二
ジョゼ・ルブランは、先の戦争で天涯孤独の身となった、いわゆる戦災孤児である。
香水店「ルール・ブルー」の店主である鷲鼻の老女、王都では国一番の調香師と名高かった「ルール・ブルーの魔女」ことマダム・ルブランに拾われ、悠々自適の老後を望む彼女と共に、このヴィエルジェ島へとやって来た。
焼野原に独りぼっちで死ぬのを待っていたジョゼは、幸運にも、マダムが長年求め続けた天賦の才を持っていた。どんなものでも嗅ぎ分ける、類稀なる嗅覚である。傷ついて弱り切っていた身体が癒えた頃、出されたスープの材料を事細かに当ててみせたジョゼを見て、「おばあちゃん」はひどく喜んだ。――そう。老い先短い天才は、彼女の技の全てを受け継ぐ弟子を探し求めていたのだ。
そうして十余年が経ち、厳しくも優しかった先代が亡くなって、ひと月とちょっと。がむしゃらに働いた甲斐あってか、二代目「マダム・ルブラン」の腕前は、少しずつ島の内外で認められつつある。
ふわふわの蜂蜜パンに無心に齧りつくジョゼを見て、ルネが頬杖をついたまま呆れたように言った。
「ねえ、気持ちは分かるけどさ。クマすごいじゃないか、きみ。最近お風呂に入る以外で部屋帰ってる?」
「帰ってる……わよ。たまには一応」
「でもベッドで寝てないんでしょ。母さん言ってたもん」
「やだ、おばさんあの部屋入ったの?」
「昨日ね。あんまり気配がないもんだから、きみが死んでないか心配してさ」
親友が大家の息子というのは、こういう時に厄介だ。ジョゼは口を尖らせて、深々と溜息をついた。
「だって二階の作業部屋にソファがあるから、仮眠くらいなら十分そこで……ええ、うん、ごめんってば。今日は帰って寝るわよ」
「はい、そうしてください。全く、きみって子は! 不摂生はお肌の大敵なんだからね?」
「ルネならともかく、あたしが肌なんか気にしたって仕方ないじゃない」
「もう! またそんなこと言う」
ぶつくさと文句を言う顔すら可愛らしい幼馴染に言われても、素直に受け取れないのは悪い癖なのだけれど。今日もジョゼは苦笑だけで返し、赤みの強い茶髪をくるりと指に巻き取った。
破格の美少女(美少年)であるルネと違って、ジョゼは十人が見て十人が「普通」と答える容姿をしている。髪はパッとしない赤茶色で、作業の時に邪魔だからといつも頭巾の中に押し込まれていたし、背丈や顔立ちにも特別なところは一つもなかった。
大きくも小さくもない緑の目が二つ、鼻だって低くもなく高くもなく、唇は薄くて、ルネのようにぽってりと愛らしい唇には程遠い。確かに肌は最近荒れがちで、曲がりなりにも美容に関わる商売をしている身として気になってはいたが、すっかり染みついてしまった諦めはそう簡単には手放せないものである。
ふさふさの睫毛の下でじとりとこちらを睨むルネから目を逸らし、ジョゼは唇に付いた蜂蜜をぺろりと舐めた。こんな時はさっさと話題を変えてしまうに限る。
「それにしても、今年は観光客多いわね。やっぱりアンナ様目当てかしら?」
「ああ、言われてみれば。そうなんじゃないかな? だって、アンナ様が今年の『花の女王』なんだもの。未来の王妃様がどんな顔か、みんな興味津々なんでしょ」
「みんな、なーんて他人事みたいに言って。あんたも御多分に洩れずでしょ」
「あは。ばれた? ま、当たり前だよね。どんな人なんだろ、気になる〜」
「……よね。実はあたしもよ」
舌を出してくつくつ笑うルネに、ジョゼも笑って返す。
ノワリー伯爵令嬢アンナと言えば、今現在、この島どころか大陸中で話題となっている時の人だ。
曰く、難攻不落の堅物王子と名高い王太子殿下に一目惚れされ、直々に婚約者として指名を受けた謎多き美姫である、と。
姫はこの島で生まれ育った、伯爵の一人娘である。年頃はジョゼやルネと同じくらいだと聞くが、滅多に公の場へ現れることはない。ほんの幼い頃に侍女たちに連れられて城下町を訪れた時、もじもじと恥ずかしそうに俯いていたとヴィエルジェの大人たちは口を揃えて言っているから、きっと内気な娘の希望を伯爵が尊重しているのだろう。
これで彼女が実はわがままで迷惑な姫だった……となれば話は違ったが、素行が悪いといった噂は今日まで一つもなかった。日頃は花を愛でて慎ましやかに暮らしているとかいないとか、アンナの噂といったらそんな話ばかりだ。
そんな、ただ恥ずかしがり屋なだけの大人しいお姫様を馬鹿にしたり嫌ったりするような者はこのヴィエルジェにおらず、島民たちも彼女の「内気」を微笑ましく見守ってきた。
けれど、そうして穏やかに暮らしてきたアンナ姫は、今回の婚約発表を受けてとうとう人前に姿を現すこととなった。『花の女王』と言えば、四人の花冠の乙女を従えた精霊の長として舞台の中心に立つ、花祭りの要である。
そんな彼女を一目見ようと集まった観光客で宿はどこも満員、下宿を営むルネの母にも「空いている部屋を一晩貸してほしい」と掛け合う者が後を絶たない。
「最近トマさんの部屋によく人が来るよ。宿が取れないらしくてさ、知り合いだから泊めてやっていいかって。毎回違う人ばっかりだけど」
「へえ、珍しい。トマさん、スケッチ以外で部屋から出ることすらあんまり無いのに。芸術家仲間かしら?」
「そうなのかなあ。何か挨拶の声もぼそぼそしてるし、こっちの顔見ないしで根暗そうな人ばっかりだったけど」
「こら、人の知り合いに向かって失礼なこと言うんじゃないの。……まあ、それは置いといても、トマさんの部屋って画材とキャンバスだらけじゃない? 人が泊まれるところあるのかしら?」
「さあ? でも、寝床がなければ自分のベッド譲っちゃってトマさん床で寝てそうだよね」
「ああ……そうかも、トマさん人が好いから……」
ジョゼと同じ下宿で暮らす、階下の住人を思い浮かべ、ジョゼは苦笑した。一言で言うなら「熊のようだ」と、誰もが口を揃えて言う、商売っ気のない画家の男。いつも無精ひげを生やしたまま、かび臭くて擦り切れたシャツを辛抱強く着続けているのが、トマ・コーヘンという人物である。一見して画家とは分からないあの大きな身体を小さく縮め、いつも申し訳なさそうに廊下の端を通るトマなら、確かに寝床を客に譲ってしまいそうだ。
そんな彼が近頃やつれた様子だったことをおまけのように思い出し、ジョゼは「そう言えば」と首を傾げた。
「ねえ、トマさんって言えば、前に言ってた絵具は――」
「なかなか見つかりませんね。ヴィエルジェの青は、難しい。……こんにちは、ジョゼさん、ルネくん。お客さんを連れてきました」
カラン、とドアベルが鳴ると同時、のんびりとした声が聞こえてきた。鼻をかすめたテレビン油のにおい。あら、と顔を上げたジョゼの目に飛び込んで来たのは、今日も変わらず大きな身体を丸めてぼさぼさの眉を垂れるトマと、もう一人。
トマの背中にすっかり隠れてしまった小柄な少女は、ひょこりと顔をのぞかせると、目深に被った帽子の下でヴィエルジェの夏の海を思わせる碧眼を瞬かせた。
「……あの、不思議な香水屋さんというのは、こちらでしょうか?」
胸の前でぎゅっと握られた手。
少女の華奢な指には、伯爵家の紋章が彫られた指輪が輝いていた。




