前編
ぎいいい、と、軋むような金属音がした。
やってしまったーーー!!!
まさかゴールド免許の自分が車の側面をぶつけるなんてっ!?
ど、どうしよう。
ハンドルをどちらにきったらよいかわからなくなった。明らかに軽いパニック状態。
そこは街中の狭いゲートバーのあるコインパーキング。出口の左側にある低い柵を見落として、巻き込む寸前というか、既に当ててしまっている。なんでこうなった!?
後ろには、別の車に並ばれたし。
困った!! 完全にしくじった!
にっちもさっちも行かない。
こんな時に咄嗟に思ったのは、にっちとかさっちって、何? だった。
ダメだ!! 完全にテンパってる!
その時、コンコンとすぐ横のドアウィンドウが叩かれた。
うわ、早くしろって、催促!?
「大丈夫ですか?」
「!?」
神か、神だ。良い人だ!
窓の外から腰を屈めて覗き込んでくれていたのは、少し長めのはねてる茶髪、黒のレザージャケット、目が見えるか目えないかくらいのスモークのサングラス!!?
見た目はハードだけど、
「私が誘導しますから、落ち着いてください」
声は、優しかった。
わたしは喉がカラカラで、頷くしかできなかった。
「まずはハンドルをそのままで、ゆっくり合図するまでバックしてください。それから……」
わたしは、車を少しバックさせたけど、男性がどのような指示をしてくれているのか、手でハンドル操作を見せられても、だめだ、わからない。
私は、思いきってドアを開けて車から降りた。
「あの、わたし、できそうもなくて……。大変ご迷惑をおかけしますが、運転を、代わりに車を動かしてもらっても良いですか?」
わたしのお願いに、男性は一瞬戸惑った様子を見せた。
当然だよね。
「……ああ、うーん、良いですけど、私が移動しても、どうしても車に傷は付きますよ。それでもよろしいですか?」
「かまいません!」
「わかりました」
わたしが操作するより、きっと最低限の傷で済むよね。情けないけど、お願いしてしまった。見ず知らずの人に。
後続車の、車体に【アートレンタル ギャラリーD】?と書いてあるワンボックスカーからわざわざ降りてきてくれたようだ。
見た目はミュージシャンぽいけど、アートレンタル?
会社の名前を背負ってるし、運転席にもう一人乗ってるみたいだし、おかしなことにはならないという勝手な確信。恥をしのんで頼んでしまった。
とにかくこの場は急がないと。ゲートのあるコインパーキングからの出庫は、これからは要注意!
車はするすると動いて、見事にゲートバーにある精算機の手前に寄せて停められた。
素晴らしい! 助かった〜。
ありがとうございます、見ず知らずのお兄さん。
「本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げてよいか……」
「これくらいのこと、どうぞお気になさらず」
「あ、お名前……」
男性はわたしの問いかけに軽く手を横に降って応えると、無言ですぐに車に戻ってしまった。
見るとさらに二台も後ろに車がつかえていた!!
私は慌てて駐車料金を精算すると車を出した。
そのまま口頭だけのお礼で終わらせてしまってはと、パーキングを出て車を停めてハザードランプをあげて、男性の車が出てくるのを待った。けれども、親切な男性を乗せたワンボックスカーは、わたしの車と反対方向へ出ると、そのまま走り去ってしまった。
本当に親切な人だった。
茶髪、レザージャケット、サングラス、優しい声。
覚えている特徴は……。ほとんど覚えていないに等しい。
ただ、彼が私の車のハンドルを握った時、見えた右手首に赤い痣があった。ただ、それだけしか〜。
私の記憶力、ポンコツか。
あとは【ギャラリーD】で検索してみるしかないか。
☆*。
傷ついた心と車で、二つ年上の姉の麻波が待っている某カフェの駐車場に着いた。
「お姉ちゃん!」
「チナちゃん〜! ありがとう、来てくれて〜」
「なんなのよ、もう。財布忘れたなんて、ありえないんだけど」
「てへっ」
二十代後半なのにそれを年甲斐もなくやってみせる姉に呆れる。
「わたしにやっても意味ないから!!」
「迷惑かけてごめんね。お会計1100円〜」
はいはいと言いながら、わたしは姉の代わりにお会計のトレーにお金を置いた。
姉とわたしは、市内のアパートにふたりで住んでいる。ふたりの職場が近いし、姉妹仲は悪くもないので、節約のため自然の流れだった。
まあ、姉はとにかく忘れ物が多い。家の鍵とか、スマホとか、忘れては絶対困るものでも平気で忘れる。
今回は、お昼を食べた後に、会計のところで財布を忘れたことに気がついたそうで、外出中の私が突然呼び出された次第。
それで慌てて車をぶつけた私も私だけど。
恥ずかしいから黙っておこう。
姉はそんなだけれど、他人からの評判がとてもよい。人当たりは良いし、他人と打ち解けるのが早い、人付き合いがとても上手いタイプなのだ。それに対してわたしは……。
わたしがカフェに着いた時には、姉は女性店員さんと親しげに雑談していた。
わたしがあんなに慌てる必要なかったよね。
「妹さんが早くいらしてくださって、良かったですね」
なんて、店員さんに嫌味の無い笑顔で逆に同情されてたし。
「はい、しっかり者の妹で、助かってます!」
姉よ、あなたがそんなだから、わたしがしっかり者に見えるだけ。
慌てて車をぶつけるようなわたしは、全然しっかり者なんかじゃない。
あ〜情けない。
後日の話だけど、傷ついた車の修理の見積りなんと〇万円!?
わたしは色々ダメージを受けた。
あの後、【ギャラリーD】をネットで検索してみると、メインは絵画のレンタルを行っているギャラリーさんだった。商店街のアーケードに店舗もある。
レンタル以外でも普通に展示即売をやってるみたい。長期の貸し出しから引き取ってきた絵画を格安で販売か。なるほどね。
興味が無かったせいか、全く知らない世界だった。
センスの良いホームページ画面に釘付けになる。
代表は、堂場一樹さんという人らしい。
受賞歴とか書いてあるということは、画家さん?
サロン・ド・パリ国際美術展 優秀賞受賞
日本・フランス現代芸術展 銀賞
絵を描きながら、画廊の経営もしているの?
あの人が?
いや、あの人とは限らないか。あの人は従業員かもしれないし。
そのほか、取り扱い作家には、絵画に疎いわたしでも知ってるような有名な日本人作家や外国作家の名前から、知らない作家まで連なっていた。
レンタルの中心は、色彩豊かな石版画やシルクスクリーン、ポスターらしい。種類、サイズ、作家によって、毎月のレンタル料金が設定されていた。
そもそも最近は仕事に追われ、芸術的なものには疎遠の生活をしている。
たまには絵画に触れるのも良い機会かもしれない。
ホームページの中で公開されている堂場さん本人の作品は、はっきり言って、暗い印象。
基調は黒とかセピア一色。けれども、ビロードのような繊細な艶があり、惹かれるものがあった。
銅版画という技法。部屋の壁に飾るというよりは、近くで観て楽しむ雰囲気の静物画作品だった。
突然行って迷惑かもしれない。でも、あんなに親切にしてもらったのだから、お礼がしたかった。
✩*.゜
お礼に行くと決めた日、お礼の品は何にしようと街中をぶらぶらしてみた。
バレンタインデーの前日なこともあって、なんだか、街が華やいで見えた。
わたしには、あまりご縁のない日。
しっかり者とは言われても、男性からしたら可愛らしくも愛嬌もない女だから。姉とは違って。
姉は、最近およそ二年ぶりに何人目かの彼氏ができたとかで、日々楽しそう。
わたしなんて、いまだに彼氏一人いたことない。
まあ、それは置いておいて。
わたしの足は、最近人気のチョコレート専門店を目指していた。
時節柄、なんとなく、お礼はチョコレートにしようと思った。
そのお店は、高級感溢れる重厚なガラス扉のある入口。入ってしまったら何か買うまで出られない買い物ではやたらと小心者のわたしには、敷居が高くて入りづらかった。今までそんなこんなで気になってはいたけれど、入ったことはなかった。
でもお礼のチョコレートを今日は必ず買うし。
おもいきって中に入ると、なんだか別世界に足を踏み入れた感じだった。
芸術的な見た目で、一口サイズの艶やかなチョコレートが整列しているショーケース。
ドーム型やハート型、四角、多角形、トリュフ型、花や色んな形。ブラウン以外のルビーやオレンジ、水色といった色彩のものも、まさに宝石のように美しかった。
バレンタインのプレゼント用で買い求めるのか、たくさんの女性客で、賑わっている。
人気は、ショーケースの中の組み合わせ自由、六個で三千円ていうヤツ。
まさに王道のあのブランドに匹敵する破壊力!
目眩がするほどまぶしいチョコレートだ。
「お決まりですか?」
メイドさんのような可愛い制服姿の店員さんとお店の雰囲気に飲まれ、
「は……い……」
わたしは流されるまま、ショーケースの中のオススメを六個選んだ。
チョコレートを手土産に、わたしは【ギャラリーD】に向かった。
ギャラリーは、街中の商店街アーケードの端の雑居ビルの二階にあった。階段を上がった二階のフロアには、いくつか小さい店舗が並んでいる。ブティックや珈琲豆店、理髪店、そして、一番奥に絵の飾ってあるショーウィンドウがあって、【ギャラリーD】とガラス越しに洒落た装飾のある文字が見えた。
あそこだ。
中に人がいるのが見えた。茶髪の人ではある。記憶ではもう少し暗い色だった気もするけど、背格好はあんな感じだったと思うし。自信がないけど、人違いだったら謝るしか。
屋内ではさすがにサングラスしないよね。せっかく来たし、勇気を出すしかない。
誰? とか言われたら……。
入口で悶々としていると。ドアが開いて、
「こんにちは。いらっしゃいませ。お気軽にどうぞ、中もご覧ください」
声をかけられてしまった。
気さくな感じで、優しそうな人だった。確かにこんな感じの声だったと思う。決め手となる手首の痣は、袖口までしっかりある黒いセーターを着てるから見えない。
「こ、こんにちは。先日はコインパーキングで、車の移動していただいて、本当にありがとうございました。すみません、突然おしかけて。あの時は急いでいて、きちんとお礼できなかったので、来ました!」
頭をさげながら、たどたどしくはなってしまったけれど、言うべきことは言えた。
「ああ、車ぶつけた人ね。来ました、とか、ウケる。あ、いや、わざわざありがとう。そうか、車に社名あったから、調べて来てくれたんだね? そんな、こっちは大したことしてないんだからよかったのに」
ニコニコと笑いながら言われた。
この人なんだよね?
まあ、わたしはぶつけた人なんだけど、凹んだ。
「あの時はパニックになっていたわたしに、ご親切に声をかけてくださって、とても助かりました! 本当にありがとうございました。これ、お礼に受け取ってください。街で人気のチョコレート専門店のチョコです」
持ってきたチョコの袋をグイッと差し出した。
あれ、なんか、告白してるみたいな雰囲気になってる?
「あ、ありがとう。なんか悪いね」
良かった、受け取ってくれた。
「えーと、きみは、ここのチョコレート食べたことある?」
「い、いいえ。あの、すみません、食べたことはなかったです」
「そう。じゃあ、ちょっと、こっち来て」
おいでおいでをされて、ギャラリーの中に入った。壁一面に絵が飾られていて、さらに縦に立てかけて重なって床置きされている。すごい在庫の量だ。
ノコノコついて行くと、スタッフオンリーと扉に書いてある部屋に案内された。そこには大きなソファとローテーブルがあった。
ここは商談コーナー?
「待ってて。一緒にチョコレート食べよう」
「えええ、そんな!? 差し上げたものをいただくなんて、失礼な……」
「いやいや、もらったんだから、もうこのチョコは僕のものでしょ? ご馳走する権利は僕にあるよね。もちろんきみも食べる食べないを選べるけど、できれば僕は一緒に食べたいなあ」
う。断わりづらい誘い方。
「今日は売り上げがよかったから、今からコーヒーで、ひとり打ち上げしようと思ってたんだ。付き合ってくれないかな。苦いコーヒーに甘いチョコレートはベストマッチだと思わない?」
「そう思います!」
チョコレートの美しい箱がローテーブルの上に置かれた。
「コーヒーは苦手じゃない?」
「むしろ、好きです!」
「……よかった、僕も大好きなんだ」
そう言って、男性は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。虹彩が明るい茶色。引き込まれてしまう。
大好き、なんて言葉、私に向けられたわけじゃないのに、胸が有り得ないほど高鳴ってしまった。
「隣の豆屋でコーヒーをいれてもらって来るから待っててくれる? 隣のマンデリン、好みなんだよね。きみも気に入ってくれるといいけど。少し待っててね」
「あ、おかまいなく」
とは言ったけど、わたしの言葉は聞こえなかったのか、男性はドアを開けたまま、わたしひとりを残して部屋から出て、恐らく店も出ていってしまった。
隣に行くだけとはいえ、この緩いセキュリティ、いいの?
ウインドゥに確かに警備会社のセ〇ムのシールは貼ってあるけど。
ああ、でもこんな小説みたいな展開、私にも訪れるなんて。頑張って生きてきたご褒美!? って、大袈裟か。
そんなホンワカ楽しい気分で待っていると、お店の方から声が聞こえてきた。わたしがいる小部屋のソファからは、そっちの様子は見えなかった。
「イツキくん!」
女の人だ。しかも名前呼び。
親しい間柄なんだ? 胸にズキっときた。
イツキ……。やっぱり、堂場一樹さん本人。
「あれ、早いね」
「ごめん、待ちきれなくて。ちょっと早く来ちゃった。わあ、コーヒーのいい香り。あ、もしかしてお客さま? じゃあ、あたし、またあとで来るよ……」
「大丈夫、絵のお客さまじゃないから、そんなにかからないよ。隣でコーヒーでも飲んで待っててよ」
「わかった、待ってるね。チュッ♡」
「おいおい、コーヒー持ってるんだから、危ないよ」
「えへへっ、ごめ〜ん」
女性の甘えるような声。
チュッて、なに? チュッって!
イチャイチャしたんだよね!?
膨らみはじめていたわたしの淡い期待は、一瞬で萎んだ。勇気を振り絞ってここまで来ても、わたしなんかに素敵なご褒美なんてやっぱり無かったんだ!
帰ろう。お礼は言ったし渡したし、未練……もない。ふたりのお邪魔だ。
ソファから立ち上がり、小部屋から出ると、
「え? チナちゃん!?」
「お、お姉ちゃん!?」
まさかの姉。
姉の声だと、全然気が付かなかった。