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午前七時の調香師  作者: 佐倉真由
第6話 栄光の手
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 甲板に立ち、振り返る。

 後にしたばかりのその島は今や、純白のウェディングドレスを纏った花嫁であった。

 クロードは長めの前髪を風に遊ばせたまま、来た時と同じように――あの時とは違う気持ちで、遠ざかっていく「花嫁」を見つめていた。


「……名前を付けて、か」


 掌に収まって余りが出るほどの小さな小瓶。ミントグリーンの液体がどんな香りなのか、結局あの場では何ひとつ教えてくれなかった。赤毛の少女の、熟れたりんごのような真っ赤な頬を思い出し、クロードはそぅっと唇を綻ばせる。

 ルネには「天然だ」なんて笑われたクロードだけれども、実際そこまで朴念仁なわけではない。ただ、ジョゼという少女との縁について想う時、最も近くにある感情は慈しみである。ただただ健やかに在るということを願い、喜ぶような穏やかなもの。けれどその一方で、ジョゼが一人の少女である以上に、「調香師マダム・ルブラン」であると思い込んでいた節が以前のクロードにはあった。


 香水どころか、芸術に対する感性もそう豊かな方ではなく、作家の気持ちを推し量ることも苦手な方だ。

 けれど今、「絶対にその場で見るな」と念を押したジョゼの、真っ赤な顔の理由がすぐに分かった。ジョゼが気付いてほしくないと伏せた、もう一つの理由の方だ。


「スカートと同じ色だ」


 明るく陽気なヴィエルジェ島の初夏という季節に、まるで似つかわしくない地味で重い色の服ばかりを着ていたジョゼだが、今日は違った。爽やかなミントグリーンのスカートを翻し、いつもまとめてひっつめられている赤毛をお下げに結って、何となく落ち着かない風で現れたジョゼに、クロードは少しだけ驚いた。驚いたけれど、鉄仮面による長年のコミュニケーション不全が祟って特に気の利いた言葉は出てこなかったし、表情は例によってぴくりとも動かなかった。だからジョゼは、安心したような残念そうな、何とも微妙な顔をして、普段通りに話し始めたのだ。そうして、結局そのことに触れる機会は、最後まで訪れなかったのだけれど。


「……ちゃんと伝えれば良かった」


 どういう理由で、普段と違う服装だったのかは分からない。自惚れても構わないのなら、クロードを見送るために精一杯のおしゃれをしてきてくれたのだろうけれど、ジョゼはいつでもジョゼであり、特に何かが起きるようなこともなかった。単純に、ルネ辺りに「せっかくだから着て行け」とでも言われて押し負けたのだろう。あの子たちは本当に仲が良い。

 まあ、そんな風に何の理由もなかったとしてもだ。気が強くてしっかり者、ややもすると「可愛げが無い」だなんて言われてしまいそうなジョゼの、一枚めくった裏側にある脆さと涙、そして「普通」の少女らしい一面を知ったクロードにとって、それは大失態とも言えた。


「似合ってた、って」


 手紙を書こう。帰ったら、きっとすぐにでも。

 ジョゼはまた顔を真っ赤にして、憤死しかねない勢いで「何で気づくのよ!」なんて喚くのかもしれないけれど。そして、それを見てルネが笑って。もしかしたら、アンナもそこにいるのかもしれない。彼女は、困ったように、けれどもやっぱり笑うのだろう。香水店「ルール・ブルー」は、素敵な香りと笑顔で満ちている、そんな店なのだから。

 人の縁は続くのだ。こちらから手を離さなければ、いつまでだって。そんなことも忘れていたのかと、クロードは目の覚めるような思いでいた。まるで今までずっと死んでいたかのような、ようやく「魂」を取り戻し生まれ変わったかのような、そんな心地がした。


 割り当てられた船室へ向かえば、相部屋の人々はちょうど留守にしているようだった。簡素なベッドに腰掛けて、小瓶の蓋を開ける。きゅぽ、と小気味よい音がして、ふわりと柔らかな香りが辺りに舞った。

 香水のことも、香りのことにも、全く詳しくなんかない。どんなふうに使えばいいのか分からないと言えば、何に使ったって構わないのだとジョゼは言っていたから、帰ったら枕にでも一滴垂らしてみようかと思う。


 ぽかぽかと温かく微睡む季節、その夜明け前の一瞬。きりりと冴えて、けれども、寝静まった町の全てがとびきり美しく染まる青の時間(ルール・ブルー)。ゆったりと時は過ぎ、瑞々しい葉に伝う朝露、まあるく優しい春の太陽。それから穏やかな日常の――質素だけれど美味しい朝ごはん、顔を拭うタオルのふくふくとした柔らかさと、「家族」の温もり。

 気付けば唇は薄らとした笑みを浮かべていた。何年ぶりかもわからない、ぎこちない微笑みは、誰に見届けられることもない。白く肉の薄い頬を、尖った顎の先まで滑り落ちて行った涙の温かさも。


 クロードの知る「家族」は、もっと賑やかで散らかっていて、朝からわんわんとやかましい、そういうものだった。ジョゼの記憶にある「家族」もきっと、亡くなった「おばあちゃん」ただ一人で、だからこの香りは多分、もっと違う「家族」の朝だ。もっと違う、けれども確かにクロードのための、「家族」の朝の香りだ。


 死地など何度も通ってきた。実際に、死んだことがあるのかもしれないと思うほどには、常に死と隣り合わせに生きてきた。記憶力ならおかしなくらい良いはずなのに、戦場にいた頃のことだけは、もうほとんど覚えていない。

 けれど、遠い雪解けを待つ朝に香った温もりがあったことを、ふと思い出した。


 久しく忘れていた郷愁にも似た思いを、さあ、何と名付けようか。

 クロードは震えるような吐息を一つ零して、呟いた。


「……”午前七時の調香師”」

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