出会い
俺と麻耶が初めて出会ったのは、10年前に遡る。確か4月2日の誕生日を過ぎていた筈だから、俺は当時6歳。
俺が声を失った当時、医師であるお袋のラウラ=レフトラックは、フィンランド在住時の事故が原因の心因性発声障害・対人恐怖症・精神性嘔吐症・過呼吸に苦しんでいた俺を見かねて、環境を変える必要があると判断し、フィンランドと日本にそれぞれ何軒か存在する親戚に相談して回った。
その結果、ひい爺ちゃんの実の弟・神崎六蔵爺ちゃんが住む東京・新橋駅に程近い神社なら、空き部屋があり、まだ夫婦共に60代後半なので介護の必要も無く、俺の面倒を見るのに一番適していた。
また、鎮守の森に囲まれていて普段はあまり参拝者が来ないことから、俺が狭い部屋に籠ったままにならずに1人でも安心して屋外に出られると思われた環境が、最後の決め手になったようだ。
そんな理由から、お袋は日本での勤務先を、日比谷線神谷町駅に近い総合病院(慈愛医科大学病院)に決めて引っ越し、俺を日本へ連れてきた。
この当時の俺の対人恐怖症は、原因が原因なのでかなり酷く、家族や親戚の中でも自宅でしょっちゅう見る人を除き、とにかく誰かと顔を合わせるだけで、過呼吸の発作を起こしていた。
酷い時は、更に精神性嘔吐症(精神的ストレスで繰り返し嘔吐を起こす症状。目眩や頭痛から発生するので酷いと空えづきや吐き気で呼吸困難になる)に悪化した時も度々あった。
本国に居た頃、事情を知らない近所の第三者には、俺が夜中に悪い夢を見てうなされる声や、俺の手首に残る傷痕から、両親の虐待を疑っていた人も居たようだ。
だが、そもそもは、ある日の交通事故が全ての発端だと、フィンランドの地元の警察や親戚の人、それに事故に巻き込んでしまった友達の家族はみんな知っているので、俺やうちの両親にかなり同情していた。
そんな感じで、とにかく自宅の外、正確には玄関の外へ出られなかった俺は、日本への道中の殆どを、お袋に頼んで鎮静剤で眠らされた状態で移動する事になった。
親が医師でなければ、あり得ない移動の仕方だが、それ程までに当時の俺は思い詰めていたのだ。
だから、日本に移住しても、俺は学校に行くことが出来ず、ずっと自宅に引きこもる生活をしていた。
そして、俺が六蔵爺ちゃんの神社に来て、1ヶ月程経った頃だった。
5月中旬のある日の夕方、東京中のあちこちの主要駅周辺が、3m先が見えないようなゲリラ豪雨に襲われていた。
そこら中の道路で川のように水が流れ、どこにいても自分のすぐ横に大きな滝があるような轟音が響く豪雨の中、俺が住んでいる神社の境内にも、凄い勢いで水溜まりが増えていった。
(……すごい雨だな。フィンランドじゃ考えられない降り方だ。なんで日本って、雨が降る度にこんな災害が起きそうな降り方になるんだろう?)
そう思った俺は、お寺で例えると本堂に相当する社殿の裏手にある縁側で、まるで濃い墨汁で筆を叩きつけて描いた水墨画のような、酷くどんよりとした灰色の雨雲を見上げて、ぼんやりとしていた。
日本家屋特有の縁側という造りは、「扉から出ようとすると過呼吸を起こす」という自己暗示に掛かっていた俺の症状改善に大きく貢献してくれた。
ベランダやテラスは欧米でもよくある設えだが、それらも基本的に「ドアを開けて屋外に出る」という手順は変わらず、フィンランドに居た頃は、俺は網戸を通してしか屋外の空気に触れることが出来ずにいた。
しかし、古い日本家屋の縁側の場合は、日中は網戸も無しで扉を開け放しておく場合も多く、渡り廊下のような感覚で部屋と縁側を行き来する事が出来る。
つまり、「建物の外に行くためのドアを開ける」という予備動作が無くても、縁側を歩くだけで外の空気に触れることが出来るようになったのだ。誰も想定していなかったが、これが俺のトラウマの改善に、大きな進歩をもたらした。
日本に移住して1ヶ月が過ぎた頃、縁側からドアを通らずに直接屋外へ出る事で、俺はようやく「建物から屋外へ出る事が出来るようになった」という段階に到達したばかりだった。
しかし……
(こんな天気では誰も来ないだろうから、せっかく1人で安心して遊べる筈だったのに、外に出られないんじゃ意味がないなぁ……)
そう思って溜め息をつき、油断していた時。
まるで水を張った田んぼのように、一面が水浸しになった境内を、誰かが歩いているような音が聞こえたのだ。
最初はゲリラ豪雨の音が酷くて錯覚したのかと思ったが、もう一度耳を澄ますと、確かに裏口の方から、弱々しい足音が聞こえた。
(こんな雨の中でお参りに来るなんて……ああ、もしかして、また迷子かも?)
近所の路地で迷子になって、この神社の裏口から迷い混んでくる小さな子供は、わりと多い。
最初のうちは俺も迷子に遭遇する度に過呼吸に悩まされたが、新学期が始まって間もない時期という事もあってか、週に何人も迷い込んで来るため、この頃には迷子を保護する程度なら対応出来るようになっていたのだ。
この時も、視界が2mあるか無いかの豪雨の中、よくよく目を凝らすと、まるで幽霊のような姿で迷い込んで来た、6歳の俺と同い年くらいの、ずぶ濡れの子供を見つけた。
それが、俺と麻耶の最初の出会いだった。
俺が居た縁側は本来は出入口ではないので、傘も見当たらず靴もない。
仕方なく、俺自身も玉砂利の枯山水へ裸足で飛び出し、豪雨でずぶ濡れになりながら麻耶に駆け寄るが、声を出せない俺は、その場で話が出来ない。
やむを得ず、出来るだけ優しく麻耶の肩を抱き、とりあえず手近な階段から縁側の屋根の下へ連れて行って、雨宿りさせる。
麻耶の体は酷く冷えていた。よく見ると顔も真っ青で、唇も色を失っている。
只でさえ冷えた体で、迷子になった自覚があるが故に、これからどうしたら良いのかをまともに考えられなくなって途方に暮れている様子だった。
まだ小さな子供である本人にしてみれば、まさに誰もいない山奥で遭難したのと同じ気分なのだろう。
俺は、視線の定まらない様子の麻耶を縁側に座らせ、少しでも温めてやりたくて、背中を擦った。
動きが止まって初めて分かったが、寒さと不安が収まらないのだろうか、麻耶の背中は小さく震えていた。
顔つきも服装も、男女の判別が出来ない中性的な雰囲気の子だったので、この時点では、俺は性別を特に意識していなかった。
自分から何か話してくれないかと思い、俺はしばらく待っていたが、麻耶は黙って震えているだけだった。
見かねた俺は、古びた縁側の木の床に、全身に浴びた雨水を指ですくい、透明な文字を書いた。
(どうしたの?)
まだ漢字を書けなかった俺は、これだけ書いて、麻耶の肩を優しく叩き、文字を指差しながら神妙な顔を麻耶に向けた。
メッセージを読んだ麻耶は、ようやく俺が自分の味方だと認識して安心したらしく、急に顔をグシャグシャにして泣き出した。そして、大粒の涙を流しながら、必死の形相で俺に訴えてきた。
「おうち、わからなくなっちゃった……かえれないよ……」
小さな子供にしてみれば、まさに生死に関わる大事件である。命の危機を感じたのだろうか、ついに麻耶はその場で大声をあげて泣き崩れてしまった。その泣き声を、さらに酷くなったゲリラ豪雨の轟音が掻き消していく。
どうやら、ここに引っ越して来た当日の俺やお袋と同じように、迷子になったらしい。
この神社の周辺は、似たような雰囲気の路地があちこちにあって、曲がるべき路地を1本間違えると、えらい目を見る。
だから、時々こんな風に迷子が境内に迷い込んで来るのは日常茶飯事だ。
麻耶と出会った当時の俺は、まだ過呼吸が酷くて境内の外へ出歩く事が出来なかったが、もし出歩く事が出来ていたら、きっと同じように迷子になって、何度も近所で号泣していたことだろう。
この時の麻耶は1人で、連れもおらず携帯電話も持っていない。混乱のあまり他の連絡手段も思い浮かばない様子だった。
誰が見ても困っている同年代の子を、当時の俺が放置出来る筈がない。とりあえず体を拭いてあげなければと思って辺りを見回すが、手近な場所にタオルが無かった。
仕方なく、俺は泣きじゃくる麻耶の手を取り、一緒に六蔵爺ちゃんの居る居住区画へ向かった。
全身ずぶ濡れの俺達を見て、六蔵爺ちゃんはすぐに駆け寄ってきた。ゲリラ豪雨の音が酷くて、六蔵爺ちゃんの低い声を聞き取るのは結構苦労した。
「こんな天気の中で迷子になったのかい?可哀想に。
ジェフリー、お前も風邪を引くから、一緒にお風呂に入って温まって来なさい」
無言でコクリと頷いた後、俺達はすぐに風呂場へ向かった。ちょうど日勤が終わって豪雨に見舞われたお袋も帰ってきたので、3人で一緒に風呂に入って暖をとることにした。
俺は、この時点で麻耶が女の子であることに初めて気付いたのだが、羞恥心より助けてあげたいという正義感が勝っていて、その時は湯船に浸かった麻耶の顔が赤くなっていた理由は、しっかり温まることが出来たからだろうと思い込んでいたんだ……。
だから、この時は気にも留めていなかったんだけど、入る前に脱衣所でお袋が俺に先に入るように急き立てたり、常にお袋の死角で麻耶の姿がほとんど見えなかったのは、実は俺の視線を麻耶から逸らすために、お袋が麻耶を気遣っていたせいだったと知ったのは、この後、かなり時間が経ってからだった。
その後、皆で六蔵爺ちゃんが用意してくれたシュークリームを食べ、温かいココアを飲んだ。血の気が無かった麻耶の顔に、ようやく生気が戻り、俺も六蔵爺ちゃん達もホッと息をついた。
ずぶ濡れだった時は判らなかったが、髪を乾かした麻耶は、この時点でかなりの美少女だった。
例えるなら、小さい頃の芦田愛菜さんを短めのベリーショートにしたような雰囲気。教室の中ではかなり目を引く存在だろうと、女子に興味が無かった俺ですら思った程だ。
麻耶の服装は、着ていたものは乾かす意味もあってお袋が洗濯機に入れてしまっているので、サイズが近かった俺の部屋着でとりあえず我慢してもらった。そして、麻耶が落ち着いたのを見計らい、話を聞く事にした。
名前は桜木麻耶。つい先日、小学校に入学したばかり。俺が学校に行っていれば同学年で、3月18日生まれなので当時まだ5歳。
麻耶の父親は日本の大手スーパーマーケットの持株会社勤務で、いわゆる転勤族。そのため、これまでにも何度も引っ越した経験があるという。
麻耶の両親はいわゆる社内恋愛での結婚だったが、勤務の都合上、父親が出張先で泊まり勤務になることも多いため、母親は麻耶が生まれてすぐに幼い麻耶を一人にしないよう、退職して専業主婦になった。
今回も、数日前に近くの社宅へと引っ越して来たのだが、やはり俺が思った通り、麻耶は友達と遊んだ帰りに自宅へ戻る途中で道に迷い、慣れない道で曲がるべき角を一つ間違えたらしい。
そして、自分が道に迷ったと認識した途端に豪雨に見舞われ、みるみる視界が悪くなる中、川のように勢いよく水が流れ出した細い路地で方角すら分からなくなった麻耶は、大きな滝のような雨の轟音に包まれてパニックになった。
命の危険を感じて、慌てて人を探して歩いていたら更に迷って、結局誰にも出会うことが出来ないまま住宅街をさまよううちに、壁だらけの区画で唯一、門が開いていたこの神社に藁にもすがる思いで入ってきた。
そして、しばらく境内に誰か居ないかと人を探して歩き、社殿の裏手へ迷い込んだ所を、俺に発見されたというわけ。
途中に何軒か明かりが点いている家もあったが、門の外に付いている呼び鈴のボタンにどうしても手が届かず、門を叩いたり声を出しても豪雨で聞こえなかったようで、助けを求められなかったそうだ。
その後、俺が無言でいることに疑問を持った麻耶に、六蔵爺ちゃんがその事情を説明したり、麻耶の話を聞いているうちに日が沈み、気が付けば夜になっていた。
六蔵爺ちゃんが警察に連絡を入れ、すぐに近くの交番から見慣れた顔のお巡りさんがパトカーでやって来た。もう六蔵爺ちゃんとお巡りさんのやり取りも、すっかり手慣れたものだ。
その後ろから、知らない顔の、麻耶の両親と思われる若い夫婦がついてきていた。
後で聞いたら、麻耶の両親が交番で捜索願いを出そうと相談に行った途端に、六蔵爺ちゃんから交番に連絡が入り、パトカーに同乗して麻耶を迎えに来たらしい。
「お母さん!!」
弾かれたように麻耶が走りだし、母親にすがり付いて号泣し始めた。母親がすぐに麻耶と視線を合わせるようにしゃがみ、しっかりと麻耶を抱き締め、何度も優しく背中を擦る。
麻耶の母親は良子さん。石田ゆり子さんによく似た雰囲気で、周囲まで穏やかな気持ちになる笑顔がとても印象的だが、その笑顔に偽りなく性格もとても優しい母親のようだ。
いきなり怒って怒鳴り出すような理不尽な親ではなかったことに、俺は安心した。
その後、何度も麻耶の両親は頭を下げて俺達に礼を言った後、いずれお礼に伺いますと言って、その日は引き揚げていった。