新たな契約
私は覚悟を決めると、神崎の口元に手首を持っていった。
「お、お願いします」
銀狼の神崎が微笑んだ様に見え、そしてゆっくりと私の手首に犬歯を当てる。プツ、と痛みと共に皮膚が破れ、血が溢れ出る。私が思わず目を瞑ると、ふに、と私の手首に吸い付く感触があった。
え? と思ったが、狼に手首を噛まれている姿はちょっと見たくなくてそのまま目を閉じていると、手首からその柔らかい感触が消え、手首をぐっと引っ張られた。
ええ? ひ、引っ張る? 狼なのに?
すると、口に勢いよく柔らかいものが触れた。……これは、知っている。今日何度も経験したものだから。ていやまじですか? 今、ソラを目の前にしたこの状況で?
よく聞いてみると、周りの狼達が「うおおおお! 若様ああああ!」とか言って騒いでいるではないか。
そして、口の中にこれはどう考えても舌だろうというものが入ってきた。おいおいおい、いやちょっと今どういう状況なんだ、と戸惑っている最中に、口の中に血の味が流れ込んできた。これは。
耐え切れず私が目を開けると、やっぱり目の前で堂々と私の口の中に舌を突っ込んでいるのは、人間の姿の神崎だった。神崎は、ゆっくりと目を開けると、最後に私の口を啄んでいく。
「……ハルちゃん、飲んで」
これで意味が分かった。今の血は、神崎の血だ。舌を噛んで血を出したのだ。ていうか吐く訳にもいかないし、あ、ていうか嚥下してしまった。ああああ!
「契約完了だね」
神崎はにこっと笑うと立ちあがろうとし、自分が一糸纏わぬ身であることに気が付いたらしい。ふふ、と照れ臭そうに笑うと、
「危ないから向こうに行ってて。約束は守るから」
そう言って、裸体のまま私にちゅ、とキスをした。……ええええ⁉︎
神崎が、一瞬で銀狼の姿に戻る。
「ハルさまあ!」
コウジが慌てた様子でこちらに走ってくると、腰が抜けた様な状態になっている私の袖を噛んで引っ張り出した。
「早く! 動いて!」
「はっ! あ、う、うん!」
急ぎ立ち上がり、元いたミキの元へと急ぐ。ミキは私を自分の身体を盾にする様に庇うと、言った。
「どう? ヨウちゃんも案外悪くないでしょ?」
「……ノーコメントで」
「ふふっ」
神崎と交わした契約は、確実に私の中に変化を及ぼしていた。あんなに正直どうでもよかった神崎にも目がいってしまう。これが契約の効果なのだ。恐るべし、契約。
そして、ソラは怒り狂っていた。
「ハルは俺のだ! お前になんかやるもんか!」
これまでのソラとは明らかに違うその様子に、情けないことに私は恐怖を覚えてしまった。ブル、と震えると、ミキの身体に寄り添う。すると、ふふ、とミキが笑った。
「ね? 分かったでしょお? 稀血は危険だから、簡単に与えちゃ駄目。ミキとの約束!」
「……はい、肝に銘じます」
あの穏やかなソラが理性を失う程のものだ。もう、余程のことがない限りは与えない。私は自分自身に固く誓った。
先程までの弱々しさは鳴りを潜め、神崎はすっくと立ち上がりソラに対峙している。
そして、戦いが再び始まった。
ソラが浮いたコンクリート片を次々と蹴っていく。それを横飛びに避ける神崎の軌道を計算したのか、神崎が避けた先に急行し、激しい回し蹴りを入れる。
先程までならその勢いで吹っ飛んでいた神崎は、今回は違った。ぐっとその場で踏ん張ると、反動をつけてソラの顔面に向けて飛びかかる。ソラはその勢いに負け、後ろへと神崎と共にひっくり返った。
ふたりはもつれ合いながらも互いを攻撃し、ピッピッと鮮血が雨の様に舞う。
私が目を背けることが出来ない間に、ふたりはどんどん傷付いていった。
「あ……ああっ」
あんなもの、いい訳がない。これは何の為の戦いだ。自分の為に男が戦うのを見て喜ぶなんて、ゲス女の思想だ!
「もうやめてー!」
私が怒鳴るも、周りのヤジの声で届かない。こいつらうるせえな。
ああ、もうソラも神崎も血だらけだ。しかもふたりともヨロヨロになっている。なんとか立ち上がろうとするが、ソラは膝を、神崎は前脚をついてしまっているじゃないか。
「あっ! ハルちゃんだめよお!」
ミキが止めたが、私はまるっと無視をした。もういい加減にしてくれ。それが本音だった。
「ハ、ハルは俺のだ……!」
ソラが頭から血を流し、歯を食いしばる。
「ハルちゃんは……僕の許嫁だ……! 新参者のお前なんかにやるもんか!」
神崎は、何度も立ちあがろうとするが、足腰が立たない様だ。
私は、ふたりの間に行き、仁王立ちをしてふたりを見下ろした。
「……やめろって言ったの、聞こえなかった?」
「ハ、ハル?」
「ハルちゃん……? 危ないからね……?」
ソラも、大分正気を取り戻したらしい。これまでの可愛らしい目の色に変わってきているのが分かった。
がしかし、もう我慢の限界だった。
「あのねえ、喧嘩するなって散々言ったでしょ?」
ふたりは黙り込んだ。ついでに狼のオーディエンスも黙り込んだ。
「殺すだの許さないだの、どーしてあんた達はそうやってすぐ力で解決しようとする訳?」
「ご、ごめんハル、ちょっと酔っ払ったみたいになって」
「ハルちゃん! お、怒らないで……」
私はふたりの間の地面に、ダン! と足を踏み入れた。
「うるさい」
「「――はい!」」
ソラが正座になった。よし。私は神崎を睨みつけると、コウジが急いで布を咥えて持ってきたのでそれを受け取り、人間の姿に戻った。股間部分に布を被せつつ、正座する。
傍から見たら、異様な光景だろう。仁王立ちする女に、正座する男ふたり。しかも片方はすっぽんぽんだ。
「どうしたら戦わないで話し合える?」
「ご、ごめんハル! つい嫉妬して……」
「僕だって! ハルちゃんが殺すなっていうから頑張ったよ!」
「で、弱らせてからやめた?」
私がギロリと睨むと、神崎は縮こまった。
「……すみません」
「ハル! 俺は……!」
「ソラも、いい加減にしようか」
「……はい」
辺りがしん、と静まり返る。なんだ、このボス感は。でもとにかく戦いたがるこいつらを止めるには、もうこのまま行くしかなかった。
「今後、無意味な戦いや殺生は禁止」
「「はい!」」
うん、いい返事だ。
「ソラとの結婚の約束は、一旦白紙」
「……えええ⁉︎」
「だって契約の所為かもしれないでしょ」
「……はい」
ソラは、渋々了承した。私だってソラは好きだから心苦しいが、……こちらを女神を崇めるかの様にキラキラした目で私を見つめる神崎も、契約の所為だと思うが放っておけなかった。もう殆ど裸に近いけど、可愛く見えてきてしまったのもきっと契約の所為だと思いたい。
時折見える案外白いお尻から目を背けると、私は今度は神崎に向かって言った。
「神崎さん」
「はい」
幸せそうに微笑むなよ。絆されるじゃないか。
「神崎さんにもチャンスを与えると言ったので、ソラと平等に接することにします」
「……とりあえずは、それで我慢します」
とりあえずなのか、とは思ったが、これで争いは終わった。後は、今後どう過ごしていくか、だか――。
あと一話!