あじさいと、泥と、汚れた靴の三角形
郡山未来は、恋を自覚するのが遅かったのだ。
まさか、恋人ができてから恋に気づくなんて。
止まりたくても、止められなかった。
塾の終わりに、ふたりでこっそりと、正宗と手を繋いだ。
でも、正宗の方も望んでくれた。
あの、机の下で固く結ばれた、手と手の感触。
禁じられた喜びが胸に溢れる。
樹がいるというのに。
今日は、日曜日ということもあってか、樹の家に遊びに来ていた。
正宗と手を繋いでからその後の、初めての日曜日。
未来の内心は、憂鬱であった。
塾の前での樹とのキスを正宗に見られて、未来を支えようとした樹の手を振り払ってからは、樹との関係も心なしかギクシャクしていた。
このままではいけないとは思っている。
樹の事も。
正宗の事も。
自分自身の気持ちの事も。
樹の部屋に入る未来。
「いらっしゃい」
いつも通り、爽やかな笑顔の樹。
でも今日は、どこか影がある気がする。
樹の部屋に来てまでも、未来は夢想する。
ここが、正宗の部屋だったらと。
また正宗と手を繋ぎたい。
もう、未来は自分が、正宗の存在に溺れていることは自覚していた。
今はちょうど昼ごろだろうか。
霧雨が降っていて、太陽の位置が分かりにくい。
そして、樹が黙って動き出し。
未来の元へ寄ってきて。
未来の肩をそっと掴み。
未来にキスをしようとする。
その時。
未来の胸には、正宗の笑顔。
未来は。
樹の顔の前で、未来は自分の手の平で壁を作り。
樹がキスをしようとするのを、遮っていた。
樹の、大きく見開いた目。
悲しそうな顔で、引いていく樹。
樹は、乾いた笑いを上げる。
「はは、やっぱり」
樹が喋りだす。
「正宗か?」
未来の肩が跳ねる。
樹は知っていたのか。
果たして、どこまで。
「俺とのキス、正宗に見られた時さ、
あんなに動揺した未来、見たことなかったから。
あの後、塾で倒れたんだって?
小山内から聞いたよ」
樹は、椅子に倒れこむように腰掛ける。
俯く樹。
その表情は、影になって見えない。
そして。
ただ、時間だけが、流れる。
無音のまま、いったい何分が過ぎただろうか。
椅子に座って俯いたままの樹。
未来は、何も言えなかった。
そのまた何分かあと。
樹が、ぽろりと言葉を零す。
「俺、本気だったよ。
未来のこと。
本気で好きだった。
でも、未来は正宗が好きなんだろ?」
未来は、答えられなかった。
でもそれは、無言の肯定。
樹の頬に涙が流れる。
「はぁ……。
キツいな。
マジでキツい。
正宗かよ。
なんで俺じゃないんだよ」
未来はもう、何も言えない。
何を言っても、それは空っぽの言葉。
ふたりの間には、沈黙だけが流れていた。
そしてしばらくの後、樹が告げる。
「未来。別れよう」
未来は、言葉を発せない。
だが、それもまた無言の肯定。
「俺と付き合ってくれてありがとう。
でも、お前の幸せは俺じゃないみたいだ」
樹は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
そして、誰かに電話を掛けた。
ハンズフリー通話にしているようで、相手側の呼び出し音が未来まで聞こえる。
そして、誰かが電話に出た。
樹が話しかける。
「正宗か」
「ああ、どうした」
未来の心臓が跳ねる。
電話の向こうには、正宗が居る。
「未来のこと」
正宗は、息を呑んだようだった。
「別れることにしたよ」
「……なんで」
「お前も、わかってんだろ」
未来は、樹と別れる申し訳なさと、正宗とお揃いの汚れた靴を、同時に頭に思い描く。
樹は全て知っているのだろうか。
未来の本当の気持ちも。
でも、正宗の声を聴くと、胸が喜びでいっぱいになる。
自分の不誠実さが嫌だったが、心はまるで別の生き物のようだ。
「正宗、今どこ」
「爬虫類館。オレンジの蛇のとこ」
「わかった。今から未来、そこに連れてく。
そこで待ってろ」
樹はそう言って、画面をタッチし、電話を切った。
樹は服の袖で、涙を拭いて、椅子から立ち上がる。
未練を振り切るように。
「未来、最後のデート。
正宗のとこまで送ってくよ」
皆口正宗は、樹との通話を終えた。
ポケットのズボンに、スマートフォンをしまう。
目の前には、オレンジのコーンスネーク。
今からここに、未来が来る。
樹の気持ちを思うと、胸が痛む。
でも、未来に会える喜びも、確かにあった。
僕は偽善者だ。
しばらく、ずっと蛇を眺めていた。
一時間以上は経っただろうか。
君の目はきれいだね。
そう心の中で、蛇に話しかける。
でもそれは、蛇を通して、未来の黒い瞳を褒めていただけ。
ホールの方から、靴音が鳴る。
ぺちぺちと、スニーカーの音。
正宗は、薄暗いホールを見る。
そして、やがて白と赤のストライプのスニーカーが見えた。
それは泥で汚れた跡が。
正宗の靴とお揃いの、汚れが。
鈴の鳴るような声がする。
「正宗君」
未来が居た。
黒曜石の目と、
そばかすの頬と、
黒髪のポニーテール。
正宗は、未来の元へ歩み寄った。
ゆっくり、ゆっくりと。
「樹は?」
「外で待ってるって」
ゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。
正宗は、未来へ向けて、右手を伸ばす。
この想いが届いてくれと。
未来も、それを左手で受け止める。
この想いは届いたよと。
自然と、手の指を絡めるふたり。
それは蛇と蛇の絡まりみたいで。
「未来さん」
正宗は、そっと愛しい人の名前を呼ぶ。
未来の目からは、涙が零れていた。
「正宗君」
正宗は、空いている左手を未来の背中に回し、未来の身体を抱きしめた。
ふたりしかいない、蛇のコーナー。
それを見ているのは、蛇たちだけ。
しばらくは、ただ抱き合っていただけだった。
言葉は、出てこなかった。
言葉は、いらないとも思っていた。
そして長い抱擁が終わると、正宗は未来と向き合う。
ギョロっとした黒曜石の目を見つめて。
「未来さん。好き」
未来も、言う。
「正宗君。私も好き」
そしてふたりは、また思いっきり抱き合う。
やわらかな未来の身体。
もう一生離したくないと願う。
ふたりの影がひとつに合わさる。
オレンジのコーンスネークの黒い目が、その影を見ていた。
樹は、傘を差し、爬虫類館の前の道端で、ふたりを待っていた。
親友と、元彼女。
これから、どんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。
でも、会わなくてはいけない。
これが、最後のけじめ。
文句でも言ってやろうかと、頭の中では罵倒の言葉が沢山出てきた。
『裏切り者』
『間男』
『浮気者』
樹の脳裏に、暗い言葉が浮かぶ。
抑えきれない、恨みごと。
樹の顔に影が差す。
遠慮する必要などは無かった。
樹は被害者だ。
せめて最後は、言葉で傷を残してやろうと。
嫌な笑いが、口元を歪ませた。
やがて、ふたりが爬虫類館から出てきた。
手を繋いで。
それを見た樹は、思わず、
差していた傘を放り出し、
ふたりの元へ駆ける。
そして、
樹は、ふたりに抱き着いた。
「お前ら、おめでとう。おめでとう!」
樹の口からは、勝手に祝福の言葉が出てきた。
罵倒してやるはずだったのに。
傷つけてやるはずだったのに。
樹の目からは、涙が溢れる。
なぜか、身体が勝手に喋る。
「お前ら、幸せになれよ!
絶対だぞ!約束だぞ!」
正宗と未来の手も、樹の背に触れる。
正宗も未来も樹も泣いていた。
爬虫類館の前の道端で、三人はまるで円陣を組んだかのように、三人で抱き合う。
みんな、霧雨に濡れながら。
「ごめんね。樹君。ごめんね」
「樹、ごめん。僕が悪かった」
「もういいんだってそんなこと!
俺は嬉しいんだ!
最初から、こうなるべきだったんだよ!
お前ら、遅過ぎんだよ!」
樹の心には、恨みなどいつの間にか無くなっていた。
そう、あるべき形に、いまようやく辿り着いたのだ。
回り道をしまくって。
樹はただ、親友たちの幸せを願っていた。
三人で抱き合って。
霧雨に濡れながら。
正宗と未来は、神社の階段の前で樹と別れた。
大きく手を振って去っていく樹。
正宗と未来は相合傘で、神社の長い階段を上る。
階段の横に生えている木々から伸びた、上空に張り出している枝に茂った、緑の葉っぱたち。
緑のアーチを進む。
階段を上り切ると、大きな鳥居をくぐった。
本殿の左側の小道には、あじさいがたくさん花開いていた。
ふたりで通ると、末永く結ばれるという小道。
「行こう、未来さん」
「うん」
ふたりでひとつの傘を持ち。
その小道へと向かう。
両サイドには、満開のあじさい。
そして、霧雨で泥と化した地面に。
ふたりで一緒に踏み込んだ。
右も左も、あじさいが咲き乱れている。
まるで薄紫の花が、祝福してくれているよう。
「正宗君。夢みたい」
「僕も」
ふたりは、泥の小道を歩く。
相合傘で。
白と赤の、お揃いのスニーカーで。
「未来さん。僕と出会ってくれてありがとう」
「正宗君。私と一緒にいてくれてありがとう」
泥を踏むたびに、スニーカーが汚れていく。
お揃いの泥汚れ。
「未来さん」
「正宗君」
ふたりは、ただ名前を呼び合う。
気持ちを伝えあうのは、それだけで十分だった。
ここまで来るのに、ずいぶんと回り道をした気がするけれど。
これが、きっと僕たちの恋の最高速度。
ふたりとも、気づくのが遅いんだ。
そのせいで樹まで傷つけてしまって。
それでも、巡り会えたのが嬉しかった。
ふたりは、泥の小道を進む。
相合傘で。
汚れた靴で。
狭い小道は、身体をくっつけないと、一緒には通れない。
正宗と未来は、身体を寄せ合い、離れることなく、泥を踏む。
お揃いの靴に、お揃いの汚れ。
未来は、足元をみて嬉しくなった。
やがて、小道は終わり。
本殿の横の石畳へと替わる。
その石畳の上に立ち。
ふたりは向き合い。
見つめ合い。
そして。
正宗は、未来の唇にキスをする。
胸いっぱいに喜びが溢れる正宗と未来。
まるでそれは、満開のあじさいの花。
未来の目からは、嬉しくて、口づけたまま涙が零れ落ちる。
未来の胸には、あの夢で見た光景が浮かんでくる。
正宗とふたりで、満開のあじさいの小道を進み、口づけを交わす、あの夢が。
あの、幸せでいっぱいのキスをした夢が。
今、夢が正夢となった。
ふたりは、いったん唇を離す。
でも、そのまま正宗の胸に飛び込む未来。
ポニーテールが揺れる。
未来の身体を抱え込む正宗。
この土地に住まう、産土神様も、ふたりを見ているのだろうか。
願わくば、あじさいの小道を歩いた正宗と未来を、ぜひ祝ってほしい。
そして、ふたりの勝手で傷つけてしまった樹を、ぜひ癒してほしい。
樹からしてみれば、きっと余計なお世話であろう。
そんなことを考えて、やっぱり僕は偽善者だ、と正宗は思う。
汚れた靴で結ばれた、歪なトライアングルのような三人だったけれど。
でもやっぱり、正宗は樹も大切に思っていた。
正宗は未来を、その腕の中に包んで。
産土神に、願った。
樹にも、また新たな春が訪れるようにと。
霧雨が降る、鎮守の杜に囲まれて。
そして、梅雨も明け……
正宗が、未来と付き合い始めてから、一か月弱。
今日は、爬虫類館の中で待ち合わせ。
コーンスネークの前で。
皆口正宗は走る。
梅雨が明けた、まばらに光が差し込む曇り空の下で。
汚れた靴で、水たまりを跳び越え。
僕の最高速度で。
あのオレンジの蛇の元へ。
僕ら三人の関係は、歪で綺麗なトライアングルだった。
汚れた靴で結ばれた、三角形。
でも今は、その一端は欠けて。
ふたりだけを結ぶ、真っすぐな銀色の線になった。
今までは、恋の速度が遅すぎて、決して手に入れられなかった銀の絆。
やっと手に入れた、ふたりを繋ぐ銀の絆。
この銀に輝く線は、もう手放さない。
皆口正宗は走る。
彼なりの、最高速度で。
梅雨明けの放課後の体育館で、樹はひとり、シュートの練習をしていた。
未来に対して、未練が無いと言えば嘘になる。
でも、おさまるべき所におさまった。
これで良かったという思いには、一切の嘘偽りは無かった。
バスケットボールをゴールに目掛け、シュートを打つ。
しかし、ゴールの輪に当たり、弾かれてしまった。
ボールは体育館の入り口まで転がっていった。
すると、ボールは誰かの足にぶつかって止まった。
その足の持ち主は、ボールを拾い上げる。
それはバスケットボール部のマネージャーの、ショートカットの女の子。
樹がそちらへ振り向くと、マネージャーはボールを両手で差し出した。
マネージャーの元へ駆ける樹。
ボールを受け取ろうと、手を伸ばす。
樹がボールを受け取ろうとした、その瞬間。
マネージャーは、ボールを差し出したまま、言った。
頬を赤らめて。
「樹君。大事な話があるの」
そしてそれを、体育館の入り口の外から見ていた、黒髪で黒縁眼鏡の男子高生。
あのマネージャーに、樹が失恋したことを伝えたのも彼だった。
「まあ、樹もがんばったんだ。
あいつも報われなきゃな」
そして、黒縁眼鏡の情報屋は、何も言わずに去っていく。
樹に向かって、軽く手を振りながら。
今日もまた、新しい恋が始まる。
お読み頂きありがとうございました!