四
「おかえり、ジョゼ。もう終わったの?」
「ええ。店番ありがとう、ルネ。それにトマさんも」
アンナとの面談を終え、表を見ていてくれた二人にそう言って頭を下げれば、なんとなく居心地悪そうに丸椅子に腰掛けていたトマが苦笑を返した。
「私は帰った方が良かったかもしれませんね。この店は、当たり前ですが良い匂いがしますし、キラキラしているから、どうにも、そのぅ……私のような……小汚い男が、いるには、場違いすぎて……」
「やだ、うちはそんな大げさなお店じゃないですよ。……そうそう、この間いただいたトマさんの絵、とっても評判いいんです。幻想的で素敵だって、みんな作者を知りたがってますよ。……これ、本当に譲ってもらって良かったんですか?」
「はあ、まあ、ええ。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけどね……大したものじゃありませんから……」
壁に掛けてある絵を見つめ、トマはまた何とも言えない顔になる。つられて視線をそちらに移し、ジョゼは首を傾げた。ジョゼは絵については素人だが、この絵が彼の言うほど悪いものであるとは、やはり思えない。先日、自分が食べるついでにと多めに買った昼食のサンドイッチを差し入れたジョゼに、礼になるかは分からないがと言いながら軽く渡されたのだけれど、どう考えても「貰いすぎ」なのはジョゼの方だと思うのだ。
簡素な額縁に入った、極小さな風景画。サン・ローラン街と隣の大通りを繋ぐ広場の花壇に、抜けるような青空、そして遠方に見える海を描いたそれは、何度見てもため息が出るほど美しい。見慣れた景色であるはずなのに、ただ見えたものを切り取っただけではない不思議な魅力が、その小さな長方形の中にはある。
手に入る絵具の種類すらたかが知れている、貧しい芸術家の作だと知れば、きっと知識のある者はアッと声を上げるだろう。創意工夫と磨き上げられた画力のみで、それほどまでに繊細に、丁寧に作りあげられた豊かな色彩は、現実のものとは確かに違うかもしれないけれど、香水店に訪れる少女たちに優しく甘やかな夢を見せてくれる。スケッチひとつにだって描き手の真面目さと芸術に対する真摯な気持ちがよく現れたトマの絵が、ジョゼは大好きだった。
「……売れるようなものじゃ、ないですよ」
けれどもトマは、近頃どうも後ろ向きで塞ぎがちである。理由は一つ、「理想の青」だ。トマはこのヴィエルジェに移住してからというもの、ありとあらゆる絵具と混色、技法を用いて、ヴィエルジェの風景を完璧に描こうと試行錯誤を重ねてきた。けれど努力の甲斐なく、未だ彼の「最高」の作は未完のまま。永遠に続くかのような失意の日々は、忍耐強いトマの心を長い間かけて削っていった。そうしてとうとう擦り切れてしまったのだと、いつだったか、トマは疲れた顔で呟いたのだ。
今日もまた、褒め言葉に返ったのは困惑気味の拒絶の言葉で、やんわりと、しかしはっきりと、彼は言う。
「駄作です、こんなものは。ヴィエルジェの何も描けてはいない。特に、この海がひどい」
「……そうでしょうか……?」
おずおずとそんな言葉を差し込んできたのは、ジョゼに続いて応接間から出てきたアンナだった。三人分の視線がぴたりと自分に向いたのに気づいて震えたアンナは、けれども小さな手を胸の前で握り合わせて、ふるりと首を振る。
「あの……わたくし、たくさんの方が描いたヴィエルジェを見てまいりましたけれど、こんなにも……その、失礼でしたらごめんなさい、でも……『愛』を感じるヴィエルジェの海は、見たことがありませんもの。素晴らしい絵だと思いますわ」
「それは……」
ハッとしたように、小さな奥目を瞬かせたトマが、血色の悪い顔を少しだけ赤くして後ろ頭を掻いた。
「……参ったなあ。……ええ、そのとおり。私ほど、ヴィエルジェの海を愛している絵描きは、きっと他にはいないでしょう。だからこそ……いえ、いいえ。姫は、良い『目』をお持ちだ」
本当に。
そう呟いたトマは、照れ臭そうに笑うと、そっと目を伏せたのだった。




