プロローグ-2
声を失い、出歩く事も出来なかった俺、ジェフリー=レフトラックは、小学校に上がる直前にある女の子と出会い、その子が親の転勤で小学5年に上がる直前に再び引っ越した後、小学5年から中学3年にかけて、声を出せるようになったのをきっかけに、必死に対人恐怖症や過呼吸を克服する訓練を始めた。
そして、境内から車に乗ることで、ようやく神社の鳥居の外へ出歩けるようなり始めた頃、最初は春江ばあちゃんの実家・奥菜家の道場で、とにかく人と対峙できるよう、いろいろな武術に取り組んだ。
奥菜家の道場の中で、俺と一番相性が悪かったのは弓道。どうも、骨格の構造の問題らしい。
だらりと腕を垂らした時に、俺の腕は肘の内側がほぼ正面を向く、いわゆる猿腕と呼ばれる骨格形状なので、力の全てが弓を引く力に伝わりきらず、全く向いていないのだ。
弓道の師範いわく、肘間接が体の内側を向いている骨格でないと弓道に向いていないという。
聞いた話では、人間の骨格は人種を問わず4種類の組み合わせで出来ているらしい。
一つは、猿腕か、そうでないのか。そして、もう一つは、大腿部。
太ももの中央を、別の誰かに上から内側にぐっとねじる力を加えて押さえ込まれた時に、スッと立ち上がれる骨格の人と、どう頑張っても立ち上がれない骨格の人がいるという。
要するに、胴体に対して腕と足がどんな向きでくっついているか。これが、その種目に対してどのように取り組むかを考える要素になる、ということらしい。
腕と胴体の組み合わせは連動していないから、組み合わせは4種類になるというわけ。
鉄棒で逆上がりをする時に、順手しか出来ない人と逆手しか出来ない人の二極化したり、正座する時にすぐ足が痺れる人といつまで経っても痺れない人がいるのも、どうやらそのためらしい。
これらの要素を、良し悪しや優劣ではなく、個性として捉え、如何に競技に会わせて反映し、上手く伸ばすかが昨今の指導者の役割と言えるだろう。
分かりやすいか微妙な例えかも知れないが、小島よしおさんの「そんなの関係ねえ!!」のあの腕の動きを真似る時に、本人は腕を引いているらしいのだが、俺の場合は腕を押し出さないとあの動きが出来ない。それくらい、これらの組み合わせで間接の可動範囲が違うのだ。
同じように、柔道や剣道も、何故か不完全燃焼な感じを拭いきれないのだが、多分、俺の肘間接や足の向きが、弓道と同じく競技中に力を入れるべき方向に向いていないのだろう。
特に剣道では、俺の肘の向きでは、上段から振り下ろしてすぐに肘の可動範囲の限界に達してしまうので、何度か肘を痛めたことがある。
どうも、俺のような猿腕は、道具を使う武道系の競技全般に向いていないようだ。しかし、この猿腕という骨格は、日本人には結構多い構造らしい。
病気でもなく手術でもどうにもならない遺伝要素の筈だが、出来れば猿腕は遺伝して欲しくなかったなぁ……。
一番マシだったのが、これらの制限が比較的少ない空手だった。
体幹と肩と二の腕の角度を上手く調整すれば、まだ拳を突き出す力と肘への負荷を何とか誤魔化して、打撃力不足を技術でカバー出来たからだ。武術は相手を無力化出来てナンボだけど、競技はポイントさえ入れば勝てるからな。
まあ、この言い方からも分かるように、「格闘技系の競技の中ではまだマシだった」という方が正解で、猿腕と相性が良いと言える競技は、古武術や格闘技系では存在しないのかも知れないが……。
空手には対戦型の[組手]と動きの美しさを競う[型]があるが、そんな事情で俺は[型]にも向いていなかった。
なので、俺の体格は、そこそこ筋肉質だが、ムキムキなマッチョではなくいわゆる細マッチョに近い。童顔で着痩せするようなので、道場の門下生以外は、初見では皆が[もやしっこの陰キャチビ]と侮っている事が多いようだ。
ゴツい筋肉は空手に必要な俊敏な動きに合わないので、空手を続けると、自然と、撓り(しなり)の効く、細身だが打つ瞬間に打撃力を発揮する締まった体格が構成されていく。
野球選手がピッチャーとバッターで必要な筋肉が違うために両立はほぼ無理だと言われるのと同じで、空手と他の格闘技では必要な筋肉が違うので、空手特有の打たれ強い頑丈さと素早い動きを実現するしなやかさを両立した筋肉を保つのには、結構苦労している。
ちなみに、ミハエル爺ちゃんは元空軍の戦闘機パイロットで、現役だった頃は戦闘訓練の指導役である仮想敵役チームの一人として、本国ではそこそこ名前が通っていたようだ。今はフィンランドの士官学校に座学の指導員として残っている。
ミハエル爺ちゃんと同じく190センチの厳つい体格の、うちの親父・レイチェル=レフトラックは、お袋が日本への移住を決めた時に、勤務先の日本支店に異動願いを出して、一緒について来てくれた。
親父も若い頃は空軍パイロットだったが、入隊後に数年で腰痛が悪化し転職、今はフィンランドの某航空会社の現役国際線パイロットだ。
当然、日本とフィンランドを数多く往復することになる親父は、日常会話程度の英語や日本語 、他にも数か国語を問題なく話せる。
俺がメカフェチになった原因であるガン○ムやマク○スの翻訳をせがんで、親父からも日本語を教わったものの、イマイチ理解出来ない台詞も多くて、ひいじいちゃんの神崎護から正しい日本語を教わったのが、俺の多言語化の始まりだ。
だから、医学書の解読時も、読むだけなら他国語アレルギーにならずに苦戦しなかったのは、そういう下地があったからだろう。
今は親父は日本支店所属だが、本国へ飛んだ時に、折り返し待ちの間に代番勤務(体調不良などで欠員が出た場合などの補充要員)が入る事も多いらしく、月に数回しか神社には帰ってこない。
新型コロナの影響で運行便数が減ったとはいえ、本国でも同僚の罹患者の増加で、代番要員の確保が大変なのだという。
事業用旅客機の操縦免許は、事業用固定翼機(双発=エンジン2基。4発機に乗るなら事業用4発機の免許が別に必要)の免許の他に、機種毎に操縦資格が必要で、例えば同じボーイング製の機体でも、似たような機体規模の737型と787型で操縦資格が別に必要になる。
車で例えるなら、[プリウスとプリウスα、フィットとフィットシャトルでそれぞれに運転資格が違う]というようなイメージであり、[普通自動車免許]などのように一つの免許で該当カテゴリー全機種を操縦することは出来ない。
しかも、親父の居る会社は、ボーイングもエアバスもエンブラエルもボンバルディアも割と満遍なく持っていて、ご丁寧に各メーカーの大型機から小型機までだいたい揃っているという、飛行機マニア垂涎のまるでカタログのようなユーザーだ。
系列会社も含めれば、このコロナ禍であっても、基幹路線もローカル線もそこそこの本数が飛んでいる。
そんな状況では、飛行機が大好き過ぎて会社の保有機種全機種の操縦資格を取ってしまった親父のような変人が、代番要員として物凄く重宝される。
さらに、代番だと普段は飛ばない経路を飛べるので、親父も嬉々として飛ばしに行くから、自宅どころか日本になかなか戻って来ないのも無理はない。
コロナ渦なのに飛行機がそんなに飛んでいるのかと尋ねると、旅客機の座席を仮に撤去して、小荷物や宅配便など小型貨物を運んでいるので、パイロットはそれほど仕事が減っていないらしい。
正直なところ少しは寂しいが、勤務先を日本に異動してまで俺の近くにいる事を選んでくれたのだから、思春期にありがちな憎まれ口を叩く事はあるものの、息子としては感謝しているところだ。
余談だが、日本の電車の免許(動力車操縦免許)の場合は、電気/内燃(気動車·ディーゼルカー)/蒸気の動力源と、甲種(専用軌道を走る一般的な鉄道)/乙種(道交法を遵守する路面電車)/新幹線という走行環境の組み合わせで分類され、運転できる路線や車両が決まる。
例えば、電気機関車と電車、ディーゼル機関車とディーゼルカーという具合に、動力源が同じ車種なら同じ免許で形式は問わず運転できるし、免許取得時に所属会社(または所属地域)で使っている全形式の運転訓練を受けるから、事実上は誰がどの形式を運転しても問題は無い。
但し、路面電車から普通鉄道への転職とか、社内で気動車から電車へ転向する場合、電車から新幹線に転向する場合、電車と気動車/蒸気機関車を混用している路線などのケースでは、運転業務に必要な全ての免許を所持する必要が有る。
また、最近流行りのハイブリッド車両や蓄電池車両は、車両自体に内燃機関=ディーゼルエンジンが付いているか否かで必要な免許が決まるようだ。
鉄道会社間で転職する場合は、新たな所属会社の運転訓練を受ければ、免許そのものは共通だから運転は可能。
その辺りは、海外で医師免許を取って日本で働く場合とよく似ている(海外の医師免許で日本で医師になる場合は、臨床修練指導医の有資格者が居る職場に限られる)。
それにしても、体格的に厳ついのが揃いも揃っているうちの直系の男子で、俺だけが女子にも負けない華奢な体格を保っているのは本当に不思議だ。
特に……何故、身長が伸びないのだろうか……(切実)。
こんな感じで華奢な俺だが、先日入学した高校で空手部に「入らされた」。決して「入った」訳ではない。「入らされた」。大事な事だから2度言っておく。
本来は、アニオタかつ鉄オタかつ模型オタ(しかも模型は作る人)の陰キャな俺は、ガチで美術部に入って絵や造形の勉強をして、将来はアニメーターかプロモデラー(模型雑誌などに作品を発表して収入を得る模型職人)になるつもりだったんだ。まあ、結局は後になってから掛け持ちで入る事にしたんだけど。
今の俺は、鉄道模型とか、ガ○ダムやマク○スのアニメやプラモデルの製作を職業に出来たら、幸せすぎて死ぬんじゃないかと本気で思ってたりする。
メカものはジャンルを問わず、現実も創作話も大好物だ。特に整備シーンとか変形シーンのクオリティが高い作品は最高に萌える。
また、物作りが好きだと工作技法や材料の知識も必要なため、宗教概念に興味がなくても自社仏閣とか建築様式の工作方法を見たり、美術や芸術の技法や素材に興味が湧いたりするから、寺社仏閣や美術館、重要文化財に指定された建物を見て回るのも結構好きになる。
最高峰の螺鈿細工や蒔絵ってどうやって作るのかとか、そういう方面にもわりと興味はある。
ちなみに螺鈿とは木を扇などの形に切り抜いて穴を開け、その形にピッタリ切り抜いた蝶貝や夜光貝の貝殻を嵌め込んで作る木工細工の事。
有名な日光東照宮の柱や、正倉院等に奉納されるような最高峰の物は本当に芸術品の域で、見ていて溜め息が出る。実に格好いい。
大正時代のお召し列車(皇室専用列車)に連結される御料車(ごりょうしゃ=皇室専用車両)の内装にも、螺鈿細工が施されていたそうだ。いかに品位の高い芸術であるかを証明するようなエピソードである。
そういう美術品や工芸品の修復師とかも、進路の選択肢として意外と有りかも知れない。
だから、公立高校でも総合科があるところにした。工業系学科と美術部が両方ある学校って殆ど無くて、結構苦労して探したんだ。結果としては、現住所から一番近い、徒歩15分程の高校に通う事になった。
私学だと、ある目的で貯め込んだ貯金が減るのが嫌で、私学は受験しなかった。
しかし、公立高校の悲しい所で、俺が通う道場の友達が同級生に多数紛れていたために、「当然空手部だよな?」と入学早々に部室に引きずり込まれたのである。
しかもその時に俺の手を掴んでいたのが、以前からちょっと気になっていた女子だったために、その手の温かさに思わず心臓が跳ね上がって冷静さを失い、振り払う事が出来なかったのである。……俺のバカ。
5月の連休に開催された都大会の新人戦では、1回戦で対戦予定だった優勝候補が、当日に新型コロナに感染していたことが発覚して辞退、という偶然が重なって、なんと俺本人もビックリの決勝まで進出してしまった。
本来、うちの高校の空手部は弱小だった筈なのに、俺だけでなく、もう一人のうちの生徒もうっかり決勝まで残ったものだから、大番狂わせとして、どえらい注目を浴びてしまった。
さらに(主に他校男子生徒の)注目の的になっているのが、俺達に声援を送っている数人の美少女たち。
その中でも一際目立つ、アイドル歌手や若手女優と見紛うような美少女が、準決勝で勝った瞬間、飛び跳ねて手を叩くその様子に、まあこれはこれで悪くはないか、と心の中で苦笑したのは俺だけの秘密だ。
「すごいすごい!ジェフリー君、めちゃくちゃ強いじゃない!カッコいい!!」
完全な部外者なので、試合が行われている1階のアリーナではなく2階の観客席の最前列に陣取って、他の女子と手を取り合って喜ぶ、桜木麻耶。
この麻耶が、俺を空手部に引きずり込んだ張本人。
そして、小さい頃に結婚の約束をした、いわゆる幼馴染み。
濃いめのベージュ(黄土色?白っぽい茶色?)のブレザーに白いブラウス、クリムゾンレッドの細い蝶ネクタイ、落ち着いたブラウンのプリーツスカートの真新しい制服に身を包み、短めのショートボブの綺麗な黒髪を跳ねるように揺らしながら、可愛らしい丸顔に満面の笑みを浮かべて、懸命に俺に声援を送ってくる。
彼女自身は、実は軽音楽部。
ガチで全国大会を狙う吹奏楽部とは別に存在するサークルのような存在で、初心者が肩の力を抜いて気軽に楽器を使って楽しもうというもの。
現在、麻耶の母親の良子さんは闘病中で、少しでも家計を支えるために、土日は自宅近くのカフェでバイトをして、自分の小遣いを賄っている。だから、一人でも抜けると演奏の雰囲気が変わってしまう吹奏楽部には、麻耶は参加出来ないのだ。
麻耶自身は、本来は生活苦でバイト漬けの高校生活を覚悟していた。当然、部活もするつもりは無かった。
だが、父親の転勤に合わせて引っ越しが続くため、俺の方が彼女に会いに行くと心に決めた後、色々な手段で(もちろん全て合法だぞ?)貯め込んでいた旅費という名目の貯金を全部彼女に渡して、高校生らしい生活を楽しんで過ごして欲しいと頼んで、以前からやってみたかったという部活を始めてもらった。
それでも、自分の小遣いだけは自力で用意すると頑なに麻耶が主張して、土日だけバイトを頑張っている。
だが、大会当日は珍しくバイトを休んで、俺の試合を見に来ていたのだ。
わざわざ来てくれた以上、彼女に無様な試合は見せられないと、俺も気合いを入れ直して決勝に臨んだ。
この後決勝で俺が勝った時は、狂喜乱舞という言葉を絵に描いたような勢いで、すごく喜んでくれてた。
大事な彼女の前でちょっと良いところを見せる事が出来て、さすがにドヤ顔を隠しきれない俺と、決勝で俺に負けて「次は負けねえ!!」と再戦に意欲を見せる俺の親友に、うちの高校の女子から黄色い声援が絶え間なく送られている。
これまでの経緯から、麻耶にだけは、俺は頭が上がらない。
もちろん、大事な彼女だ。喧嘩別れなんて死んでもしたくないから、ちょっとした揉め事で怒らせてしまった時は必ず俺が先に謝るようにしているのだが、理由はそれだけではない。
今の俺が、普通に友達と会話が出来る普通の高校生で居られるのは、実は麻耶のお陰なのだ。
麻耶自身は、すごく謙虚で控えめな考え方の女の子なので、そうは思っていないようだが……。