第1話 敵前逃亡
「って! 何を逃げているのだぁああああああッ!!?」
魔王城に響くのは、若々しい女性の声である。
魔族のみが蔓延る魔の大陸を支配せし彼女は、最も恐れられている最凶の女魔王ユニ。
そんな彼女に背中を向け、姿勢よく逃げるのは世界の命運を託された勇者ギルバートである。
苦戦の末の抗いなのか、それとも考えがあるのか。
最終局面に突入した死闘―――――ではなく、まだ戦いは始まってもいなかった。
ギルバートは、やる気満々の魔王を目の前にした途端に逃走を始めたのだ。
戦いどころか、前置きの会話すらさせてもらえなかったことで困惑、羞恥、激怒、あらゆる感情が入り交じったような表情で魔王ユニは、その後を追っていた。
「解せぬな。俺は争いを好まん、追うな」
「じゃあ、なんで魔王城なんかに来たのだッ!?」
「勇者に選定されたのだ。これから世話になるので挨拶に……」
「親戚感覚かよッ!?」
勇者選定の儀が行われたのは二日前である。
聖剣を生んだ工房のある『始まりの都市オリジネ』が開催地のはずだが、何故もう魔王の根城がある『魔王国、首都ネクロノ』に到着しているのか。
海を越えなければならない程の距離なのに、この勇者はどうやって二日間だけで自分の前に現れたのか。
ユニは真剣に考えていたが、当の本人であるギルバートの表情には緊張感なんてものは微塵も浮かんでいなかった。
真顔である。
魔王を前にして真顔なのである。
数時間にも渡って続いた勇者の逃走劇。
ずっと追いかけていたユニは疲労のあまり、ぐったりと壁にもたれかかりながら大きく息を吸って吐いていた。
「ぜは……ぜは……ロクに運動もせず玉座で、配下が差入れてくれる菓子を食べまくる生活を続けていたせいで……体力がぁ」
疲労困憊でいまにでも倒れそうなユニとは対照にギルバートは少し汗をかいた程度で、疲れた様子はなかった。
(もしや此奴これを狙っておったのか? 余が疲労しきったのを見計らって攻撃をッ……!?)
「………」
「ぐぬぬぬ」
無言で近づいてくるギルバートを睨みつけながら、威嚇するように牙を見せつける。
だがギルバートは動じないまま、懐に手を突っ込んだ。
何かを取り出そうとしている。
もしや自分を一撃で屠れるほどの武器なのか、あるいは兵器なのか。
(くっ……逃げねば……逃げねば倒されてしまう……動けぇええ! 余の堕落しきた身体ぁあああ!!)
それでもギルバートの方が、数歩も速かった。
目と鼻の先まで近づかれ、ユニは死を覚悟した。
脳裏に今まで優しくしてくれた配下たち、心躍る死闘を繰り広げてきた先代の勇者たちとの思い出が、走馬灯のように流れ、そして――――
(無念ッ!!)
「……ん」
何もされない。
痛みも、殺されたという感覚もない。
目を瞑っていたユニは、そっと瞼を開けた。
勇者ギルバートの手に握られていたのは、武器でも兵器でもない。
一輪の花だった。
「ふぇ?」
花を差し出された意図が分からず、ユニは変な声を漏らした。
「俺はお前とは争わない、争ってはダメなのだ。勇者と魔王の因縁なんざ知らん。これからはラブ&ピースを築いていこうではないか」
強引に花を握らされたユニは、口を半開きにしていた。
この勇者は何を言っているのか、一言も理解していなかった。
「ふっ、くだらん戦いはこれでお終いのようだな……」
「――――終わってたまるかああああああ!!」
対攻撃魔術が施された魔王城の壁に、風穴が開くほどの威力を誇る魔術がユニから放たれる。
直撃を食らえば、タダでは済まされない。
「ざまあ見ろ! 平和ボケした頭で、余の考えを改めさせれると思ったら大間違いだッ! このボケ勇者ッ!」
勝利を確信したユニは、その場から立ち去ろうとしたが、
「……待て、魔王」
破壊した壁の方から声が聞こえ、ユニはすぐさま振り返った。
そこに立っていたのは、微塵もダメージを受けていない無傷の勇者ギルバートだった。
「な、ナゼいまので生きているのじゃッ!?」
「よくも花を……花を……」
先程、差し出された花がなくなっていた。
攻撃魔術で木っ端微塵になって消えたのだろうか、ユニにとってどうでもいいことだった。
重要なのは、魔王の魔術を至近距離で受けて無傷のこの勇者である。
追撃を仕掛けようと手に魔力を込めようとした、その瞬間――――
「自然を、植物を、命を大切にしろおおおお!!」
怒りを込めたギルバートの平手打ちが火を噴き、ユニの頬に炸裂したのだった。
衝撃はそれだけでは留まらず、大地が割れ、周辺の木々をなぎ倒し、火山を噴火させた。
――――これは、敵を前にしたら必ず逃げる『最強の勇者』の物語である。