四
事件以降行方不明となり、逃亡を続けていたと思われるトマ・コーヘンが発見されたのは、以前ジョゼとアンナが「保護」された林の中だったという。
あの日、悪魔の気まぐれで行われたゲームに勝利したジョゼが異空間から戻ると、そこにはジョゼと同じく戸惑ったように首を傾げるクロードがいた。何しろ、件の「ゲーム」に招かれなかった人々は残らず地面に倒れ、すやすやと寝息を立てて眠っていたからだ。アンナも、「花の獣」も、皆。
どうしたものかと悩む間もなく、ジョゼはクロードにアンナを安全な場所まで連れて行くことを頼んで、自警団や兵士を呼びに走った。こうして、何ともあっけなく奇妙な形で決着を迎えた此度の事件は、「トカゲのしっぽ」として切り捨てられる予定が逆に逃げ延びてしまったトマの身柄をようやく拘束したことにより、今度こそ解決と相成った。
「ただ、聴取は難しいみたいだ。すっかり衰弱して、気が触れてしまってるって」
「そう……」
「うん。だから、犠牲者の数が実際どれほどだったのか、真相は闇の中」
大陸への連絡船を待つ間、ジョゼとクロードは、ぽつり、ぽつりと言葉を交わす。長めの前髪を潮風に遊ばせ、じっと海の向こうを見つめているクロードをちらと盗み見て、ジョゼはまた口を開いた。
「クロードさんのお仕事も、これでおしまい?」
「そうだね。僕の任務は、今年の花祭りが無事に済むまで、アンナ姫を花の獣から守ることだから。実行犯が捕まれば、後は僕の出る幕じゃない。元々、彼は『花の獣』の内部のことなんて、何も聞かされていないだろうしね」
「そっか……。あ、じゃあ、トマさんには会ってないの?」
「いいや、一応本人かどうか確認だけしに行ったよ。……本当にあのとき見た男と同じ人間なのか、しばらく観察しないと分からないほどだったけど」
画家という職業にしては、ずんぐりと大きく厳つい体躯の男。ぎらぎらとした狂気に満ちていた瞳は今や光を失い、また別の狂気に囚われてしまったようだった。痩せたせいなのか、それとも別の要因でもあるのかは定かでないが、一回り小さくなってしまった背中をこれ以上ないほどに丸め、ぼそぼそと呟きながら左手の爪を噛む。あのような凶行に及んだ理由を問えば、絵具が欲しかったとばかり繰り返して困るのだと、取り調べを担当した兵士がぼやくのを聞いた。……確かに、人間の瞳から絵具を作っていただなんて、言ったところで信じてくれる者はないだろう。
「だからまあ、まるきり正気じゃないわけではなかったんだろうけど。それより、驚いたのは彼の手だよ」
「手? 爪の噛み過ぎで血まみれだったとか……?」
「ううん。右手が無かったんだ。手首から先が、もうずっと前から無かったみたいに。だけど、そんなはずはないだろう? 彼は右利きの画家だ。右手がなければ絵筆を握れない。それに……きっと、もう二度と彼は『画家』には戻れないだろうね」
そうクロードが言うのは、何もトマが利き手を失ったからというばかりではなかった。敗北者となった殺人犯は、凶行の代償をもう一つ払わされていたのだ。視力という名の、ヴィエルジェの景色を愛した彼にとって、最も耐えがたいであろう代償を。
焦点の合わない落ちくぼんだ目を思い出しながら、クロードは語る。兵士が名を呼べば、一応はそちらを向くものの、それだけだったと。クロードの声を聴いて怯えたようにがたがたと震え始め、悪魔め、私にはもう何もない、帰ってくれ等々と叫んだということも。
「……何があったのかは、まあ、大体想像つくわ」
自業自得とはいえ余程の目に遭わされたのだろう。ジョゼは顔を顰めて、嫌な鳥肌の立った腕をさすった。万年ぽやぽやへらへらと笑みを浮かべている、無害を絵に描いたような少年の姿をしていても、やはり悪魔は悪魔なのだ。気まぐれに人を悪徳へと誘い、道を踏み外させておいて、飽きたら簡単に手放してしまう。
ジョゼが「トマ」にならずに済んだのは、偶然に過ぎなかった。死にかけていたジョゼをたまたま拾ってくれた育ての親が、たまたま悪魔にまで一目置かれる調香師で、たまたまジョゼに犬並みの嗅覚があって――そんな幸運な偶然が重なったがために、ジョゼと悪魔は長年の知己となり、だから悪魔はジョゼに味方してくれた。それだけなのだ。強いていうなら、「まだ手元に置いて楽しみたい」という、恐ろしいほどに勝手な理由があったのだろうというくらいで。
「その……ジョゼは、……『彼』のことをよく知っているのか?」
表情を曇らせたジョゼに、少し躊躇うような間を置いて問いが降ってくる。クロードの言う「彼」が今し方思い浮かべていた存在と同じものだろうとは、言われずとも察しがついた。何とも複雑そうな様子の仏頂面を見上げ、ジョゼは肩をすくめる。
「あの自称悪魔なら、おばあちゃんから引き継いだ取引相手みたいなものよ。ヘラヘラしてるけど油断ならない奴だってこと以外何も知らないわ。……巻き込んでおいてなんだけど、もう関わらない方がいいわよ」
「それはまあ……そうなんだろうけど。君は?」
「あたしは、あいつと関わるのも仕事の一環だもの。おばあちゃんを見習って上手くやるわよ」
「危ないことはやめておいた方がいい、と言いたいところなんだけどね。あまり強くも言い切れないのは、彼のあの姿のせいなのかな……」
遠い記憶を探るよう、海の向こうに視線を投げてクロードは黙り込む。端正な鉄仮面の裏で考えていることはイマイチ読めないが、ジョゼの脳裏には彼とよく似た赤毛の悪魔が浮かんできて、いつかの言葉を繰り返した。曰く、悪魔の姿がジョゼにはクロードの幼少期と映るのならば、それは見る側の問題なのだと。
では、クロードには一体どんな姿に見えたのか。問うてみせれば答えてくれるのだろうけれど、何故だか言葉は喉の奥に詰まったまま出てこなかった。まるで、尋ねることを禁じられているかのように。
クロードもおそらく同じような感覚をおぼえたのだろう、怪訝そうに首を傾げているが言葉を発することはない。
何とも居心地の悪い沈黙が降りる。ジョゼは脳裏を過った「栄光の手」を頭の中から追い出し、追い出すついでに忘れていたことを思い出して、ハッと弾けるように立ち上がった。
「そうよ! あたし、おしゃべりと見送りに来たわけじゃなかったわ! ……クロードさん、これ!」
「? これは……」
「やっぱり時間かかっちゃったけど、やっとできたの。約束の香水よ。あたし結局役にも立たずに守ってもらってばっかりだったもの、お代は要らないから貰って。まああの悪魔が一枚噛んでるから嫌だって思えば無理に受け取らなくていいんだけど……貰ってくれるなら、名前はね、クロードさんに付けてほしくて」
小さな小箱には、何のラベルも貼られていない。けれど、微かな重みと水音は、確かにこの中身がジョゼの「作品」であることを告げていた。
クロードは少しだけ目を見開くと、ありがとう、と囁くような声で言う。
「……開けてみても?」
「あ、ああ、待って待って……せめて、船に! 乗ってからに! して!」
「? うん、それは構わないけど……でもどうして? ここで使うと劣化してしまうとか?」
ピンとこないと首を傾げるクロードは、香水のことも分かっていないのだろうけれど、それ以上に「作り手のお気持ち」というものを理解していない風である。どこであれ、香水は一度空気にさらされれば劣化するし、そうでなくとも香りは徐々に失われていくものだ。「ルール・ブルーの香水」はその点、この世ならざる香料まで含まれているせいなのか、長持ちすると評判なのだが。それはこの際どうでもいいので脇に置いておく。問題は、先も述べたとおりジョゼの気持ちの方である。
こほん、と一つ咳払いをして、ジョゼはもじもじと口を尖らせて言った。
「劣化とかはね、仕方ないところもあるから。それは割と寿命の長い香水だけど、あんまり大事に取っておかないで使える時に使った方がいいわ。……それで、あたしが言いたいのはそうじゃないのよ。あのね、もちろん絶対に気に入ってもらえると思ってるわ。納得いく香りになるまで、何度も作り直したんだもの。だけどね、その……」
「……その?」
「……。その、…………恥ずかしいのよ、こう、目の前で、どんな香りか試されるのが…………」
蚊の鳴くような声で呟くジョゼに、クロードは相変わらずぴくりとも動かない表情で「そうなんだ……?」などと首を傾げている。
ジョゼだって、別にいつでも恥ずかしがっているわけではなかった。むしろ、普段であれば万が一の際の最終調整もできるからと、目の前で試してもらえる方がありがたいとすら思っている。けれど、今回は違った。クロードの香水は、クロードの願いを叶えるために作ったものではない。一応「笑顔になれるように」というぼんやりした望みこそ聞いたが、それではやはり「願い事」と言うには弱かった。そのためこれは、ジョゼが彼自身をイメージして――見たこともない彼の自然な笑顔を思い描いて調香した、言うなればジョゼの理想と妄想を具現化した香りなのである。
もちろん最高のものを作ったつもりだし、似合う香りになったはずだ。クオリティに自信はある。……のだけれど、だからこそまた恥ずかしい。
恥ずかしい理由はもう一つあるのだけれど、それはもう、できることなら気づかないでほしいほどのことなので黙っておこう。
しどろもどろになりながら前者の事情のみ伝えると、クロードは尚も「よく分からない」といった様子でぽつりと言った。
「僕は嬉しいけど」
「や、やめてやめて、本当に嫌だからね。あたしは恥ずかしいのよ……冷静に考えたら何かちょっと変態っぽいし」
「へんたい」
「何でそこだけわざわざ繰り返すのよ!」
耳まで真っ赤になってわあわあと喚いていれば、遠方から汽笛の音が聞こえてきた。はたと顔を上げ、船の影を認めると、ジョゼはクロードに視線を戻す。無表情だが端正な横顔は、目を眇めて水平線の向こうを見つめていた。
ああ、この鉄仮面も見納めか。
そう思えば、胸の中がひゅっと冷たく寒くなる。
ジョゼは視線を落とし、潮風に攫われてしまいそうなほど小さな声で言った。
「……もうお別れなのよね。何だかクロードさんとはずっと前から一緒にいたような気分になってたから……寂しくなるわ」
「そうだね。僕も……、寂しいと思うなんて、久しぶりだ」
点のようだった船は、徐々に岸へと近づいて、船らしい形になっていく。乗船の列ができ始めた頃、鞄を手に取ったクロードがぽつりと名を呼んだ。
「ジョゼ」
「? なに?」
「……互いに仕事や立場もある、島と王都じゃ距離もある。だから、すぐに駆け付けることはできないけど。何かあったら、また呼んでくれると、嬉しい」
「……クロードさん?」
初夏の日差しに照らされた黒髪と、案外白くて肉の薄い頬。氷の鉄仮面であるはずのそれが僅かに緩むのを、確かに見た。
目を丸くしたジョゼに、冬空色の視線が落ちる。
「だって、僕、君の【ナイト】なんだろう?」
笑顔と呼ぶにはささやかすぎた。けれど、それはジョゼが、幾度も想像した「それ」に違いない。
ああ、やっぱり彼はジョゼを裏切らない。いつだって、どこにいたって、きっとジョゼのことを思ってくれている。
そう思う理由は、とうとう分からないまま。けれど、それでいいのだ。不思議な出会いに、不思議な事件。この先もきっと「花の獣」と戦っていくのだろうクロードとの、不思議な縁が切れないことを、誰よりジョゼが望んでいる。
だったら、それが全てだ。
ジョゼは照れくささで肩を竦め、とびきりにっこりと笑って返した。
「香りがなくたって、ちゃんと笑えるじゃない。あたし、その顔が一番好きよ。……きっとまた会いましょうね、あたしの【ナイト】さん!」




