【第六章】風の約束とベンチの老人
あれから町を探した。広場、工房通り、水屋の軒、路地の涼しい影。
どこにも、リリィの姿はなかった。
風見鶏は、からりと回る。けれど、白い日傘の気配は、どこにも落ちていない。
──俺は、彼女のことを、何ひとつ知らなかった。
あんなに話したのに。 名前と、笑い方と、傘の持ち心地しか、知らなかった。
どこから来て、どこへ帰って、どんなふうに生きていたのかも。
気づけば、日が暮れかけていた。 どうすればリリィと会えるのか。
考えて、ひとつ思い当たる。
図書館だ。町の市民録や古い名簿。 住人や記録がひとまとめにされている場所。
リリィがこの町の誰かなら、きっと何かが残っているはずだ。
あそこなら住んでる場所がわかるかもしれない。
足が、勝手に向かっていた。
図書館の扉を押すと、ひんやりした空気が肩に落ちる。
紙とインク、古い木の匂いが鼻をくすぐった。
「すみません……リリィという名前の記録を探しているんですが。」
受付の女性は淡く頷き、静かに案内札を差し出した。
「名簿は奥の棚です。古いものは上段にございます。」
杉の長机。椅子が小さく鳴る。
棚から埃をかぶった分厚い資料を引き抜く。重い。
表紙をそっとなでると、細かな塵が陽に舞い、手の甲に落ちた。
ページをめくる。
ぱら、ぱら…… 。
乾いた紙の音が、鼓動の間に割り込んでくる。
心臓は、妙に静かだった。
静かすぎて、壁の時計の秒針が──カチ、カチと、やけに大きい。
指が止まる。 白く焼けたみたいに色の抜けたページ。
紙だけが時間より先に老けているみたいだ。
視線が、吸い寄せられる。
リリィ・スノウ。享年十四。
陽の病(陽に触れれば肉が燃え上がる呪い)により外出禁止 。
死後、町外れの無縁墓地に埋葬。
指先が冷える。喉が細くなる。
文字は、読める。意味も、わかる。
だが、その意味が胸の真ん中の大きな穴をすり抜けていって、理解だけが遠ざかっていた。
白い日傘。薄紅の頬。日陰で笑う声。
名簿の冷たい文字と、俺の知っている彼女の輪郭が、どうしても重ならなかった。
……死んでいた? 何年も前に?
無縁墓地。あそこは町の壁の内側じゃない。
北側の外れ、陽の射さぬ境界線の外。
名前もない塚が並び、見送る人の少ない者たちを受け入れる場所。
──あんなところに、リリィは。
丘で会って、笑って、約束して。 俺は、いったい何を見てたんだ。
どうして、どうして気づけなかった。
傘を離したとき、あんなに怯えた顔をしたのに。
『陽に当たるのも、悪くないよ。』なんて、よりによってそれを。
光に触れられない彼女に。 ……最低だ、俺は。
傘隊長? 冗談じゃない。笑えない。
知らなかったから、じゃない。 知ろうとしなかったからだ。
目を背けていた。
彼女の“痛み”を、陽の下に置き去りにして、見て見ぬふりをした。
手のひらに汗が滲む。紙の端が湿りそうになる。
深呼吸。肺が狭い。 視界の文字が少し滲んだ。涙か、焦りか、どっちでもいい。
どっちでもいいから、前に進む材料に変えろ。
その時だった。棚の間を、ひと筋の風が抜けた。
窓は閉まっている。
紙が、ぱら、と震えた。
ありえない風だ。 理屈より先に、背筋をなでていく冷たい感触があった。
そして、その一瞬──
耳の奥で、リリィの声が蘇る。
「……約束、してくれる?」
「もちろん。十年に一度の花を、一緒に。」
「うん。……約束。」
風に重なるように、さらに言葉が続いた気がした。
『風鈴草、一緒に見ようね。約束だよ。』
その声が、胸の奥に灯をともす。
指が、動く。足が、立つ。 反射で、椅子を倒しかける。札を返す余裕もない。
けれど、迷ってる時間はなかった。
俺は図書館を飛び出した。 陽の傾いた町を、ただまっすぐ駆けていった。
広場の人波。風見鶏がからりと鳴る。いいサインであってくれ。どうか、頼む。
まずは探す。どこでもいい。彼女の影が落ちそうな場所、全部。
工房通り。リリィの傘を直してくれた、あの寡黙な職人の扉。閉まっている。
水屋の軒先。冷たい薬草茶の看板がゆれている。けれど、そこにもいない。
路地の日陰。市場の端の布屋の影。……いない。
名前を呼びそうになる。けれど、やめた。
今この町で、声に出して呼んでいい名前じゃない気がした。
広場のベンチに、一人の老人がいた。
帽子を膝にのせて、陽の粒を数えるように、穏やかに目を細めている。
──見覚えがあった。 そうだ、あの時。
リリィと一緒にこの町を歩いたとき、リリィに笑いかけていた老人だ。
帽子をそっと押さえながら、
「彼女を……しっかり守ってやりなさい。」と言ってくれたあの人。
あの老人なら、もしかしたら。
俺は足を止め、鼓動を押さえながら近づいた。
そして、ためらいながらも口を開く。
「すみません……あの、リリィを──あの時、俺と一緒にいた女の子を見ませんでしたか?」
老人の目が、細く、糸を結ぶようにしぼむ。
「……今、なんと?」
「リリィです。白い日傘の……細くて、光を避けるような仕草をする子です。」
老人は小さく息を飲み、遠くを見るような目になった。
「思い出した。リリィ、か。そう、リリィじゃ……。」
その声には、春のぬくもりと、冬の名残のような揺らぎが混じっていた。
「昔の話になる。……わしはこの町の教会で、しばらく神父をしておってな。
ある春の夕方、ひとりの娘が逃げ込んできたんじゃ。
顔を白い布で覆い、細い体で扉を押して。名を聞けば、リリィ。」
老人はいったん言葉を止め、手を膝の上で静かに組む。
「病だと噂された。光に弱い子でな。『病がうつる』と、人は言った。
ほんとは──うつらんものだったのに。」
胸の奥が、ひりつく。老人の声は静かだが、静かであるほど痛みが深い。
「教会の中は、影が多い。そこで暮らせば、外へ出ずとも日々は回る。
パンは分けられる。祈りもある。
……だから、しばらくは守れたんじゃ。けれど、風の強い日が来た。
町の掟、国の命。『外へ出せ』と。 本当は違うと、何度も言った。わしが前に立った。
……けれど、手を伸ばしても届かん日が、きてしまった。」
届かなかった──。
さっき名簿の前で感じた、あのズレが、ここで別の形になって重なる。
「その後、わしは探した。教会の外、町の中、丘の向こうも……だが、見つからんかった。
今でも思うんじゃ。あの子を、守りきれんかったと。
どこかで、今も泣いておる気がしてな……。」
初めて、老人はまっすぐ俺を見る。
その目は、責めるのではなく、託すような、預けるような目だった。
「少年。……きみは、どうしてリリィを探しておる?」
「……いなくなったんです。何日も探してるのに……どこにもいなくて。」
自分で言って、喉の奥が熱くなる。けれど、泣きたくなかった。
泣いたら、何かが終わってしまいそうで。
老人は、小さく頷いた。
「そうか。なら、村の言い伝えを教えよう。
……昔は、半分笑い話のように語られとった。 けれど今は、違う。」
帽子を膝から外し、手の中で握った。
「春の終わり。風鈴草の夕暮れの丘に立てば──
果たされなかった想いは、そっとよみがえる。」
沈黙。けれど、意味は響いていた。 果たされなかった想い。
リリィにも、あったのだ。
光に触れられず、笑うことも、名前を呼ばれることも、当たり前には許されなかった少女に。
だから、あの日、あの丘で笑ったのかもしれない。
あれが、きっと……彼女の願いだったのだ。
「今日は、春の終わりじゃ。少年。……わしの代わりにとは言わん。
けれど、きみの手で、今度こそ──あの子を救ってやってくれ。」
図書館で開いた胸の穴に、ゆっくりと何かが注ぎ込まれていく。
痛みの中で、熱が灯る。
「──任せてください。」
声は、震えていなかった。
「任せる、か。……いい言葉じゃ。」
老人は目を細め、穏やかに笑った。
「いい日を。」
と、いつもの挨拶で結ぶ。
俺は深く頭を下げた。顔を上げるより早く、身体が前へ倒れていた。
右、左。人波を縫う。露店の布をくぐる。屋台の匂い。
子供の笑い声。全部、風になる。
風見鶏がからり。二度、鳴った。
町を抜けて、俺は丘へ向かって、駆け出した。
読了ありがとうございます、六j話です。
今日は名簿の冷たい文字が胸に刺さり、ベンチの老人のひと言が彼女の扉を開ける回でした。
焦らず続けますので、気が向いた時にふらっと覗いてください。
もし続きが少しでも気になったら【ブックマーク】&【★評価】で応援いただけると、
作者が最終回まで転ばずに走り切れます。
次回クライマックス。
春の終わりの丘で、十年の約束。リリィと会うことはできるのか。
風鈴草の約束は守られるのか。
本日19時頃更新予定です。ありがとうございました。




