


 昼間計算した数字が、自然と頭の中に浮かぶ。扉の開閉回数。倉庫の棚に並ぶ袋の数。村から上がってくる配給の申請。どれがひとつ欠けても、その穴は誰かの胃袋に直結する。


 足元の砂利が、風に押されてかすかに転がった。


 やがて別の足音が混じる。


「本気で、こんな時間にやるのかよ」


 低い声。カイのものだ。


 振り向くと、ゲルトの後ろで団長が外套の襟を荒っぽく握りしめて立っていた。黒曜石のような髪は相変わらず寝癖混じりだが、近づいてきた時に鼻をくすぐる酒の匂いは薄い。


「団長」


 声をかけると、カイは顎をしゃくった。


「説明しろ」


 短い要求。いつものことだ。


 シュアラは手帳を開き、ページの端に爪を立ててから、数字を見せるように向きを変えた。


「第三倉庫の糧秣棚です。夜番C班の時間帯に限って、帳簿より一晩に袋一つぶん減っています。同じ種類の袋が三日続けて」


 彼女の息が白くほどけ、紙の上に薄く落ちる。


「量としては些細ですが、冬までの残り日数で換算すると、『兵数一人ぶん三十日』がそのまま消えたのと同じです」


 ゲルトが舌打ちをもう一つ。


「夜番C班は、西門第三班。ラルスのところだ」


 カイの目が、暗がりの中でわずかに細くなる。


「見てから判断する」


 それだけ言って、彼は倉庫の影に身を寄せた。ゲルトは反対側の影へ回り込み、石壁に片肩を預ける。


 静寂が落ちた。


 時間を数えるための砂時計はここにはない。シュアラは代わりに、自分の脈を数えた。指先の血管が、冷えた皮膚の下で小さく跳ねる。


(あと二十拍)


(十五)


(十)


 きしり、と木が擦れる音がした。


 第三倉庫の扉が、内側から猫一匹が抜けられるほどの隙間だけ開く。灯りは持ち出されていない。暗闇から、肩幅の広い影がにじむように現れた。


 両腕に干し肉と押し麦の袋を一つずつ抱え、さらに肩と腰に細い袋をくくりつけている。動くたびに袋の口から肉の乾いた匂いが漏れ、それが夜の冷たさと混ざって、妙に生温い香りになった。


 その瞬間、カイの声が落ちる。


「おい」


 短い音なのに、石壁のあいだで重く響いた。


 影の足が止まる。兵の顔がこちらを向いた。月の光の届かない暗がりでも、目が大きく見開かれたのは分かる。


「どこへ行く」


「だ、団長……!」


 兵は慌てて袋を肩から外そうとして、逆に紐を引っ掛けた。片方の袋が地面に落ち、鈍い音と共に押し麦が少しだけこぼれる。


「これは……その、西の村に。子どもがいる家が、今夜の配給を取りに来られなくて──」


「西の村への配給は、日中に終わっています」


 シュアラは一歩前へ出て、淡々と言葉を差し込んだ。


「追加配給の申請は、今日一日、帳簿には上がっていません」


 兵の喉が、ごくりと鳴る。冷えた空気の中で、その音だけがやけに生臭く感じられた。


「報告を……わ、忘れて……」


「三日連続でか?」


 ゲルトの声が低く落ちる。


「三日前からだ。同じ時間に、同じ種類の袋が、同じぶんだけ減ってる。全部、お前の番だ」


 兵の肩がびくりと震えた。腰に巻いた紐がほどけかけ、袋の口が少し開く。乾いた穀物の匂いが、夜気の中で一瞬だけ濃くなった。


(言い訳の余地は、薄い)


 シュアラは、その匂いの変化を嗅ぎながら、静かに判断を下した。


 カイが前へ一歩出る。


「名前」


「……ラルスです」


 答える声は、冷えた石畳の上に落ちて、すぐに消えた。


「家族は」


 一拍の間があく。そのあいだに、ラルスの視線が倉庫と門の方を行き来する。


「西の村に、妻と……子どもが一人」


「ここから村まで、夜にその荷物を抱えて往復して、戻るまでにどれくらいかかる」


 カイの声は平板だ。だが、その平らな声の下で、筋肉が膨張しているのが、暗闇越しにも分かる。


「……一刻。馬があれば、もう少し早く──」


 言い切る前に、カイの拳が動いた。


 夜気が一瞬だけ押しのけられる。


 短く、乾いた音。


 ラルスの頬がはじけ飛び、体が石畳の上を滑った。袋が転がり、中身の押し麦がざらざらと地面に散らばる。シュアラの心臓が、一拍ぶん跳ね上がった。


(速い)


 動きそのものは予測できた。殴る可能性は事前に計算に入れていた。ただ、その速度と重さに、自分の手が追いつかなかった。


 ラルスは声にならない声を漏らし、口から血を吐いた。鉄の匂いが、さっきまでの干し肉の匂いを塗りつぶす。歯が一本、石畳の上を転がってから、押し麦の中に沈んだ。


「門を捨てるついでに、砦も売る気か」


 カイの声は低い。怒鳴り声ではないのに、耳の奥を殴られたような圧がある。


「てめえ一人の事情で、夜の門を空けて、飯を抜かれた兵と村をまとめて危険に晒す。……いい度胸だな」


「ち、違……っ、俺は、家族が……」


 ラルスは血で湿った唇を震わせる。


「その『家族』とやらが、てめえ以外の兵を守ってくれんのか?」


 カイはラルスの胸倉を掴み上げた。ごつい指が布ごと胸を締め上げ、ラルスの足先が少し浮く。


 その顔は恐怖と悔しさでぐしゃりと歪んでいる。だが、そのどちらがどれだけの割合を占めているかを測る余裕は、今のシュアラにはなかった。


「俺は、失敗した兵を殴るのは好きじゃねえ」


 カイの声が、夜の石畳に染み込む。


「だが、裏で糧秣を抜くやつは別だ」


 もう一度、拳が振りかぶられる。


「団長!」


 今度は間に合った。


 シュアラの体が、ほとんど反射のように前に出る。カイの肘の少し上を掴んだ。冬の空気の中でも分かる熱さ。固く締まった筋肉。皮膚の下を走る血の速さ。それらが掌に押し返してくる。


 彼女はその感触を、観察と判断のための材料として一瞬だけ眺め、それから口を開いた。


「今ここで殴れば、彼はもうこの冬のあいだ働けません」


 カイの動きが、わずかに止まる。


「骨が折れれば、荷も運べず、槍も振れない。冬の前に働ける兵を一人潰すのは、この砦にとって損失です」


 ラルスが、驚いたようにシュアラを見上げた。その視線がすぐさま、何かを自嘲するような色に変わる。


「……俺なんか、一人いなくなっても──」


「一人いなくなれば、一人分の穴が開きます」


 シュアラは、淡々と返した。


「その穴を埋めるために、誰かが余計に動きます。その誰かが、今度は冬を越せなくなるかもしれません」


 カイは腕を掴まれたまま、シュアラを見下ろす。怒り、迷い、諦め。どの成分がどれだけ混ざっているかまでは、表情の表層だけでは読みきれない。


(少なくとも、“完全に聞く耳を捨てた状態”ではない)


 そこまで判断してから、彼女は続けた。


「この兵は、『門を抜ける道』を知っている兵です」


「……は?」


 間の抜けた声が、ラルスの口からこぼれた。


「倉庫から門まで、どこを通れば見張りの目が薄いか。どの時間帯なら誰が気付かないか。それを自分で試して、三日連続で成功させた人間です」


 ラルスの肩がびくりと揺れる。


「その知識は、砦にとって“危険”であると同時に、“価値”でもあります」


 ゲルトが、思わずというように口笛を鳴らした。


「おい嬢ちゃん、言い方ってもんがだな……」


「褒めていません」


 シュアラはカイの腕から手を離さずに答えた。


「ただ、事実を並べているだけです」


 カイの拳が、わずかに震える。怒りだけではない。殴るかどうかを、その場で計算している手の震えだと、シュアラは推定した。


「処罰するにしても、“廃棄”である必要はありません」


 握っていた手をようやく離し、一歩引く。背中に当たる石壁の冷たさが、さっき掴んでいた腕の熱と奇妙な対比を作る。


「彼が盗んだぶんを、“冬の生存日数”に換算します。その日数ぶん、彼に追加の労働と制限を課す」


「……追加の、労働?」


 ラルスが、かすれた声で繰り返した。口の端から血が垂れ、顎に冷たく張り付く。


 カイは苛立ちを隠そうともせず、鼻を鳴らす。


「殴らねえ代わりに、こき使うって話か」


 シュアラは一拍だけ間を置き、頷いた。


「殴って二度と使えなくするより、きつく働かせて返済させる方が、この砦にとって得です」


「てめえは、人間の話をしてんのか、木箱の話をしてんのか」


「どちらでも、計算方法は変わりません」


 きっぱりと言い切ると、カイは顔をしかめた。ゲルトは、笑うべきかどうか迷ったような顔で鼻を鳴らす。


 ラルスは、唇を噛んで俯いている。悔しさか、情けなさか、あるいは別の何かなのか。そこまで読み解くためのデータはまだ足りない。


 しばらくの沈黙のあと、カイが低く言った。


「……ゲルト」


「おう」


「ラルスを拘束しろ。逃げられると面倒だ」


「了解」


 ゲルトがラルスの腕を掴む。乱暴だが、さっきの一撃ほどの暴力は乗っていない。


「団長……!」


 縋るような声が、ラルスの喉から漏れた。


 カイは振り向かない。


「口を開く前に、これだけ覚えとけ」


 夜気に、低い声が沈んでいく。


「てめえを殴らずに済ませてるのは、こいつが“お前を使う方が得だ”って計算したからだ」


 顎で示された先に、シュアラがいる。


「甘い情けじゃねえ。冬のための、損得勘定だ」


 ラルスの肩が小さく震えた。それをどう受け取ったかを確かめる時間は、この場にはない。


「ラルスは一晩、拘束しておいてください」


 シュアラは、できるだけ声の温度を一定に保って告げた。


「明日以降の配置転換を考えるために、詳しい事情を聞く必要があります。逃げられると、計画が狂います」


「へいへい。ったく、眠らせてくれねえな」


 ゲルトは肩をすくめながらも、ラルスを引き立てて闇の向こうへ連れていった。


 残されたのは、夜気と、二人ぶんの呼気の白さだけだ。倉庫の隙間から吹き込む風が、こぼれた押し麦を転がし、石畳の目地に少しずつ押し込んでいく。


「……で」


 カイが、わざとらしく大きく息を吐いた。


「具体的に、どう再利用するつもりだ」


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