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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第一章 ヴァルム試験国家編(1208 - 完結)

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第一話 破談の夜

 王都アークライトの王宮では、季節ごとに大舞踏会が開かれる。


 今宵は春の舞踏会。

 若い貴族たちにとっては社交界への正式なお披露目であり、婚約や叙任を華やかに発表するための、眩しすぎる「見世物」だ。


 ――もっとも、財務長官の娘エリアーナ・クライフェルトにとっては、


(照明、人件費、飲食費……赤字の塊ですね)


 と、ため息をもらすもの以外の何物でもない。


 楽団の奏でるワルツに合わせ、絹と宝石で飾り立てた貴族たちが輪をつくる。

 靴底が床を擦る音、グラスが触れ合う高い音、笑い声。

 それらが何枚も重ねられた薄布のように、ホールの空気に掛けられていた。


 エリアーナは、その輪から一歩だけ外れた柱際に立ち、手にした扇の影で細い銀のペンをくるりと回した。

 コルセットで締め上げられた肋骨が、深く息を吸うたびにじわりと抗議している。肺が、借り物の器に押し込められているみたいだ。


(シャンデリア三基。蝋燭の本数、この時間帯の楽団への報酬……今夜だけで、小侯爵家ひとつの一年分の予算が蒸発しますか……、……はぁ、呆れたものですね)


 扇の骨に隠された小さなメモ欄には、すでにいくつかの数字と記号が細かく書き込まれている。

 国に身を捧げる仕事を果たす彼女にとって、記録とはとても重いものである。


 今回のような無駄な支出を減らすには、裏付けられた根拠が必要なのだから。


 そんな彼女に同年代の令嬢が身を寄せてきた。

 淡いピンクのドレスの裾が、エリアーナの濃い青のドレスにふわりと触れる。

 花の香水が、一瞬だけ鼻腔をくすぐった。


「エリー、今夜くらい帳簿を頭から追い出したら? また数字いじってるのかしらぁ?」


 声を掛けられ、エリアーナはペン先を紙から離す。

 否定の言葉がすぐ喉まで上がってきて――そこで一度飲み込み、言い直した。


「帳簿では……ありませんわ。いえ、帳簿というほどのものでもなくて。ただの……落ち着く遊びです」


 言ってから、自分でも「遊び」という単語に少し違和感を覚える。

 仕事だ。誇りある仕事なのだ。


 しかし、彼らには理解されるはずもない。


「遊びにしては、眉間の皺が深すぎると思うけれど?」

「まあ。……それはコルセットのせいですわ」

「なるほど、きつくしめてらしたのね。能面にも心があるとは、まったく驚きですわね。ホホホっ」

「……では、失礼しまして。お楽しみあそばせ。ホホホっ!」


 女性が楽しげに離れていく。

 エリアーナははぁと肩を落としながら顔をホールの中央へ向けた。


 ひときわ目立つ一組の男女が、円の中心で踊っている。


 金髪碧眼の青年――アークライト帝国の王太子、ジークハルト・フォン・アークライト殿下と。

 その腕に抱かれ、白いドレスの裾を揺らすのは、異世界から召喚されたと噂される聖女リリアナだ。


 リリアナの足元には、いつの間にか小さな花弁が散り敷かれていた。

 絨毯の文様の上に、淡い光を帯びた花びらが重なり、彼女の一歩ごとにさざめいている。


(“加護”の演出、というわけですか)


 本物の花か、魔力で形だけ保たせているのか。

 どちらにせよ、「聖女が祝福と共に花を咲かせた」と見せれば、民衆は喜び、貴族たちも拍手する。

 花びら一枚あたりの費用を計算してみたい衝動を、エリアーナは扇の骨をきゅっと握ることで誤魔化した。


「まあ……絵になるお二人ね」


「やっぱり殿下の隣は、聖女様こそ相応しいわ」


「元婚約者のクライフェルト令嬢は、面白くないでしょうけど」


 周囲から、ささやくような声が耳の表面をなぞってくる。

 エリアーナは、扇の影で目を伏せた。


 ――元婚約者。


 その言葉が、まだ書類上は成立していないことを知っているのは、この場で彼女だけだ。

 法務局の棚にある帳簿の一欄だけが、「元」を許していない。


(……、……)


「ひっ、にらまれましたわ」

「相変わらず何を考えているかわからないやつだな」


 冷や汗をかきながらそうこぼす彼らから、エリアーナは視線をそらす。


 と、同時。楽団長がバイオリンの弓を高く掲げ、曲を締めくくった。

 拍手が、床下から立ち上る振動のように広がり、中央の二人が恭しく一礼する。


 本来なら、ここで王太子は一歩引き、別の令嬢と軽く踊る。

 エリアーナも、その前提でスケジュールを組み、服飾費の上限を決めていただろう。


 だが今夜、ジークハルトはその場に留まった。


 リリアナの手を取ったまま、彼はわずかに顎を上げる。

 朗々とした声が、天井近くまで伸びていった。やや上擦ったその声は、ガラスに当たって跳ね返る音に似ている。


「諸君。本日は、我がアークライト王家にとって――特別な夜である」


 ざわめきがすうっと引いていく。

 視線という視線が、中央に吸い寄せられた。


 エリアーナは、扇を静かに閉じる。

 すぐには背筋を伸ばさず、呼吸を一つだけ整えてから、ゆっくりと姿勢を正した。

 コルセットが肋骨を締めつけ、胸の内側で心臓が不規則に跳ねる。それでも声に出る呼吸は、いつもの舞踏のそれと同じに保つ。


(来ますね)


 口には出さず、小さく呟いた。


「私は、真実の愛を得た」


 ジークハルトの声には、高揚した色が混じっていた。

 いつもより半音高い。息継ぎの位置も、演説用に整えたにしては少し乱れている。


「聖女リリアナこそが、私の隣に立つべき女性だ」


 リリアナが、頬を染めて顔を伏せる。

 その仕草と同時に、周囲からため息が漏れた。

 楽団が、先ほどより甘い旋律を重ねる。音の甘さが、耳の奥で砂糖の結晶になって貼りついたように重い。


(真実の愛。……まったく、口だけは達者なようですね)


 場違いな思考が浮かび、エリアーナは自分で苦笑しかける。

 唇が動きそうになったところで、扇を口元に持ち上げて隠した。


 ジークハルトは、さらに一歩前へ進み出る。

 靴音が大理石の床を叩き、その硬さがこちらの足裏にまで伝わってくる気がする。


「ゆえに私は、本日をもって――」


 溜めを置く。

 期待と好奇心が、ホールの空気を薄くぴんと張り詰めさせた。

 笑い声が止まり、グラスが口元の途中で止まり、誰かが咳払いを我慢して喉を鳴らす。


 エリアーナは、扇の要の部分に親指を押し当てた。

 そこだけ熱を持っているように感じるのは、気のせいだろうか。


「財務長官クライフェルト侯爵家の令嬢、エリアーナとの婚約を、破棄する」


 その一言で、音が抜け落ちた。


 楽団が音を止めたわけではない。

 音は鳴っているはずなのに、膜を一枚挟んだ向こう側の出来事になってしまったようだ。

 喉の奥が乾き、唾を飲み込む小さな音だけが、自分の内側でやけに鮮明に響く。


 誰かが小さく息を呑む。

 グラスがわずかに震え、薄い音を立てた。こぼれた酒が手に触れたのか、短い舌打ちが混ざる。

 その小さな音の群れが、床の目地を伝って足元から這い上がってくるように拡がっていった。


 エリアーナは、一度だけ爪先に力を込めてから、ゆっくりと一歩前へ出る。

 ヒールの底が大理石を叩き、その乾いた音に背中を押される。

 練習を重ねた舞踏の所作で、ドレスの裾が静かに床を滑った。


 口を開きかけて、言葉を選び直す。

 「殿下」とだけ呼びかけるのは、何かを認めるようで嫌だった。


「……ジークハルト殿下」


 わずかな間を挟んでから、名を正確に結ぶ。

 思っていたよりもよく通る声だった。肺の奥まで冷たい空気を入れてから出したその音は、ホールの隅まで澄んだ響きで届いていく。


 今度は、視線の矢が一斉に彼女へと向かった。

 刺されている、と頭では理解するのに、痛みが遅れている。

 皮膚の感覚だけが、少し遠くにあるようだ。


 王太子は、わずかに眉をひそめる。


「……何か、異議でも?」


 即答するべき言葉はいくつも思い浮かぶ。法の条文も、慣例も、先例も。

 それらを一度全部飲み込んで、エリアーナは扇を持つ手の力をほんの少しだけ緩めた。

 骨の一本が指に当たり、かすかに痛い。その痛みで、最初の一文を決める。


「……確認させていただきたく存じます」


 短く息を吐き、続ける。


「婚約破棄には、理由の明示が必要です。法律上の手続きを踏んでいらっしゃるのですか?」

「……そもそも、婚約などしていないのだ。法律も何もあった話ではないだろう」

「……それは、本当でしょうか? 私からすれば、嘘に聞こえますわね」


 エリアーナは少しばかり口を尖らせる。


「どうせ、そちらのお方に手を付けては、また別の方に目移りされるのではないですか?」

「……おい、貴様! 無礼だぞっ!!」

「無礼なんてありませんわ。そもそも先ほど婚約破棄されたではないですか。なら、相応に対応させてもらうっていうのが流儀だと思います」


「それに、私は事実を言っているまでです。殿下は以前から女性問題が多くあられましたから。確か……重大な事件になりかけたのが16個、でしたかしら。あまりに興味のない数字なので、うろ覚えではありますが……それほどの回数、不貞に走られるのはどうかと思いますわ」


 エリアーナは周りを見ながらさらに続ける。


「この場におられる皆さまも、納得なさりたいはずですし。問いましょうか。この人の恋路を祝福できる方は、是非とも拍手をなさってください。祝福らしているのなら、できて当然でしょう?」


 間がいくばく空いた。静寂が辺りに満ちる。


「……そういうことです、ジークハルト殿下。私の言っていることは、決して間違っていないのですよ」

「…………、~~!!」


 

 ジークハルトの顔色がみるみる赤みを帯びる。

 プライドを傷つけられた怒り、ストレスによる苛立ちが表に現れ始める。


「い、いたい! 痛いですっ、ジークさまっ!」


 その噴出できない感情が、握っていたリリアナの手を傷つけた。

 リリアナの声を聴いた彼は我に返る。


「す、すまない!」

「……先ほどの話、嘘ですよね? 本当じゃないですよね?」

「あ、あぁ! 本当だとも!!」


 隣で、聖女リリアナが不安げに彼を見上げた。

 潤んだ瞳が、蝋燭の光を飲み込み、震える星のように瞬いている。


「大丈夫、だいじょうぶだよ、リリアナ。僕を信じておくれ」

「ジークさま…っ…はいっ……、わかりました!」


 王太子は、彼女の肩を抱き寄せながら、わざとらしく長い吐息を洩らした。

 その息が、近くの蝋燭の炎を揺らし、光の輪を一瞬だけ歪ませる。


「エリアーナ。お前は数字しか見ていない」


 その一言で、ささやきが小さく跳ねる。

 耳の周りで、目に見えない小石をぱらぱらと投げつけられたみたいだ。


「税収のことしか口にしない。貧しい民の苦しみではなく、帳簿上の赤字だけを見て警鐘を鳴らす。聖女の加護すら、“予算の無駄”と言い放った。それは、ここにいるすべての人を馬鹿にしている発言にも聞き取れるな。違うか?」


 視線が、好奇と非難を混ぜてエリアーナに降り注ぐ。

 肩に見えない砂利をかけられたように重い。それでも、顎だけは上げておく。


「そもそも君の言った数値はあくまで疑惑でしかない。僕の名誉にもかかわるようなことを表で話すなんて、そもそも品がないといえるんじゃないか?」

「品、ですか」

「あぁ、そうだとも! 品がない!! だってそうだろ! みんな楽しんでる中で水を差すなんてありえないだろ!」


 どの口が、と言いかけたところで唇に力を込めてそれを止めた。

 もっと良い武器が彼女にはあったからだ。


「では。一つお聞きしますが」


「……聖女様への寄進額を、“赤字国債を発行して増やすべきではない”と申し上げた件はどうされたのですか?」


 王太子の瞳に、苛立ちの色が浮かぶ。

 指に持ったグラスの脚が、きゅ、と小さく鳴った。


「私は以前、こう言いました。近隣の洪水被害の多い下流域へ被害を減らす施策を打つべきだと。それを行うための予算が必要だと、以前の議会でお伝えしたはずです。

 

 ——あなたが、聖女にお金を落としているあいだに」


 その言葉に、多くの貴族から冷たい視線が注がれる。

 その矛先は、ジークハルトへのものだった。


「な、何を言っているんだ。そんな証拠どこにも」

「ありますよ」


 エリアーナは胸のポケットから手帳を取り出した。


「日付と会話内容、詳細にメモを取りました。速筆のため、少しばかり字は雑ですが……読み上げますか?」

「……!! ――!? ……~~~!!!」


 声にならない怒り。それが彼の美麗な顔を醜悪にゆがめる。


「それと、リリアナさま。貴方にも問題があります」

「な、なんですか? 私には何も……」


「その案には、聖女様直筆の印がございます。“民を守るために必要な案です”と、お言葉が添えられていた。というように、殿下が言っていたのを記録しております。そちらについては把握なさっていましたか?」


 リリアナが「え」と短く声を漏らす。

 それは今までの甘い響きとは違う、紙が破れる瞬間みたいな鋭さを帯びていた。


「わ、わたし、その……書類はよく分からなくて。神官様が、“ここに印を”って……」


 言い訳とも弁解ともつかない言葉が、涙と一緒にこぼれ落ちる。

 エリアーナは、その続きを聞く前に軽く首を振った。


「聖女様に落ち度はございません」


 声が少しだけ柔らかくなる。抑えきれなかった。

 それが自分でも意外で、ほんの一瞬だけ言葉が止まる。


「……ただ、殿下が、お手元に届いた数字と報告書に目を通されていないだけです。国を背負う人間にも書く変わらず、自分の私利のために貴重な時間を注がれていらしたのですから。しょうがないというものです」


 ぴん、と弦を弾いたような沈黙が、ホールを満たした。


 ジークハルトが、髪をぐしゃぐしゃとかきはじめる。

 歯茎が見えるほどに顔をゆがませながら、告発した女をにらみつけた。


「……やはり、お前はそうだ」


 彼は低く言った。


「愛のない女だ。数字と利得だけを秤にかける。そんな冷たい帳簿しか信じない者を、私は王太子妃にはできない」


 ジークハルトは、聖女をさらに抱き寄せる。

 リリアナの髪飾りに付いた小さな花弁が、一枚、彼の肩から滑り落ちた。

 床に触れた瞬間、その花弁だけが音を立てたように感じる。


「私は真実の愛を選ぶ! 神が遣わした聖女と共に国を導くのだっ!! ゆえにお前とは婚約は破棄だっ!! 無礼を知れ!!!」


 エリアーナは、口を開く前に一度だけ唇を噛んだ。

 喉元まで上がってきた何かを飲み込み、別の言葉を選び直す。


「……そう、でございますか」


 一拍置いて、平らな声を紡ぐ。


「では、ジークハルト殿下。お元気で」


 自分の声が他人のもののように聞こえた。

 冷静さと、足元が少しだけ浮いているような不安定さが、同じ場所に同居している。


「そうですかだと……? ふざけるなっ! 人を馬鹿にした態度取りやがって!!! おい、誰かあいつを幽閉しろ!! 侮辱罪で懲役をくらわしてやるっ!!」

「そんな権利は王様以外にありませんよ、ジークハルトさま」

「――!! 殿下とつけろよメスがぁ!!!!」


 怒鳴り声が、耳の奥で鈍く響く。

 その熱と、自分の中の冷えとがぶつかり合って、変な静けさを生んでいた。


 涙も震えもない。

 事務処理の報告と、ほとんど変わらない調子。


 もっと取り乱してくれると思っていたのだろう。

 何人かの令嬢が、拍子抜けしたように目を瞬かせ、ひそひそ声を飲み込む。


 エリアーナは視線をわずかに外し、ホールの隅でこちらを見ている男の姿を探した。


 落ち着いた灰色の瞳。アークライト帝国財務長官にしてクライフェルト侯爵――彼女の父だ。


 父は、ほんのわずかに頷いた。

 その小さな動きが、彼女の胸の奥で大きく響く。

 ああ、やはりこれは「計画内」なのだと、理性は静かに納得し、一方で何か別のものがこっそりと床に落ちた。


 幼い頃の記憶が、勝手に浮かぶ。

 初めて自分で作った簡単な収支表を、父の執務室に持っていった夜。

 父は今日と同じように、ほとんど分からないほど小さく頷いただけだった。

 それでもあのとき、胸の中で鐘が鳴った気がした。


 今、あの鐘は鳴らない。

 代わりに、軋むような音がする。


「……これ以上、場を乱すのは本意ではございませんので」


 エリアーナは、誰よりも礼儀正しく、深く一礼した。

 背を曲げた瞬間、背骨に沿って冷たい汗がすべり落ちる。その感覚が妙に具体的で、「悔しさ」や「恐怖」よりも先に意識に上がってくる。


 ざわめきは、まだ形を変えながら続いている。

 視線は、細かい砂を頭上からかけられているみたいに、じわじわと皮膚に積もっていく。


 それでも、彼女の耳に届くのは、遠くで再び鳴り始めた楽団の音だけだった。

 さっきまで華やかに聞こえていた旋律が、今は少し錆びた楽器で無理に奏でられているように思える。



 舞踏会場の隣へと続く静かな回廊は、先ほどまでいた煌びやかなホールと同じ建物とは思えないほど冷え込んでいた。


 石造りの床に、エリアーナの靴音だけが控えめに響く。

 窓ガラス越しに伝わる夜気の冷たさが、さっきまでの熱気を削り取っていく。

 ガラスに額を押しつけたら、たぶんすぐに赤くなるだろう。


「……よくやった」


 背後から、低い声が落ちてくる。


 振り返る前に、一拍分だけ歩みを止める。

 逃げ出したくなかったわけではない。ただ、「よくやった」という言葉を聞き流すには、少し重すぎた。


 振り返ると、父クライフェルト侯爵が壁にもたれて立っていた。

 先ほどまで舞踏会場にいたときと同じ、穏やかな微笑み。

 ただ、その目の奥だけが、冷徹な計算を湛えている。


「取り乱さなかった。それだけで十分だ」


「……取り乱す余裕が、ありませんでしたから。裏取りすらない討論など不要です」

「違いない。まったく、あんな男に国を任せるなど不安でしかないな」


 父は小さく笑った。

 笑い声は短く、王宮の石壁に触れた途端、溶けて消える。


「それはさておき、重要な連絡をしようと思っていたところだ。これを見ろ」


 冗談とも本気ともつかない声音で言いながら、内ポケットから一通の封筒を取り出す。


 重い封蝋が押された、無地の封筒。

 表には、まだ何も書かれていない。

 蝋の刻印が、さっき前菜に添えられていた飾り切りの人参に妙に似ている、とどうでもいいことが頭をよぎり、エリアーナは内心でそれを振り払った。


「これは?」


 問いながらも、喉の奥が先に固くなる。

 良い知らせの重さではない、と指先が伝えてくる。


「お前の死亡届だ」


 あまりにもさらりと言われて、エリアーナは一瞬まばたきを忘れた。


「……冗談にしては、趣味が悪すぎますわ」


 反射的にそう返してから、自分の声に混じったかすかな震えに気づく。

 父の表情は変わらない。


「冗談なら、もっと安い紙を使う。とにかく、急にことが動きそうなのだ」


 肩を竦める仕草と共に、父は封筒をエリアーナの手に押しつけた。

 厚紙越しに、封蝋の固い感触が伝わる。紙の角が、手のひらの柔らかい部分を押し返してくる。


「明日の昼までに、お前は王都を発つ。その途中で、馬車が事故を起こし――炎上する」

「……止めることはできないのですか?」

「止めれば今度は、王宮内で殺されるだろう。そうなれば、暗殺してくるものが把握できない」


 淡々と語られる情景は、舞踏会場よりよほど現実味を帯びていた。

 炎の熱さ。木材が爆ぜる音。馬の悲鳴。

 想像しただけで、舌の奥に焦げた匂いが蘇るような気がした。


「乗っていた者は全員、身元の判別もできないほどに焼け落ちる。そういうことになっている」

「……どうやってその情報を掴まれたのですか?」

「それは言えない」

「なぜ?」

「どうしてもだからだ」

「……、理由がないのはあまり好きませんが、分かりました」


 短くそう答えたあと、言葉が続かない。

 喉の奥でいくつかの文が渋滞し、どれも適切ではないように思える。


「便利な話だろう?」


 父は、口元だけで笑う。


「王太子側にとっても、お前にとってもだ」


 エリアーナは封筒を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 「便利」という言葉に、腹のどこかで小さな反発が生まれる。が、それを育てている時間は与えられていない。


「……なぜ、今それを私に?」


 父は、舞踏会場の方角にちらりと視線を向ける。

 扉の向こうから、音楽と笑い声がうっすらと漏れていた。

 さっきまで自分がいた世界の音だ。今は壁一枚を挟んで、別の層の空気になっている。


「エリアーナ。今の帝国は、数字だけ見れば――もうもたん」


 その言葉に、胸の奥で何かが静かに頷いた。

 反論はない。数字の列はとっくに、それを示していた。


「承知しています。父上が作られた、あの帳簿を見れば理由は明白ですから」


 帝国全体の収支と人口推移をまとめた一冊。

 二人きりのときに、父と『帝国破産帳簿』と呼んでいたもの。


 初めてその帳簿を見せられた夜の、紙の匂いとインクの冷たい光沢が蘇る。

 ページをめくる父の指が、一度だけ震えた。

 あの震えを見た瞬間、幼いエリアーナは、「この国はいつか終わる」ということを数字としてではなく、温度として理解した。


「そうだ。あの『帝国破産帳簿』は、まだ途中だ。だが、完成前に私は死ぬだろう」


 父は、わずかに目を細めた。


「仕上げるのは、お前の仕事だ。死んだと思わせて、生き延びてくれ」


 エリアーナは、封筒の縁を指先でなぞる。

 紙の角が、皮膚を撫でるたびに、小さな決意が一列に並んでいくような感覚がした。


「……つまり、私は明日、公的に死人となるのですね」


 言葉に出してみると、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。

 帝都での役目から解放される安堵と、積み上げてきたものを丸ごと焼却炉に投げ込むような喪失感が、同じ胸の中で場所を取り合っている。


「帝都の中では、だ」


 父は、ほんの少しだけ口元を歪めた。

 それは皮肉というより、決意の色に近い。


「外側で生きるかどうかは、お前次第だ」


 あまりにも予想外のことではあった。

 頭が冷静さを取り戻すには時間がかかると、彼女自身が思うほどに。

 されど、流ちょうにしている暇など残されてはいなかった。


「……承知しました、父上」


 最初に「分かりました」と言いそうになって、それでは他人行儀すぎる気がして、言い直す。

 父に向かってここまでかしこまるのも、これが最後かもしれない。


「明日、私は帝都で死にます。そして――外側で、生きる手段を探します」


「そうしろ」


 父は、彼女の頭にそっと手を置いた。

 子どものころ、転んで膝を擦りむいたときに乗せられたのと同じ手。


 あのときは、涙で世界がぼやけていた。

 今は、蝋燭の光も石壁の模様も、やけにくっきりと見える。

 視界が妙に冴えているのに、胸の内側だけが少し遅れている。


「泣く暇があれば、数字を見ろ。数字の外側に、本当に守るべきものが見えてくる」


「……はい」


 エリアーナは瞼を閉じ、一瞬だけ、その温もりを確かめる。

 掌の熱が、頭皮からじんわりと広がり、それが消えてしまうのが惜しくて、ほんの少しだけ目を開くのを遅らせた。


 次に目を開いたときには、舞踏会の喧噪はもう遠かった。

 扉の向こうから聞こえる笑い声が、厚い硝子越しに聞く雨音のように、意味を持たない音の塊に変わっている。


 明日、自分は「死ぬ」。


 ならば今夜は、喪に服しているふりをするより、淡々と死後の準備を進める方が、よほど性に合っている。

 その冷静さに、自分でも少し引きながら。


 彼女は封筒を懐にしまい、踵を返した。

 靴底と石床の間で、小さな音が一つだけ生まれる。その音が、幕が下りる合図のように感じられた。


 王宮の外へ続く暗い廊下を、一歩、一歩進んでいく。

 足首にまとわりつく冷えを、前へ押し出すように。

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