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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第八話 死人文官の処方箋(1)

 翌日。


 日が傾き始めた頃のヴァルム砦は、昼とも夜ともつかない灰色に沈んでいた。雲と石壁の色がほとんど同じで、境目だけが冷たい風の筋になっている。中庭では、兵たちがだらけた掛け声を張り上げながら木剣を振っていた。訓練と呼ぶには形ばかりだが、昨日よりはわずかに、剣先の高さと足の運びが揃っているように見える。


(昨夜の「七割」の数字が、どこか別の形になって伝わったのでしょうね)


 直接口にしたのは団長一人に対してだけだ。だが、指揮官の顔つき一つで、部下の空気は変わる。数字には載らない波及効果だと、シュアラは中庭を斜めに横切りながら観察する。


 風が頬を掠める。その冷たさで、昼から何も口にしていないことをようやく思い出した。胃のあたりが、空気だけで膨らんでいるような、変な軽さを訴える。


(交渉の前には水を飲め、何かひとくちでも食べておけ──)


 脳裏で、父の声が一瞬だけよぎる。帝都の会議室に入る前、廊下で何度か聞かされた忠告だ。


(……忘れました。申し訳ありません)


 心の中でだけ返事をして、執務棟の扉を押した。


 石の廊下は、日中よりひんやりしていた。靴底から這い上がる冷たさが、ふくらはぎの途中で止まりきらず、膝の裏にまで届いてくる。燭台の炎はところどころ間引かれていて、灯りの届かない箇所には、夜の影が細長く貼り付いていた。


 突き当たり、一番奥の扉の前で足を止める。帳簿の束は昨夜ほど重くないが、その代わり胸のあたりが妙に詰まっている。息を一度、ゆっくり吐き出し、指先でマントの襟を直してから、二度ノックした。


 短い沈黙のあと、内側から声が落ちてくる。


「……シュアラだ。入れ」


 昨夜より、わずかに声に張りがある。数字にすれば一割増し、といったところだろうか。意味のある変化として扱うには足りないが、ゼロではない。


 扉を開ける。


 部屋の中には昨日と同じ燭台の火が揺れていたが、空気の匂いが少し違っていた。酒の匂いはまだ残っているものの、鼻を刺すほどではない。机の上の書類の山も空き瓶の数もさほど減っていないが、カイ・フォン・ヴォルフは椅子にもたれかかってはいなかった。背もたれから身を起こし、片肘を机につき、真正面からこちらを見ている。


 視線がぶつかり、短い沈黙が落ちる。蝋燭の炎が一度ふっと揺れ、机の上に残ったワインの輪染みの影が、血溜まりのように長く伸びた。


「……昨夜の続きだな」


 先に口を開いたのはカイだった。喉の奥にまだ酒の掠れを残しつつも、言葉の芯はぶれていない。


「七割ってやつ。あれで話が終わる顔じゃなかった」


(顔で判断されるのは、あまり好ましい検査方法とは言えませんが)


 そう評しつつ、シュアラは小さく頭を下げる。即答は避け、一拍置いてから机の端に紙束をそっと置いた。


「昨夜お伝えしたのは、診断の骨子だけです」


 一番上の一枚を指先で押さえる。赤い印のついた箇所が、ところどころ傷口のように点在している。


「今日お持ちしたのが、その後の処置──本題になります」


 カイはこめかみを押さえていた指を離し、椅子の背にもたれ直した。かすかに背板が軋む。


「……もう一度、数字を聞かせろ」


 重さを測るような目だ。紙の上の数字ではなく、それを読み上げる人間の方を量っている。


 シュアラは視線を紙に落とし、指先で行をなぞった。


「この砦と、周辺三村の数字です」


 項目を一つずつ拾い上げていく。


「砦の兵数。村ごとの人口。今ある穀物と塩と干し肉の量。過去十年分の冬の長さの平均値。帝都からの補給予定日と、その遅延実績」


 昨夜と同じ列挙だが、今日は確認として、一拍ずつ置いて読み上げる。紙の右下、小さな一行に視線を落とした。


『現状維持の場合 冬の終わりまでの死亡率:七割前後』


「このまま何も変えなければ、冬が明けるまでに──」


 舌の上が、妙に乾いている。言葉が紙やすりみたいに舌を擦っていく。


「ここにいる十人のうち七人前後が、帳簿から消えます」


 その瞬間。


 カイの手が、マグカップの縁で止まった。


 数秒後。


 がん、と鈍い音がした。


 マグが机に叩きつけられたのだ。中身が跳ね、紙の端を濡らす。インクの痕の上に、薄い酒が染みを作っていく。


「七割だと?」


 低い声だった。怒鳴り声ではない。むしろ静かすぎて、背筋が冷える類の声。


「十人のうち七人が死ぬって、そんなに簡単に言うか、普通」


 シュアラは、飛び散った酒の染みを見つめた。紙の上で数字が滲んでいく。さっきまでくっきりしていた『七』の文字が、ゆっくりと溶けて広がった。


「……必要な説明です」


 出た声は、自分が思っていたより小さかった。


「必要?」


 カイが椅子から立ち上がる。ぎしり、と嫌な音がする。机を回り込んでくる気配。


「お前、俺の部下が七割死ぬって話を、『必要な説明』で済ませるのか」


 至近距離で見下ろされる。影と体温の圧がある。


 シュアラは、一度だけ唾を飲み込んでから、顔を上げた。


「はい。説明しなければ、団長はこの砦がどれほど──」


「分かってる」


 遮られた。


「分かってるから、聞きたくなかったんだ」


 握りしめた拳の骨が、ごき、と鳴る。


「……で? それで終わりか」


「いえ」


 膝の上で重ねた指先が、わずかに震える。


「次の話があります」


 カイはしばらく彼女を睨んだまま立っていたが、やがて小さく舌打ちし、椅子に腰を下ろした。マグを乱暴に引き寄せ、残っていた酒を一息にあおる。


「座れ。続けろ」


 許可とも投げやりともつかない声に、シュアラは小さく頷き、改めて腰を下ろした。心臓の鼓動が、いつもよりひとつ多く鳴っている気がする。


 彼女はペンを指に挟み直し、机の上を見回した。空の酒瓶。皿の上に残された乾きかけのパンの欠片。ペーパーウェイト代わりの小石。帝都の会議室なら、ここに金色の印章や細工入りの砂時計が並ぶのだろう。


「第一の条件」


 パンの欠片を一つ摘もうとして──指先が滑った。


 欠片が机の端から転がり落ちる。


 しまった、と心の中で短く呟きながら、慌てて身を乗り出して拾い上げる。指先に張り付いたパン屑を払い落とす動作が、ほんのわずかにぎこちない。


「三ヶ月間、砦と三村の──」


 言葉が喉でつかえる。


(落ち着け。父なら、こんなところで噛まない)


 脳裏に浮かんだ声を振り払い、息を吸い直す。


「砦と三村の財政権限の一部を、私に預けてください」


 カイが、じっとこちらを見ている。


「……緊張してるのか?」


「いえ」


 即答してから、少し後悔した。自分の声が、明らかに張り詰めている。


「……少し」


 言い直すと、カイの口元がわずかに緩んだ。怒りの縁が、ほんの少しだけ鈍る。


「正直でいいじゃねえか。続けろ」


 半ば皮肉、半ば本音。そう判断して、シュアラは説明を続けた。


「全部ではありません。最終的な決裁権は団長のままで構いません。ただ、『予算案を組む権利』と、『倉庫の鍵を開けさせる指示権』が必要です」


 数字を並べるのと同じ調子で、要求を並べる。


「いま、倉庫と出納は担当ごとに細かく分かれ、誰も全体を見ていません。それでは止血の前に、どこから血が漏れているかも分からない」


 砦の四角の端に、小さく斜線を足していく。倉庫、兵舎、厩舎。いくつもの小部屋に分断された血管。


「この盤面を、一枚の帳簿として扱う権利を、三ヶ月だけ貸してください」


「……つまり」


 カイは指先でこめかみを押さえたまま、低く言う。


「砦の金庫と倉庫に、好きなだけ出入りする許可を寄越せって話か」


「好きなだけ、ではありません」


 シュアラは小さく息を吸い直す。


「団長に報告し、了承を得た上で動きます」


「それを世間じゃ『勝手』って言うんだがな」


 吐き捨てるような言葉だが、完全な拒絶の温度はない。呆れと迷いと、少しの興味が混ざった音だ。


「二つ目の条件です」


 シュアラはペン先をくるりと回した。ほんの一瞬、指先が震える。冷えだけでは説明できない震えだ。


「その三ヶ月の間、理由も告知もなく、私を解任しないこと」


「おい」


 カイの眉間に皺が寄る。


「お前、自分の首の心配をする前に、砦の心配をしろ」


 言葉は正しい。だが順番の問題でもある。


「砦の心配のためです」


 即答し、胸元に手を当てる。布越しに、死亡届の封筒の角が当たった。


「止血の最初の段階では、見かけの数字が悪化します。倉庫から物が出ていく。兵に追加の配給が必要になる。あるいは、村への支援を増やす必要が出てくる」


 パンの欠片を指で押しつぶし、砦の四角の脇に小さな粉の山を作る。


「その途中で、上から『やめろ』と言われれば、そこで全部止まります。中途半端な止血は、かえって傷を広げる」


 父の声が、ふと耳の奥で蘇る。


『途中で手を離すくらいなら、最初から触るな』


 帝都の帳簿を前に、何度か聞かされた言葉だった。


「もし、私に明確な不正行為や裏切りの兆候があったなら、そのときはいつでも斬ってください。それは団長の権限です」


「物騒なことをあっさり言うな」


「死人文官ですので」


 淡々と返す。


「ただ、『数字が気に入らない』という理由だけで途中で手を離されると、患者が死にます。それだけは、最初に線を引かせてください」


 カイは口を閉じたまま、机の上の簡易盤面を見下ろした。燭台の明かりが彼の横顔に影を落とす。目の下の薄い隈と浅い呼吸から、ここしばらくまともに眠れていないことが、改めて確認できる。


「三つ目」


 シュアラは最後の条件を口にする前に、一度だけ深呼吸した。肺の奥に冷えた空気が入り、少しだけ頭が冴える。


「砦の兵と村人を、『切り捨て可能な数字』としては扱わないこと」


 カイの眼が、ゆっくりと彼女を向いた。


「……さっき自分で、十人のうち七人死ぬって言ったのはどこの誰だ」


「必要な説明です」


 微かに首を傾げる。


「ですが、その七という数字を、『どこかで誰かが勝手に消してもいい余剰』として扱うか、『どうしても削れない駒』として扱うかで、盤面の組み方は変わります」


 ペン先で、小石を一つ叩く。カチ、と乾いた音がした。


「私は、兵をユニット──動かせる駒として数えます。でも、『余り』としては見ません。生きている限りは、全部、必要な駒です」


「戦場じゃ、人は死ぬ」


 カイの声が低くなる。


「どれだけ守ろうが、どれだけ計算しようが、誰かは死ぬ」


「分かっています」


 炎上する馬車列と、崖下の暗さと、帝都の帳簿に並んだ戦費と負傷兵の処理費用。そのどれもが一瞬だけ頭をよぎる。


「だから、ここを戦場にしない前提で話しています」


 はっきりと言った。


「ここは盤面の一マスです。最前線ではありますが、『最後の防衛線』ではない」


 砦の四角の外側に、小さな×印をいくつか描く。


「ここで安易に人を切り捨てると、その空白を埋めるために、他のマスがさらに削られます。帝都の帳簿のように」


 数字だけがきれいに揃い、現場の死体だけが積み上がる帳簿。あれをもう一度書き写す気にはなれない。


「三ヶ月のあいだだけで構いません。兵と村人を、『死んでも構わない枠』としてではなく、『できる限り生かす前提の駒』として扱ってください」


「できる限り、ねえ」


 カイの口元が僅かに歪んだ。笑っているのか苦笑なのか、自分でも判別しきれない表情だとシュアラは観察する。


「お前の『できる限り』と、俺の『できる限り』は、同じか?」


「違うと思います」


 即答した瞬間、言い過ぎたかもしれないという感覚が、半拍遅れて胸に刺さる。


「だからこそ、調整が必要です」


 誤魔化すように、白紙を一枚引き寄せ、簡単な表を描き始める。


「条件を飲んでいただいた場合の、『見返り』を提示します」


「見返り?」


「はい」

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