【第五章】空白の日々
あれから、丘に行っていない。
いや、正確には──行けなくなった。
足は動くのに、膝が反対方向を向く。
背中は「行け」と押すのに、胸の奥が「やめとけ」と引っ張る。
結果、俺は毎日、広場のパン屋の前で立ち尽くしていた。
(丘に行ったら……また言っちゃう気がする。
“陽に当たるのも悪くない”とか。……もう一発地雷を踏む未来が見える)
だから行けない。 ……それにしても、俺の日常のショボさよ。
家にいれば「アレン、炭パン禁止」と母に釘を刺される。
畑を耕せば「アレン、クワの刃は土に向けるもの」と弟に説教される。
井戸端で足を滑らせれば「アレン、前回も同じだろ」と父に肩を叩かれる。
でも──そんな日常のど真ん中で、ふと。 リリィの姿が浮かぶ。
白い傘。 風に揺れる縁の刺繍。
「内緒」と言って口元に指を当てた顔。
どれもこれも、昨日のことみたいに鮮やかだ。
けれど同時に、胸の奥で冷たい声が響く。
「……でも、あなたにだけは、そんなこと言ってほしくなかった。」
あの一言が、ずっと消えない。
繰り返し響く。夢にまで出てくる。
(俺……あの時、なんであんなこと……。)
思い返せば返すほど、自分の軽さに頭を抱える。
ただの「世間話」のつもりだった。
「陽に当たると元気になる」──そんな普通のことを言ったつもりだった。
でもリリィにとっては、普通じゃなかった。
彼女は一瞬で、笑顔を失った。
傘を握る指が白くなって、声が震えて……。
その光景が、どうしても頭から離れない。
だから丘に行けない。 丘に行ったら、また彼女と会う。
でも、その時に俺がまた失敗したら?
……きっと、今度こそ、取り返しがつかなくなる。
だから、行けない。 夜、布団の中で思い出す。
「炭パン」の話で笑い合ったこと。 「秘密」と言って誤魔化した顔。
「約束」と言って頷いた時の瞳。 その全部が、眩しすぎて。
俺の手じゃ、掴めない気がして。
風見鶏の音が耳に届くたび、胸が痛む。 風が回れば思い出す。
風が止まれば、もっと思い出す。
──こんな日々が、どれくらい続いただろう。 三日? 一週間?数えるのはやめた。
ただひとつ言えるのは──
どれだけ炭パンを焼いても、
どれだけ井戸で転んでも、
俺の中でリリィの記憶だけは、消えてくれなかった。
(行きたい。会いたい。でも……行けない)
その葛藤だけが、毎日を支配していた。
結局、俺は何日も丘に行けなかった。
行こうとしても足が止まる。
広場の角で回れ右。家の前でUターン。
心は丘へ、体は逆走。矛盾生物か俺は。
そんな俺を見て、父は毎日のように「アレン、クワの持ち方逆だ。」とか
「薪を切るなら長さを揃えろ」とか言ってくる。
はいはい、分かってますよ。俺はへっぽこですとも。
でも、その夜は少し違った。 夕飯のあと。
俺が皿を片づけていると、父がふいに声をかけてきた。
「アレン。」
「はいはい。分かってる。クワの刃が逆、炭パン禁止、
井戸端で足滑らすな。今日は三連コンボでしょ。」
俺の先手自虐。防御は完璧。……のつもりだった。
「違う。」
父の声は短く、低かった。 囲炉裏の火がぱちりと鳴る。
「お前……何かあったな。」
「え。」
皿を落としかける。セーフ。奇跡。
「な、なんで分かった?」
「顔に書いてある。」
「俺の顔はメモ帳じゃない。」
「いや、でかでかと悩んでますって貼ってある。」
父は鼻で笑って、酒を置いた。
「もし、思うことがあるなら……やるしかないんじゃないのか。」
「やるしか、って……。」
「考えごとされて仕事やらかされても困る。オノは折れるし、薪は曲がるし、
家計は泣く。なら、走ってこい。丘でも町でも、どこでもだ。」
冗談めかした言葉に、俺は口を開きかけて止まった。
本気なのか冗談なのか、判別不能。でも、少しだけ胸が熱くなる。
「父さん……俺、たぶん……。」
喉が詰まる。
リリィに会いたいと、その一言が言えない。
父は俺を見た。まっすぐに。
「アレン。お前は、不器用だ。」
「知ってます。」
「失敗ばかりだ。」
「耳にタコです。」
「けどな。」
囲炉裏がぱちりと鳴った。
「まっすぐなところだけは、悪くない。」
胸に、ぐさりと刺さる。
今まで一度も聞いたことのない褒め言葉。 父は続ける。
「迷わず行け。迷うから転ぶんだ。お前は、まっすぐ進むときが一番強い。」
「でも……。」
「いいから行け。迷ってる顔は見飽きた。」
父は唇を少し曲げて笑った。
「ほら、走れ。お前の足は転ぶためじゃなく、進むためにある。」
言葉が熱を持って胸に残った。 俺は拳を握りしめる。
「……父さん。」
「行け。」
その一言で、吹っ切れた。
「よっしゃあああああ!」
声が囲炉裏に響く。 父は小さく笑った。
俺はそのまま外に飛び出した。 走る。転ぶ。起きる。走る。
夜風が冷たい。肺が焼ける。 でも止まらない。止まるもんか。
石畳を蹴る。靴底が鳴る。 犬が吠える。誰かが窓を開ける。
全部無視。俺は丘だけを見ていた。
丘が見えてくる。 息は切れて、足はがくがく。でも登った。
「リリィ!」
頂上に着く。 白い傘を探す。風鈴草のつぼみをかき分ける。
──いない。 風見鶏がからり、と鳴った。
空は星明かり。影ばかり。
俺はその場にへたり込んだ。 遅かったのか。まだ来ていないだけか。分からない。
翌日も登った。 いない。 次の日も、その次の日も。
登る。探す。呼ぶ。 返事はない。
風見鶏だけが回る。草だけが揺れる。
「また明日」って言ったのに。
その「明日」が、来ない。
影が長く伸びるたび、胸の奥で声が反響する。
「……でも、あなたにだけは、そんなこと言ってほしくなかった。」
忘れようとしても、耳の奥に残っている。
謝りたいのに、伝えたいのに。 もう、彼女の影はどこにもなかった。
俺はただ、丘に座り込むしかなかった。
風見鶏がまた、からりと鳴った。 答えは返ってこない。
読了ありがとうございます、五話です。
今日は停滞→父ちゃんバフ発動の回。
「まっすぐなところだけは、悪くない」
──不器用持ちとして一生の処方箋、いただきました。
風見鶏は無言でも、背中は押してくれる。
焦らず続けますので、気が向いた時にふらっと覗いてください。
もし続きが少しでも気になったら【ブックマーク】&【★評価】で応援いただけると、
作者が広場の角で回れ右せずに済みます。
次回は静かな探索回。ページをめくる風、棚の間の一筋の気配。
明日昼更新予定です。ありがとうございました。




