【第七章】夕暮れの丘にて
丘の上、夕暮れの風が草を揺らしていた。
風見鶏がからりと一度鳴る。
その音に導かれるように、俺は走った。
見慣れた景色、でもそのすべてが今は違って見えた。
そして。
彼女はそこにいた。
白い日傘を手に、夕日に透けるほど儚く、でも確かに立っていた。
リリィ。
「リリィ……っ!」
駆け寄って、言葉にならない声を漏らす。
息が切れて、胸が痛くて、でもそれ以上に心が震えていた。
「……気づいちゃったんだね。」
リリィは優しく話しかけてくれた。
「ごめん、ごめん、本当にごめん!!」
地面に膝をついて、俺は彼女の前で頭を下げた。
「俺、君にあんなこと言うつもりじゃなかった! 全然、悪気なんてなかったんだ。普通の会話のつもりだったんだ、ただの……っ」
喉が詰まり、涙が込み上げる。言い訳のようで嫌だった。
でも、伝えずにはいられなかった。
「陽に当たると元気になる、なんて……そんな言葉で、君を……!」
拳を握った。
リリィは黙って、俺を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私も、ごめんね。」
「え……?」
「私も、ちゃんと説明しなかった。怒ってしまった。あなたが悪いわけじゃないのに……。」
リリィの声は風に乗って、微かに震えていた。
「私、あの日……町に行こうとしたの。仲直りしようと思って。でも、一人じゃ怖くて……行けなかった。」
「怖くて……?」
「昔、町でひどいことされたから。病気のせいで、太陽の下を歩けないだけで、皆から怖がられて……化け物って言われて……石も投げられて……。」
言葉が胸に突き刺さる。
リリィは淡く微笑んだ。
「でも、あなたが隣にいてくれた。だから行ける気がした。あなたとなら、どこへだって……。」
「リリィ……。」
「でも、私の身体……もう限界なの。丘に来るだけで精一杯だった。」
彼女の手が、透けているのに気づいた。
俺は咄嗟に手を伸ばした。触れたい。でも指先は、空気をすり抜ける。
「そんなの、そんなの関係ない!!」
叫んだ。
「俺は、君にひどいことを言ったんだ! 君がどれだけの思いで生きてきたか、どれだけの痛みを抱えてたか、全然知らなかった!」
「知らなくて当然だよ。」
リリィは優しく言った。
「だって、私、何も言わなかったもん。隠してたもん。」
「違う、違うんだ……知ろうとしなかったのは、俺だ。傘の下にいる君を、ただの不思議な子だって……。」
リリィは首を振る。
「ねえ、聞いて。私のこと──ちゃんと話すね。」
そして、彼女は静かに語り始めた。
「私ね、子供の頃に病気になったの。太陽の光に当たると、肌が焼けて、熱が出て、動けなくなるの。」
「最初はみんな心配してくれた。でもだんだん、怖がられるようになった。外に出ない子、暗い部屋でしか暮らせない子。ある日、町の人たちが……私を化け物って言ったの。」
リリィの声が震えた。
「私は町から逃げた。家族も、友達も、全部捨てて。どこか遠くに行かなきゃって、森をさまよって……。」
「……あのおじいさんに会ったんだね。」
「うん。あの人だけは、私を“普通の子”として見てくれたの。病気のこともちゃんと理解してくれて……私に日傘をくれた。変わらないままでいいって言ってくれたの。」
リリィの目が潤んだ。
「ほんとうに、うれしかった。誰かと同じ時間を生きてるって思えたの。……でも、それも長くは続かなかった。」
「どうして……?」
「見つかったの。町の人に。私はつかまって、どこか暗い部屋に閉じ込められた。おじいさんも、きっと責められた……私が迷惑をかけたから。」
夕陽がリリィの頬を照らす。光の粒が涙に反射して、きらめいた。
「暗い部屋で……ただ、光を避けて。風の匂いも、土の音も、友達の声も知らないまま、おわっちゃったの。」
俺は、拳を握るしかなかった。
彼女が受けた痛みも、孤独も、悔しさも、俺には到底抱えきれない。
でも、だからこそ。
「……リリィ。俺は、君ともう一度やり直したい。」
言葉が、自然と口からこぼれた。
「……君と出会えて、本当に良かった。ありがとう。もう一度、ちゃんと……一緒にいたい。」
リリィの目が、ふっと和らいだ。
そして──
「うんっ、アレン。仲直りしよう。ずっと言いたかったの。このまま終わりたくなかったから……会えて、ほんとうに良かった!」
風が吹く。風鈴草の葉がそよぎ、傘の縁が揺れた。
その中で、彼女は静かに、でも確かに微笑んだ。
「アレン、私、本当にあなたに感謝してるの。」
「……あなたは、こんな私に声をかけてくれた。笑ってくれた。傘の下にいる私に、まっすぐな目で話しかけてくれたの。あの日のこと、私、ずっと忘れないよ。」
リリィの瞳に、涙が浮かんだ。
それは今までで一度も見せたことのない、心の底からの涙だった。
ひと粒、またひと粒と頬を伝い、そのたびに俺の胸はきゅっと縮む。
彼女はそっと俺の手を取った。ひんやりとしていて、
指先は透けていたけれど──それでも、たしかにそこに彼女はいた。
「……ありがとう。私に、居場所をくれて……。」
リリィは小さく息を吸い、ふわりと笑った。
「ねぇ、アレン。もし、生まれ変わって、またこの世界に来られたら……そのときは、また私を町まで連れてってくれる?」
喉の奥が熱い。言葉がうまく形にならない。それでも逃げずに彼女の目を見る。
「……うん。連れていく。君が迷わないように、手を離さないで……ちゃんと、連れていくよ。」
「ほんと? ……あの劇場にも行きたいな。ステージの幕が上がる瞬間を、この目で見てみたい。前にアレンが話してくれた、あの小さな人形芝居……見てみたかったんだ。」
うなずく。
力を込めたつもりなのに、首はかすかに震えていた。
「行こう。最前列で……リリィの席をあけておく。幕が上がるとき、君の手、ちゃんと握る。」
「ふふっ、それとね……水屋の冷たい薬草茶も、飲んでみたいの。あの香りを、アレンと一緒に感じたいの。」
「飲もう。リリィが満足するまで、何杯でも。」
「……それから、おじいさんにもまた会いたいな。ちゃんと“ありがとう”って言わなきゃ。……私、あの人に助けられて、生きてこれたんだもん。」
「行こう、絶対に。三人で……一緒に笑って、話そう。」
リリィはもう一度、俺の手をきゅっと握りしめた。
「そしたら──今度こそ、ちゃんと手をつないで、またこの丘まで風鈴草の花を見に来ようね。」
返事をしようとして、息がもつれた。
胸の奥で波のように悲しみが寄せては返し、言葉がこぼれ落ちそうになる。
「……うん。約束する。満開の下で、ゆっくり歩いて……君が疲れないように、休みながら……。」
俺の声はそこで途切れた。
喉の奥で小さな嗚咽が弾け、慌てて飲み込む。
リリィは気づいたように、目を細めて、嬉しそうに──でも少しだけ、寂しそうに笑った。
「アレン……。」
リリィは、ほんの一拍おいて、震える息を整える。
「本当はね、ちゃんと……あなたと結ばれたい。名前で呼ばれて、あなたの隣に座って……指輪をはめてもらって……“ずっと一緒にいる”って、言われたいの…。」
胸の内側で、せき止めていた何かが音もなく崩れた。
「……俺もだ。」
言葉は掠れた、けれど逃げなかった。
「君を守ってくれた、あの教会で──盛大に結婚式を挙げよう。”リリィはここにいる”って町じゅうにわかるように、鐘の音を響かせよう…。君に似合う、真っ白なウェディングドレスを用意して……扉が開くとき、俺はちゃんと前を向いて君を待ってる。祭壇の前で、もう二度と手を離さないって、誓うよ。」
その瞬間、光が彼女を包みこんだ。
日傘の縁がふわりと浮き、風がすり抜けていく。
リリィの髪が、風に乗って優しく舞い上がる。
それはまるで──光そのものが彼女になったかのようだった。
「うん……絶対、約束だよ……。今度は、もっと、たくさん笑って……もっと、あなたと話したい……ずっと隣にいたい……。」
彼女の輪郭が、少しずつ透明になっていく。
光と風に溶けて、夕空へと帰っていく。
「アレン……大好きだよ。」
返事を急ぐほど、言葉はほどけて指の間から零れ落ちる。
「……俺もだ、リリィ。君が……大好きだ。」
彼女は最後に、もう一度だけ──今まででいちばんあたたかい笑顔を浮かべた。
「じゃあね……またね……。」
その声が、夕風に乗って、遠くへと消えていった。
沈む夕陽に照らされて、ただひとり、その場に立ち尽くしていた。
風見鶏が、再び静かにからりと鳴った。
足元には、まだ咲いていない──
けれど確かに、膨らみ始めた風鈴草のつぼみが、
かすかな風に揺れていた。
読了ありがとうございます、七話です。
夕暮れの丘での再会、謝る言葉と打ち明け話、そしてお別れ。
書いている本人も視界が滲みました。(薬草茶で給水しつつ)。
焦らず続けますので、気が向いた時にふらっと覗いてください。
もし続きが少しでも気になったら【ブックマーク】&【★評価】で応援いただけると、
作者が最終話まで転ばずに済みます(今日は感情で足元がふらつき気味)。
次回はいよいよ最終話。
風鈴草の丘で君との約束を。
本日22時頃更新予定です。ありがとうございました。




