序
日の出前のその一瞬、雪深い廃墟は水槽の街だった。
黒い煙が遠くたなびく。落ちる空気は凪いだアクアマリン。きーんと冷えたその日の朝は、ぞっとするほど美しいのに、ひどく嫌なにおいがしたことを覚えている。
朝を伝える鶏が鳴かない。――鳴かないのではない。いないのだ。埃っぽさに噎せながら、ようやくがれきの中から這い出した少女が、今やただひとりの「いきもの」だから。
毛糸の靴下に包まれた足が、砕けた硝子を踏みつけて、じゃりっと耳障りな音を立てる。雪解け水が靴下をじっとり濡らし、足の裏を冷たく湿らせるのが、とにかく不快だった。
ぼーん、ぼーん、と七つ分、廃墟のどこかの古時計が、ひび割れた音を鳴らす。
生きたものがあったのかと、無機物の声に安堵した。乾いた風が袖口を撫でることにすら怯えていた。じわじわと奪われていく体温、体力、それから希望。
だって、音もない。何も動かない。少女にとって、そこはまさしく水槽だった。魚でない少女が生きるには、あまりにつらい。
やがて少女は地面にくずおれた。水たまりの真ん中で、とうとう腰から下の感覚がなくなった。それでも、もがいた。最早一歩も前には進めず、ばしゃばしゃと水たまりが音を立てて、まるで溺れているようだった。
朝日が昇る。水槽の街は黄金に染まり、虚ろな瞳を焼く。
「……おやまあ、本当にいた。早起き損かと思って来たんだがねえ」
頭上から降り注いだ声の主は、鷲鼻の老婆だった。しわくちゃで節くれ立った指の先では黄色い爪がまあるく曲がり、ぼそぼその白髪はいかにも寒そうなのに、差し出された救いの手は涙が出るほど温かだ。
母を亡くした幼子は、その温もりを追って手を伸ばし、貪るように縋りついた。




