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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第八話 死人文官の処方箋(2)

 ペン先が紙の上で止まる。インクの匂いが、急に強くなった気がした。


『冬の終わりまでの死亡率:五割以下』


 数字を書き、カイの方へ紙を押し出す。


 ──五割。


 声に出す前に、その言葉の重さを測ろうとして、喉の奥で言葉が一度つかえた。


 十人のうち五人。あるいは、生き残る五人。別の言い方を探す。だが、どの表現も等しく残酷で、どこか嘘くさい。


 迷いごと、喉の苦味と一緒に飲み込んで、ようやく言葉にする。


「七割を、五割以下に下げることを約束します」


 音になった瞬間、自分の声が少しだけ軽く聞こえた。中身が軽いのではなく、包装の方が薄すぎる感覚だ。


 沈黙。


 長い沈黙。


 カイは紙から目を離さない。視線が数字の上を行き来するあいだに、蝋燭の蝋が一筋垂れ落ちる。


「……つまり」


 低い声が落ちた。


「お前は五人を選ぶのか」


「え?」


 思考が一瞬、空白になる。


「十人のうち、どの五人を生かすか、お前が決めるってことだ」


 背筋が凍った。


「違います」


 反射で否定する。


「何が違う」


「私は『誰を生かすか』ではなく、『どうすれば死者が減るか』を──」


「同じだろうが」


 カイの声が、一段低くなる。


「結果的に、お前の判断で生き死にが決まる」


 その通りだ、という言葉が喉まで上がってきて、そこで止まる。


 違う、と言い切れない。なぜなら、事実だから。


「……はい」


 ようやく出た声は、掠れていた。


「結果的には、そうなります」


 カイは長く、重い息を吐いた。


「正直でいいじゃねえか」


 さっきと同じ言葉。だが今度は、皮肉が混じっている。


 それでも、嘘をついていない分だけ、まだましだとシュアラは自分に言い聞かせた。


「それが、三ヶ月間、私にこの盤面を任せたときに団長が受け取れる『利得』です」


「利得ねえ」


 カイは紙から目を離し、椅子の背にもたれた。眠気の霞はもうそこにはない。戦場で敵勢を見渡すときと同じ、冷たい計算の気配があると、シュアラは判断する。


「お前は、その『五割』のうちに、自分を入れてるのか」


 不意に投げられた問いに、再び思考が止まる。


「どういう意味でしょう」


「ここで死ぬかもしれねえ奴の中に、自分を入れて計算してるのかって聞いてる」


 さっきとは違う種類の棘を含んだ声だった。


「死人文官だか何だか知らねえが、お前が倒れたら、そのゲームとやらはそこで終わりだろうが」


 シュアラは右手の甲を一度握りしめ、それから胸元を軽く叩いた。


「私自身の死亡率は、別の帳簿で管理しています」


 帝都の戸籍上、彼女はすでに死亡扱いだ。本来なら、もう一度死ぬことは統計上の誤差にしかならない。


「ただし、ここで倒れるつもりはありません。団長の部下に含めていただけるなら、その責任の一部はお預けします」


「勝手に部下にするな」


 言葉ほどの拒絶は、声にはなかった。


 カイはゆっくりと息を吐き、机の上の簡易盤面を指先で一つずつなぞった。パンの欠片。三つの小石。書き込まれた数字。


「……お前の言う『ゲーム』とやらは」


 低く問う。


「俺にとっては、『賭け』にしか見えねえ」


「賭けです」


 シュアラは頷いた。


「でも、いま団長が何もしないで座っているのも、別の賭けです」


 窓の外の闇に視線をやる。風の音が石壁を叩いている。


「何もしない賭けの結果は、『ほぼ確実に七割が死ぬ』です。私が提案しているのは、『五割まで下げられるかもしれない三ヶ月間の賭け』」


 そして、もう一つだけ付け加えた。


「もし失敗しても、『いまより少しマシな死に方』にはできます」


 言ってから、自分で少しだけ眉をひそめる。慰めになどならない言い方だ。


「……慰めになってねえぞ」


 カイが渋い顔で言う。


「慰めではなく、条件の説明です」


 そう返した声は、妙に乾いていた。


 カイはしばらく黙っていた。その沈黙は、「言葉を飲み込む」ためではなく、何かを選び取るための時間だと、シュアラは解釈する。


 やがて。


「三ヶ月」


 椅子から身を起こし、机越しに身を乗り出してきた。


「お前に賭ける」


 短く、はっきりとした言葉だった。


「ただし」


 続く声のほうが、むしろ重い。


「俺の部下を、数字だけで切り捨てたら、その瞬間に叩き出す」


 森色の眼が、真っ直ぐに彼女を射抜く。


「七割だの五割だのって話を、兵の前で口にしたら殴る。あいつらの前では、一人でも多く生かすために動いてるって顔をしろ」


 その条件は、数字以上に重い。


「団長がそう望むなら」


 シュアラは頷いた。


「彼らには、『死者をゼロに近づけるための調整』だけを見せます。百人のうち何人死ぬかではなく、『今日一日誰も死んでいないか』の確認を」


 言ってから、自分の言葉にちょっとした違和感を覚える。帝都の会議室では、こんな言い回しは決してしなかった。


「……言うじゃねえか」


 カイの口元に、短い笑みが浮かんだ。勝利でも侮りでもなく、自分でも驚いているような、ぎこちない表情だ。


「財政権の一部、三ヶ月の解任禁止、兵と村人は『切り捨てなし』」


 彼は指を折って条件をなぞった。


「それを守る代わりに、お前は『冬までの死亡率を五割以下にする』と」


「はい」


 今度の即答には、あえて間を挟まなかった。ここで迷いを見せる方が、よほど非合理だ。


「……バカげた賭けだ」


 ぽつりと零れた言葉に、シュアラはわずかに首を傾げる。


「七割の賭けに比べれば、期待値は高いと判断します」


「そういう意味じゃねえ」


 カイは立ち上がった。机の端に手をつき、ぐるりと回り込んでくる。シュアラの目の前に、その影が落ちた。


 至近距離から見上げると、彼の背はやはり高い。戦場仕様の鎧を脱いでいても、歩く城壁のような厚みがある。右手の甲には、剣だこで固くなった皮膚と、ところどころに残る古い傷跡が見える。


 カイは右手を差し出した。


「カイ・フォン・ヴォルフ。ヴァルム砦第七騎士団団長として」


 シュアラは、その手を見た。剣だこで硬くなった掌。古い傷跡。父の手とは、全く違う。


 右手を上げかけて──止まる。


(握ったら、もう後戻りできません)


 七割の死。五割への賭け。失敗すれば、この人の部下が死ぬ。


 自分の右手を見下ろす。紙とペンに慣れた、細い指。崖下で父の手を離したときと同じ手。


 ──また、誰かを手放すことになるかもしれない。


「……おい」


 カイの声が落ちる。


「やめるなら、今だぞ」


 顔を上げる。


 カイは、まだ手を差し出したままだった。その目には、諦めと、ほんの少しの期待が混ざっている。


(いいえ)


 シュアラは、ゆっくりと手を伸ばした。


(今度は、離しません)


 掌が触れた。


 触れた瞬間、時間が少し伸びた気がした。


 カイの手のひらは、思っていたより熱い。指先の節が、剣を握り続けた人間のそれだ。硬さがこちらの柔らかい掌に食い込んでくる。


 扉の向こうで、誰かが笑う声が遠く響いた。この部屋だけ、別の時間が流れている。


 蝋燭の炎が揺れ、その影が二人の手の上をゆっくりと横切る。影が過ぎ去るのと、握り返す力が強まるのが、ほとんど同時だった。


「死人文官シュアラ」


 名乗る声は、驚くほど安定していた。


「三ヶ月間、団長の賭け金を預かります」


 カイの手が、ぐっと握り返してきた。握力は、予想していたより少しだけ弱い。疲労と酒のせいかもしれない。それでも、その内側にある意志は、さっきまでより明らかに強くなっていると、シュアラは感じた。


「……いい顔になったな」


 口から勝手に出た言葉に、自分でも一瞬驚く。帝都の会議室で上官に向かって、こんな言い方をしたことは一度もない。


 カイが目を細める。


「何がだ」


「団長のことではありません。この砦です」


 慌てて言い足しながら、少しだけ遅れて羞恥がやってくる。


 手を離し、机の上の簡易盤面に視線を落とす。パンの欠片と、小石と、数字で描かれた小さな世界。


「ようやく、『手を入れる価値がある患者』の顔になりました」


「最初からそうだったろうが」


 カイは鼻を鳴らした。


「お前がそれを認めるのに、帳簿を三冊も読ませやがって」


「確認には時間がかかります」


 マントを手に取り、肩にかける。


「それでは、今日はこれで失礼します。明日から、在庫の棚卸しと人員の洗い出しを始めますので」


「ああ」


 自分の椅子に戻りながら、カイは半ば自嘲気味に付け加えた。


「明日からは『うるさい文官がうろつき回る砦』ってわけか」


「はい。出血の位置を特定するためには、多少の騒がしさは必要です」


 軽く一礼し、帳簿の一部と自分の小さな手帳を抱えて部屋を出る。


 扉が閉じる直前、背中に低い声が届いた。


「おい、文官」


 振り返る。


 カイは椅子にもたれ、片手で頭を掻いていた。目だけが、こちらを真っ直ぐ見ている。


「……三ヶ月終わったあとも、死んだふりしてるつもりなら、そっちはそっちで考えとけ」


 意味を測る。


「帝都が何を言おうが、ここで役に立つ駒なら、簡単には手放さん」


 ほとんど独り言のような言い方だった。


「はい」


 シュアラは短く答え、扉を閉めた。


 ◆


 廊下に出ると、夜気が肌を刺した。石壁から伝わる冷たさと、階下からかすかに聞こえる酔いどれの笑い声。そのちぐはぐな響きが、この砦の現状をよく表していると、シュアラは判断する。


 自室に戻るまでの間、誰ともすれ違わなかった。兵たちはそれぞれの寝台で眠るか、酒場代わりの一角で杯を傾けているのだろう。


 薄い扉を開け、狭い部屋に入る。寝台。机。椅子。壁に打ち付けられた小さな棚。どれもこれも、どこか別の場所で使われていた頃の釘穴や傷が残っている。


 机に帳簿の束を置き、その上に自分の小さな手帳を広げる。椅子に腰を下ろした瞬間、足の筋肉が抗議するように震えた。今日一日、思っていた以上に砦の中を歩き回っていたらしい。


 最初のページには、すでに書き込まれている。


『ヴァルム砦 現状:防衛機能ほぼゼロ/再構成余地大』


 その下に、父の筆跡を真似た細い字で、『第0ゲーム:試験国家ヴァルム』と記されている。


 その行の余白に、新しい文字を足した。


『──三ヶ月契約ゲーム』


 インクの光が消えていくのを待ちながら、さらに下へペン先を滑らせる。


『期間:今夜から三ヶ月』

『条件1:砦+三村の財政権限の一部を預かること』

『条件2:期間中、正当な理由なく解任されないこと』

『条件3:兵・村人を「切り捨て可能な数字」として扱わないこと』

『目標:冬の終わりまでの死亡率を五〇%以下に抑制』


 最後の行だけ、ペン先が一瞬だけ迷った。七十という数字を書き消したい衝動が、確かにあった。だが、それは現実の否定でしかない。


(ここから始めるしかありません)


 自分自身に向けて、そう書いているようなものだと、シュアラは認識する。


 ちょうどそのとき、腹の奥で小さく音が鳴った。空っぽの胃袋が、ようやく自分の存在を主張し始める。


「……そういえば、夕食をまだでしたね」


 誰もいない部屋で呟き、すぐに苦笑して口を閉じる。喉の奥が乾いたままなのを忘れていて、声が予想以上に掠れていた。


 ペン先で、ページの隅に小さく印をつける。


『第0ゲーム開始』

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