転機
それから、麻耶が俺を心配して、放課後に幾度となく神社に顔を出すようになってくれた。
俺の中で、声が出ない状態で学校に行っても、いじめられるだけなのではないかという恐怖も、確かにあった。
だが、それ以上に、ようやく境内で出歩けるようにはなったが、鳥居の外へ出る事がどうしても出来なかった。
自分のせいでまた誰かが巻き込まれて傷つくのではないかという恐怖心に苛まれていた俺は、通常の小学校に行くことも、養護学校(最近は支援学校とも言う)に行くことも、聾学校(耳が聞こえない聾唖者が行く学校)に行くことも、体が頑なに拒んだ。
ルナの事件以降、精神的ショックで声が出なくなり、一時は無意識に手首を切るところまで追い詰められた俺は、麻耶と出会った直後の頃、実際には心の傷が癒えるどころか、まだ傷口が塞がってすらいなかったのだ。
そんな精神状態のままで、気軽に誰かと一緒に居たいとか、ましてや遊びに行ったり学校に行こうなどとは、とても思える筈がなかった。
同年代の誰かと一緒に外出しようという事自体が、俺にとっては罪悪感が強すぎて、犯罪行為と同列に感じるようになってしまっていたのである。
麻耶と出会った時は、助けなければという正義感だけで体が動いた。だが、麻耶が数回来た後に、試しに神社から出てみようと誘ってくれたものの、鳥居をくぐった途端に過呼吸を起こしてうずくまってしまい、どう頑張っても出歩く事は出来なかった。
最初は、過呼吸が出始めて目眩と頭痛が出始めた数分後に、精神性嘔吐症(ストレスで吐き気が止まらなくなる精神症の一種)で激しい空えづきに襲われ、本当に酷い呼吸困難になっていた。
不思議な事に、俺の場合は食事の直後でも殆どの場合は空えづきで、胃の中身が出て来る事はほぼ皆無だったが、毎回隣にいる麻耶も、まだ俺と同じく年齢一桁の子供だったのだから、本当は俺が変な病気で、もうすぐ死ぬんじゃないかと思っていたかもしれないな。
麻耶、当時は本当に心配かけてすまなかったと思ってるよ……。
その後も、麻耶が来てくれた時に何度も試したが、結局ダメだった。
気を遣った麻耶は、神社の外に出る事をとりあえず諦め、境内で出来る遊びを考えたり、カードゲームや手品セット等を持参して、週に何度も俺の遊び相手をしてくれた。
時々、声が出ない俺に理解を示してくれる麻耶の友達が、麻耶と一緒に遊びに来るようになり、少しずつではあったが、同年代の子と筆談で交流できるようになっていった。中には、月に4~5回の頻度で麻耶と親しい子が来てくれたりもした。
しかし、やはり麻耶と俺は、2人で過ごす放課後の時間が圧倒的に多かった。
声が出ない俺は、神社で子供が遊ぶなら定番と言える筈の、だるまさんが転んだとか、かくれんぼが出来ないのだ。
本当は、音楽で使う笛などで音を出せばたぶん出来なくはなかったんだろうと、高校生になった今なら思うが、当時6歳前後の子供がそこまで考えることは誰も出来ず、麻耶がいないときに神社に遊びに来る子は皆無だった。
そりゃあそうだろう。声を出せなければ、筆談でしかコミュニケーションを取れないのだ。
5~6歳のガキんちょが、そんな面倒くさい奴と遊びたいとは、普通は思わないだろうから。
だから、麻耶が俺を気遣って他の子と遊びたいのを我慢しているのではないかと、何だか申し訳なく感じた時期があって、麻耶に尋ねた事がある。
(ほかの子とあそびたいなら、ムリしなくていいよ。おれは今までもひとりだったから、へいき)
俺が縁側の床に置いた筆談用のメモ帳の文字を、俺の隣に可愛らしくちょこんと座って読んでいた麻耶は、胡座で座っていた俺の背中に体当たりするように飛びつき、ギュッと抱き締めてきた。
夏用の薄めのシャツ越しに、同じく薄着だった麻耶の体温が背中全体に広がって、俺の顔がみるみる赤くなっていくのが自分でもはっきりと分かった。
「わたしは、ジェフリー君といっしょにいるのが好きなの。ジェフリー君は、おうちにかえれなくなって困ってたわたしに、すごくやさしくしてくれた。だから、ジェフリー君のこと、大好きだよ!ほかの子とあそぶより、ジェフリー君といっしょがいいの!!」
満面の笑みを浮かべて、麻耶は俺の背中にくっついたまま、俺の頬に頬擦りをし始めた。その無邪気なかわいさと、あまりの照れ臭さに、俺は、顔はおろか耳や首筋まで熱くなっている。
限界まで速くなった自分の心臓の鼓動が耳まで届き、うるさくて周りの音が聞こえない。
けれど、背中越しに伝わってくる麻耶の体温と、俺と同じく限界まで速くなった麻耶の鼓動の心地好さを振り払う事が、どうしても出来ない。
このままずっとこうしていられたら、どれほど幸せなんだろう……。
どう反応したら良いのか分からずに固まっていたら、頬擦りしていた麻耶の頬がおもむろに離れた……その直後、不意に、頬よりももっと温かく柔らかい感触が、チュッという音と共に俺の頬に触れた。
いっ、今の感触は……
ままま……まさか……あの伝説の……ほっぺにチュー!!!?
麻耶が……俺に……!!!?
客観的に見た状態の様子を想像しただけで、ゆでダコのように真っ赤になる俺。
予想だにしなかった大事件の発生に、容量も処理能力も女子に対する免疫も低い俺の脳みそは、もはや完全なパニックを起こしている。
あまりにも恥ずかしすぎて、まともに麻耶の顔を見られなくなってしまった俺は、真っ赤なままで俯いて、完全に石化してしまった。
それに気付いた麻耶は、照れ臭そうに頬を赤く染めた後、照れ隠しのつもりなのか、再び俺の背中をギュッと抱き締め、無邪気に頬擦りを再開した。
その後も、麻耶が小学校から帰って来ると、俺達は常に一緒に居た。
境内の片隅にあるミニバスケットコートやフットサルコートで遊んだり、鬼ごっこの途中で御神木に木登りして六蔵じいちゃんに怒られたり。
夏になると、境内で育ったカブトムシやセミを捕まえたりもした。虫が苦手な麻耶は、俺の手に止まらせた虫を顔に向けただけで、キャーキャー言って逃げ回る。
十数秒で限界が来て、涙目で麻耶がしゃがみこむと、木に虫を戻してやり、上目使いで可愛く睨む麻耶の肩を優しく抱いて、「ごめんごめん」と謝る。
麻耶と出会ってから、俺の心は本当に良い方向で癒されていった。
だが、そんな幸せな時間も、長くは続かなかった。
麻耶が引っ越してきて、半年が過ぎた頃だった。
ある日の夕方、いつも通りに麻耶を迎えに来た良子さんを出迎えたお袋が、良子さんの顔を見て、急に堅い表情になった。
「ラウラ先生、どうかしましたか?」
手を繋いで遅れて玄関に来た俺と麻耶を見て、いつも通りに微笑ましげに笑みを浮かべつつ、声だけが訝しげになった良子さんの質問に、お袋は直ぐには答えなかった。
数秒間の沈黙の後、お袋は改まった態度になり、真剣な声で、良子さんに返事をした。
「良子さん、出来るだけ早めに、うちの病院で精密検査を受けてみて下さい。もしかしたら入院の必要が有るかも知れない。私の取り越し苦労なら良いんだけど」
「……?今のところ、特に具合が悪いような所は無いですけど、何か気になる所でも?」
「……ええ。子供の前では言いにくいですが……癌の疑いがあります。以前、同じ兆候が有った患者を診たことがあります。何も不具合が無ければそれで良し、保険代と思って検査を受けてもらえませんか。麻耶ちゃんの将来のために」
それまで決して朗らかさを失わなかった良子さんが、目を見開いて固まってしまった。
子供だった俺や麻耶も、さすがに只事ではない空気を感じて、各々の母親の顔を見つめる表情が、みるみる不安に染まっていく。
この当時でも、俺自身は癌というのがどういう病気なのか、お袋の医学書を読んで完全に理解していた。だから、余計に顔が強張ってしまっていた。さらに、まだ繋いだままだった手が、思わずするりと抜けてしまった。
3人が真剣な顔で互いを見つめあうという、かつて無かった張り詰めた空気に、この場でただ一人、母親が何を言われているのか理解出来ていない麻耶が、言い様の無い不安と孤立感に襲われ、みるみる涙目になっていく。
「……ジェフリー君、ラウラ先生は、お母さんに何を言ったの?何か、意地悪な事を言われたの?」
また、数秒間の沈黙があった。
まだ5歳の麻耶にどう説明すれば良いのか。どういう言い回しなら出来るだけショックを受けさせずに済むのか。
母親たちですら、すぐには適切な返事が出来ない様子だった。
意を決した俺は、ポケットからメモ帳を取り出し、睨み付けるような表情でペンを走らせ始めた。
[まやちゃんのお母さん、びょうきになったかもしれないって。
おふくろのびょういんでけんさして、ちゃんとなおそうって言ってたの。
にゅういんするかも知れないけど、だいじょうぶだよ。おれのおふくろは天才のお医者さんだから。
もしお母さんがにゅういんするなら、まやちゃんは、ここにきたらいいから]
メモを読み終えた麻耶が、不安げな涙目で俺をじっと見つめる。そんな麻耶の不安を振り払うように、麻耶の視線をしっかり受け止めた俺は、力強く頷いて見せた。
その様子を見ていた良子さんの視線に気付いたお袋が、つられたように俺達を見た。
麻耶に見せたメモの続きに、再びペンを走らせる。
[まやちゃんのお母さんがにゅういんしたら、まやちゃんはここを自分のいえにして良いよね?
一人でごはんをつくるのはあぶないし、わるい人がきたら何もできないから、まやちゃんを一人にしたらダメ]
文面を見たお袋が、思わず震える手で口元を押さえた。そのまま、俺に目線を合わせてしゃがみ、俺を抱き寄せる。
「そうね、そうしよう。あなたは、優しい子になったね、ジェフリー……」
普段はほとんど聞かない、お袋の優しい声に照れ臭くなった俺は、思わず照れ笑いを浮かべ、俺もお袋にハグを返して、お袋の背中越しに良子さんにもメモを向けた。
良子さんは困惑の表情を浮かべながら、麻耶の顔と俺の顔を交互に見た。そして、まだ俺を抱き寄せたままのお袋に視線を向ける。
「しかし、それだとしばらく麻耶を預かって頂く事になりますし……只でさえラウラ先生のお勤め先でお世話になるのに、この上、ご迷惑をお掛けする訳には……」
「大丈夫です。六蔵さんも春江さんも、麻耶ちゃんの事、歓迎してますから。うちは女の子がいませんから、賑やかになって良いわ。だから、安心して」
ようやく俺を解放して、お袋が良子さんと向き合った。
この後、しばらく同居することになった俺と麻耶の間に、恋心が芽生えるまで、それほど時間はかからなかった。