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キエユクモノタチ

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

シャボンの泡

 闇の中でシャボンの泡が消えて行く。その光景は誰の視界にも映ることはない。その泡があったことさえ知る者はいない。それでいても、シャボンの泡は、闇の中で漂い、消えた。それは確かな現象だった。


こもれびの家

 さほど人口が多い訳でもない町にある丘の上に一棟の建物が建っている。雑木林が茂るその丘の上の建物は、防火建築でできた小さな二階家である。派手さはないが、どこかスタイリッシュで洗練された外壁に比べて、建物の隅には、雑木林から流れて来たであろう木の葉や枝、虫の死骸などが塵芥となって溜まっていた。また、その横を見ると、手入れのされていない花壇に枯れ木が薄汚れた木の葉を積もらせたまま、閑散と植わっている。『如月こもれびの家』と呼ばれるこの建物は、介護保険法に基づく、福祉施設の一類型である。小谷こたに優香ゆうかは、このこもれびの家に勤める男性介護職員の一人であった。

「小谷さん。遅い。」

「すみません。」

「早く来て。」

「はい。」

 小谷を呼んだのは、女性職員の正田しょうだ佐智代さちよである。もうすぐ六十になるという彼女は、このこもれびの家では、ベテラン職員の一人である。

「あ。さちよさん。ホシノさん、容態、落ち着いたみたいですよ。」

「どれ、見せてみて。」

 こもれびの家の一室では、ベッドの上に一人の高齢の女性が横たわっていた。彼女はこもれびの家に入居している利用者で、皆からはホシノさんと呼ばれている。そして、その横には、中年の女性職員が、血圧計でホシノの血圧の測っていた。

「おはよう。小谷くん。」

「スミレさん。おはようございます。」

 小林こばやしすみれは、今年で四十三歳になるという。その割には、清楚でうら若く感じる。少なくとも、小谷の目には、そう見え、心には、そう感じられていた。

「お~い。手が空いたら、こっちも頼む。」

「はい。」

 男性の声に呼ばれた菫が、小谷の視界から消えて行った。部屋の中では、菫に代わり、ホシノさんの容態を佐智代が看ている。

「あなた、どう思う?」

「どうですかね……。」

 佐智代に呼ばれて、小谷はホシノさんの方を見た。小谷に言わせると、彼女はいつも優しい顔をしている。しかし、それが、今、お昼時に、ベッドの上で横たわっている彼女の姿は、苦しそうだった。

「一体、どうしたんですか?」

「お昼ごはんを食べようとしたら、急に苦しみだしたの。」

「ああ……。」

 午後から出勤して来たばかりの小谷は、佐智代の話を聞いて、ぴんと来た。

「(たぶん、それ、ごはん食べたくなかったんじゃ……。)」

 小谷がそう思うのには、訳があった。彼の知る限り、ホシノさんは、嫌いな食べ物が多い。それは、疾病が原因の偏食なのかも知れないが、今、重要なのは、そのことではなく、彼女は、それらを食べたくないということである。

「時々、あるわよね。心気症みたいなのかしら……。」

 介護主任である佐智代は、職員に対してだけではなく、利用者に対しても厳しい。常日頃、彼女は、栄養価の理由から、利用者の人たちが食事を残さないようにと指導していた。

「残さないで食べて!食べられるでしょう。頑張って。」

 佐智代は、よく、利用者にそう言っていた。その言動があまりにも目を見張る時は、密かに、他の職員が食膳を取り下げて残飯を処理してしまうのだが、そうすると、佐智代は何も言わなかった。それは、他の職員がやることだからと目をつむっているのかもしれない。しかし、基本的に、残さず食事を食べてもらうという、佐智代のスタンスは変わらなかった。その割に、彼女は時間も気にした。効率よくやらないと仕事が終わらないからである。

「片付かないから早く食べてよ!」

 そのような中で、嫌いな食べ物の多いホシノさんは、いつも遅くまで、食べていた。そういう時は、小谷や菫などが、佐智代のいない間を選んで、ホシノさんの食膳を下げていた。

「無理して食べなくていいからね。」

「ありがとう。」

 小谷が声を掛けると、ホシノさんは、そう言って部屋へ帰って行った。彼女の背中は小さかった。その丸くなった背中を見ていると、いつも、小谷は悲しくなる。

「ちょっと、ホシノさん!歯磨きしたの?」

「あ、ごめんなさい。」

 戻って来た佐智代に呼ばれて、ホシノさんは洗面台に向かって引き返して行った。

「(気の毒だな……。)」

 その光景を見て、小谷は気に病んでいた。確かに、佐智代の言う事のひとつひとつは正しい正論である。しかし、職員にも向けられることがある彼女の正義の言葉は、しばしば、正しいが故に、腹立たしくもあった。

「(一回くらい歯磨きしなくても、死ぬことなんかないだろうに……。)」

 洗面台で歯磨きをするホシノさんの後ろ姿を尻目に、小谷は他の人の所へ行った。


スミレさん

「なんかねえ……。」

 そんな小谷の癒しは、職員の小林菫であった。

「利用者さん、怖がっちゃうからねえ。」

 彼女は、穏やかで優しい雰囲気を持っている。そんな彼女と話すことが、小谷にとっての大切な時間となっていた。それは、恋心なのかは分からないが、小谷が菫に好意を抱いているのは確かである。ちなみに、小谷とは十二歳年上の菫は、既婚者であり、子どももいる。

「あ、二人ともおはよう。」

「ゲンゾウさん。久しぶりだねえ。」

「そうだったか?」

 吉岡よしおか玄三げんぞうは、もう六十を過ぎている。そんな彼も、こもれびの家の職員である。

「そういえば、菫さん。来月までだったか?」

「うん。そうだね。」

「他の所に行くの?」

「ううん。義母が体調崩しちゃってね。」

「そっか。じゃ、元気でね。」

 底抜けに明るい吉岡の言葉に、小谷は苛立ちを覚えた。そんな小谷の内心は、吉岡が原因ではなく、彼と菫との会話の内容が原因であることに、小谷自身が一番気が付いていた。

「……。言ってなかった?」

「そうですかね……。」

 曖昧な返答が小谷の動揺を表している。そして、菫に対する小谷の奇妙な返答が、それが原因で、さらに彼の心を動揺させていた。

「小谷君も、元気でね。」

「ええ。はい。ありがとうございました。」

「ふふ……。 まだ、ひと月あるからね。」

 菫の笑みを含んだ明るい声音は、ふだんであったら、小谷の心をカラフルに染め上げるはずなのに、この時の彼女の声音と微笑みは、彼の心の寂しさを、いつも以上に高揚させた。


コタニユウカ

 小谷は独り身である。家には、年老いた父母がいた。

「ただいま。」

「ああ、お帰り。」

 夜の十時過ぎだというのに、病気で痩せた母は台所に立っていた。帰宅してからも、小谷の胸中は不安であった。日中に、職場で聞いた同僚の退職話が、こうまでも、自分を孤独にさせるものなのかと思った。

「先に寝てるからね。」

「おやすみ。お母さん。」

 小谷の心の中にある寂しさが、彼の人生のいつ何時に形成されたのかは、本人も知る術はない。もとより、人付き合いを拒む彼に友人と言える者はおらず、小谷自身が、そういう存在を拒絶していた。

「(あれ、まだあったんだ……。)」

 今、部屋で臥せる小谷の記憶は、今夜、仕事の帰りに立ち寄ったスーパーマーケットの場末にあるゲームコーナーの映像を思い出していた。小谷が、子どもの頃によく遊んだそのゲームコーナーの一画には、彼にとっては懐かしい、アニメのキャラクターの姿を模した機械が置いてあった。わずか百円で動くその機械は、前方を人が通る度に、いつもと同じ、録音された音声を上げていた。今では亡くなってしまった、その声優が演じている音声は、小谷にとっては、明るく、無機質で、悲しい声だった。

 同僚との別れに憔悴している彼の心中に、今、何故、その場末のゲームコーナーの機械の事が留められているのか。その理由は、彼自身にも分からなかった。ただ、どうしてか、自らの存在には目をくれることもなく、目の前を通り過ぎる人たちに、愛らしく、懐かしい声を掛け続ける機械の音声が、今の小谷の心に響き、彼の寂しさに共鳴していた。


ゲンゾウ

「お~い。コタニ君。」

「はい。ゲンゾウさん。今、行きます。」

 それから一週間後、こもれびの家では、吉岡と小谷の二人が働いていた。

「今日は静かだな。」

「あ、ええ。」

 吉岡は介護職員としての経験も長く、性格も明るい。一方、小谷の方は寡黙である。吉岡に比べたら、小谷は新人と中堅の間と言った所だろう。

「ホシノさん。どうなるかね?」

「ホシノさん?」

「癌だってさ。昨日、ご家族の人が来てたよ。」

「癌?」

「高齢だから手術はしないらしいけど、他の施設に移るみたい。万が一の時に医療的処置ができる所。」

「ここじゃ、だめなんですね……。」

「ここだと常勤の医療職もいないしなあ……。まあ、家族の意向次第だな。」

 この間の体調不良も、もしかしたら癌の影響だったのだろうか。そんな思いが、小谷の脳裏をよぎっていた。

「ゲンゾウさんも、家族がいるんでしたか?」

「それ、どういう意味?」

 とんちんかんな小谷の質問を笑いながらも、吉岡は手を動かし続けていた。

「息子は、もう結婚して、孫もいるよ。」

「それは、おめでとうございます。」

「孫は、もう小学生だよ。」

「そうなんですね……。」

「……。 はあ……。 これからどうなるのかねえ……。」

「え……?」

 吉岡のため息が聞こえた。それは小谷が初めて聞くものだった。


ホシノさん

「(あっ、なくなってる……。)」

 こもれびの家からの帰宅途中に、小谷はあのスーパーマーケットに立ち寄っていた。買い物の去り際に彼が見ると、店内の場末にあるゲームコーナーがなくなっていた。空白のスペースとなったそこには、あの懐かしい機械の姿も見えなくなっていたし、その声も聞こえることはなくなっていた。たまに小学生が数人、遊んでいる程度であったその空間は、今後、千円カットの理髪店がオープンするらしかった。薄黒く汚れた白い床が、そこに置かれていた何台かの機械が過ごした年月の蓄積を告げていた。

「(……。 やっておけばよかったな……。)」

 あの機械の前を通り、その声を聞く度に、郷愁と懐古の慰みから、何十年かぶりに、いつか再び、その機械に百円硬貨を入れてみようと小谷は思っていた。しかし、その思いは遂げられることはなく、いつの間にか、その機会さえも、永遠に失われてしまったことに、失ってから、改めて、小谷は気付かされた。

「元気でいてね。」

 その月の下旬に、ホシノさんは、別の施設に移って行った。家族が迎えに来た車に乗って行く彼女に、小谷は別れの挨拶を交わしていた。玄関から見送るホシノさんの背中は、相変わらず丸まっていて淋しそうだった。そして、その翌週には、小林菫の姿も、こもれびの家から消えた。

「小谷君。早くしてよ。小林さんがいなくなって、忙しいんだからさ。」

「はい。分かりました。」

 空白となった小谷の心は、彼自身が思っていた程に、隙間が空いている様子ではなかった。それは、ホシノさんと菫、突然起こった二人同時の消失が、一人がいなくなることよりも、余計に彼の頭を混乱させていたのかもしれないし、それらのことを思う暇もないほどに、彼が仕事に忙殺されていたのかもしれない。それでも、何かを失った彼の心は、不意に、砂漠のように空虚な思い出の中に、彼を落とさせることがあった。それは、ある夜、ホシノさんの居室で、彼女とした会話の事だった。

「ねえ……。 あなた。これから、この国はどうなると思う……?」

「さあ……。」

 その会話は、不安で寝付けないホシノさんの寂しさから来るたわいのない質問だと、その時の小谷は思っていた。

「私も、これからどうなるのかねえ……。」

「今は、少子高齢化の時代ですから……。」

「あなた、ご結婚はされてるの?」

「いや。してませんけど……。」

「しないの?」

「ええ…、まあ。」

「そう……。 こんなに良い子なのに、もったいないねえ。」

「そうですか……?」

「もっと、良い時代に生まれたかったかしら……?」

「どうしてですか?」

「いや、なんとなくだけどね……。」

「ホシノさん。さあ、もう寝ましょう。」

「そうね。遅くまで、ありがとう。」

「おやすみなさい。」

「おやすみなさい……。」


消え行く者たち

「子どもは未来の宝。国を育てるのも、人を育てるのも、一朝一夕にはできないからなあ。」

「ゲンゾウさんが、若い頃は、良い時代でしたか?」

「俺たちの若い頃は、バブルの時代だったからなあ。景気も良かったし。今は、若い人の給料も上がらないだろう。」

 そう言いながら、口を大きく開ける吉岡の目線は小谷の方を真っ直ぐに見ていた。

「私たちみたいな老人も増えるしね。」

「佐智代さんは、まだいいよ。」

「まだって言ったの?」

「まだ、だいぶいいよ。」

 休憩室では、小谷と吉岡と佐智代の三人が昼食を摂っていた。その間の業務は、先月、新しく入って来た中途採用の職員がやっている。

「行かなくていいんですか?」

「大丈夫よ。あの人、ベテランだし、もう仕事できてるから。」

 新入職員を心配する小谷と違い、佐智代は楽観的だった。あれほど、細かい所まで厳しかった彼女も、ホシノさんと菫の二人がいなくなってからは、どこか、穏やかになっていた。それに、新しく来た職員と佐智代とは、気が合うらしく、よく笑顔でやり取りをしているのを、小谷は見かけた。

「じゃあ、僕、先に行って見て来ますね。」

「いいのに。」

 小谷の周りには、大勢の人がいる。その人たちは、等しく同じ時代に生きていて、彼を囲んでいた。それでも、何故か、彼は孤独を感じ、寂しさを感じていた。それは、彼らが、皆、それぞれ違う時間を生きているからだろうかと、小谷は思う時がある。大勢の人たちに囲まれ、共に生きていたとしても、彼らは、皆、それぞれ別の人生を生き、いずれ自分の前からは消えて行く。そんな暗い宇宙のような孤独の中で、確かな物などは、何ひとつ存在しないように、小谷には思えた。

「おやすみ。お母さん。」

「おやすみね。」

 夜、寝床へ入る愛しい母親の姿を見送る時、小谷は言いようのない幸福を感じることがある。そんな時も、この幸福がいつまで続くのかと、不意に、不安になることがあった。それでも、今、自分が感じているこの感情は、かけがえのない一瞬が、時間と空間を超えて、永遠の物へと置換されて、どこか遠くて近い場所に、その都度、保存されているのではないかというような不思議な思いに、彼は包まれることがあるらしかった。

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