表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

あじさいと、泥と、汚れた靴の三角形

 郡山(こおりやま)未来(みらい)は、恋を自覚するのが遅かったのだ。

 まさか、恋人ができてから恋に気づくなんて。

 止まりたくても、止められなかった。

 塾の終わりに、ふたりでこっそりと、正宗(まさむね)と手を繋いだ。


 でも、正宗の方も望んでくれた。


 あの、机の下で固く結ばれた、手と手の感触。


 禁じられた喜びが胸に溢れる。


 (いつき)がいるというのに。







 今日は、日曜日ということもあってか、樹の家に遊びに来ていた。

 正宗と手を繋いでからその後の、初めての日曜日。


 未来の内心は、憂鬱(ゆううつ)であった。


 塾の前での樹とのキスを正宗に見られて、未来を支えようとした樹の手を振り払ってからは、樹との関係も心なしかギクシャクしていた。

 このままではいけないとは思っている。


 樹の事も。

 正宗の事も。

 自分自身の気持ちの事も。


 樹の部屋に入る未来。


 「いらっしゃい」


 いつも通り、爽やかな笑顔の樹。

 でも今日は、どこか影がある気がする。


 樹の部屋に来てまでも、未来は夢想する。

 ここが、正宗の部屋だったらと。

 また正宗と手を繋ぎたい。

 もう、未来は自分が、正宗の存在に溺れていることは自覚していた。


 今はちょうど昼ごろだろうか。

 霧雨が降っていて、太陽の位置が分かりにくい。


 そして、樹が黙って動き出し。


 未来の元へ寄ってきて。


 未来の肩をそっと掴み。


 未来にキスをしようとする。




 その時。


 未来の胸には、正宗の笑顔。


 未来は。




 樹の顔の前で、未来は自分の手の平で壁を作り。


 樹がキスをしようとするのを、(さえぎ)っていた。




 樹の、大きく見開いた目。


 悲しそうな顔で、引いていく樹。


 樹は、乾いた笑いを上げる。


 「はは、やっぱり」


 樹が喋りだす。


 「正宗か?」


 未来の肩が跳ねる。

 樹は知っていたのか。

 果たして、どこまで。


 「俺とのキス、正宗に見られた時さ、

  あんなに動揺した未来、見たことなかったから。

  あの後、塾で倒れたんだって?

  小山内(おさない)から聞いたよ」


 樹は、椅子に倒れこむように腰掛ける。

 (うつむ)く樹。

 その表情は、影になって見えない。


 そして。


 ただ、時間だけが、流れる。


 無音のまま、いったい何分が過ぎただろうか。


 椅子に座って俯いたままの樹。


 未来は、何も言えなかった。


 そのまた何分かあと。


 樹が、ぽろりと言葉を(こぼ)す。


 「俺、本気だったよ。

  未来のこと。

  本気で好きだった。

  でも、未来は正宗が好きなんだろ?」


 未来は、答えられなかった。


 でもそれは、無言の肯定。


 樹の頬に涙が流れる。


 「はぁ……。

  キツいな。

  マジでキツい。

  正宗かよ。

  なんで俺じゃないんだよ」


 未来はもう、何も言えない。


 何を言っても、それは空っぽの言葉。


 ふたりの間には、沈黙だけが流れていた。


 そしてしばらくの後、樹が告げる。




 「未来。別れよう」




 未来は、言葉を発せない。

 だが、それもまた無言の肯定。


 「俺と付き合ってくれてありがとう。

  でも、お前の幸せは俺じゃないみたいだ」


 樹は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。

 そして、誰かに電話を掛けた。

 ハンズフリー通話にしているようで、相手側の呼び出し音が未来まで聞こえる。

 そして、誰かが電話に出た。

 樹が話しかける。


 「正宗か」

 「ああ、どうした」


 未来の心臓が跳ねる。

 電話の向こうには、正宗が居る。


 「未来のこと」


 正宗は、息を呑んだようだった。


 「別れることにしたよ」

 「……なんで」

 「お前も、わかってんだろ」


 未来は、樹と別れる申し訳なさと、正宗とお揃いの汚れた靴を、同時に頭に思い描く。

 樹は全て知っているのだろうか。

 未来の本当の気持ちも。


 でも、正宗の声を聴くと、胸が喜びでいっぱいになる。

 自分の不誠実さが嫌だったが、心はまるで別の生き物のようだ。


 「正宗、今どこ」

 「爬虫類館。オレンジの蛇のとこ」

 「わかった。今から未来、そこに連れてく。

  そこで待ってろ」


 樹はそう言って、画面をタッチし、電話を切った。


 樹は服の袖で、涙を拭いて、椅子から立ち上がる。


 未練を振り切るように。


 「未来、最後のデート。

  正宗のとこまで送ってくよ」







 皆口(みなぐち)正宗(まさむね)は、樹との通話を終えた。

 ポケットのズボンに、スマートフォンをしまう。


 目の前には、オレンジのコーンスネーク。

 今からここに、未来が来る。


 樹の気持ちを思うと、胸が痛む。


 でも、未来に会える喜びも、確かにあった。


 僕は偽善者だ。




 しばらく、ずっと蛇を眺めていた。

 一時間以上は経っただろうか。


 君の目はきれいだね。

 そう心の中で、蛇に話しかける。

 でもそれは、蛇を通して、未来の黒い瞳を褒めていただけ。


 ホールの方から、靴音が鳴る。

 ぺちぺちと、スニーカーの音。

 正宗は、薄暗いホールを見る。

 そして、やがて白と赤のストライプのスニーカーが見えた。

 それは泥で汚れた跡が。

 正宗の靴とお揃いの、汚れが。


 鈴の鳴るような声がする。


 「正宗君」


 未来が居た。

 黒曜石の目と、

 そばかすの頬と、

 黒髪のポニーテール。


 正宗は、未来の元へ歩み寄った。


 ゆっくり、ゆっくりと。


 「樹は?」

 「外で待ってるって」


 ゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。


 正宗は、未来へ向けて、右手を伸ばす。


 この想いが届いてくれと。


 未来も、それを左手で受け止める。


 この想いは届いたよと。


 自然と、手の指を絡めるふたり。


 それは蛇と蛇の絡まりみたいで。


 「未来さん」


 正宗は、そっと愛しい人の名前を呼ぶ。

 未来の目からは、涙が零れていた。


 「正宗君」




 正宗は、空いている左手を未来の背中に回し、未来の身体を抱きしめた。




 ふたりしかいない、蛇のコーナー。


 それを見ているのは、蛇たちだけ。


 しばらくは、ただ抱き合っていただけだった。


 言葉は、出てこなかった。


 言葉は、いらないとも思っていた。


 そして長い抱擁(ほうよう)が終わると、正宗は未来と向き合う。


 ギョロっとした黒曜石の目を見つめて。


 「未来さん。好き」


 未来も、言う。


 「正宗君。私も好き」


 そしてふたりは、また思いっきり抱き合う。


 やわらかな未来の身体。


 もう一生離したくないと願う。


 ふたりの影がひとつに合わさる。


 オレンジのコーンスネークの黒い目が、その影を見ていた。







 樹は、傘を差し、爬虫類館の前の道端で、ふたりを待っていた。

 親友と、元彼女。

 これから、どんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。

 でも、会わなくてはいけない。

 これが、最後のけじめ。

 文句でも言ってやろうかと、頭の中では罵倒の言葉が沢山出てきた。


 『裏切り者』

 『間男』

 『浮気者』


 樹の脳裏に、暗い言葉が浮かぶ。

 抑えきれない、恨みごと。

 樹の顔に影が差す。


 遠慮する必要などは無かった。

 樹は被害者だ。

 せめて最後は、言葉で傷を残してやろうと。

 嫌な笑いが、口元を歪ませた。




 やがて、ふたりが爬虫類館から出てきた。


 手を繋いで。


 それを見た樹は、思わず、


 差していた傘を放り出し、


 ふたりの元へ駆ける。







 そして、







 樹は、ふたりに抱き着いた。


 「お前ら、おめでとう。おめでとう!」


 樹の口からは、勝手に祝福の言葉が出てきた。

 罵倒してやるはずだったのに。

 傷つけてやるはずだったのに。


 樹の目からは、涙が(あふ)れる。

 なぜか、身体が勝手に喋る。


 「お前ら、幸せになれよ!

  絶対だぞ!約束だぞ!」


 正宗と未来の手も、樹の背に触れる。


 正宗も未来も樹も泣いていた。


 爬虫類館の前の道端で、三人はまるで円陣を組んだかのように、三人で抱き合う。


 みんな、霧雨に濡れながら。


 「ごめんね。樹君。ごめんね」


 「樹、ごめん。僕が悪かった」


 「もういいんだってそんなこと!

  俺は嬉しいんだ!

  最初から、こうなるべきだったんだよ!

  お前ら、遅過ぎんだよ!」


 樹の心には、恨みなどいつの間にか無くなっていた。


 そう、あるべき形に、いまようやく辿り着いたのだ。


 回り道をしまくって。


 樹はただ、親友たちの幸せを願っていた。


 三人で抱き合って。


 霧雨に濡れながら。








 正宗と未来は、神社の階段の前で樹と別れた。

 大きく手を振って去っていく樹。


 正宗と未来は相合傘(あいあいがさ)で、神社の長い階段を上る。

 階段の横に生えている木々から伸びた、上空に張り出している枝に茂った、緑の葉っぱたち。

 緑のアーチを進む。


 階段を上り切ると、大きな鳥居をくぐった。


 本殿(ほんでん)の左側の小道には、あじさいがたくさん花開いていた。

 ふたりで通ると、末永く結ばれるという小道。


 「行こう、未来さん」

 「うん」


 ふたりでひとつの傘を持ち。

 その小道へと向かう。


 両サイドには、満開のあじさい。


 そして、霧雨で泥と化した地面に。

 ふたりで一緒に踏み込んだ。


 右も左も、あじさいが咲き乱れている。

 まるで薄紫(うすむらさき)の花が、祝福してくれているよう。


 「正宗君。夢みたい」

 「僕も」


 ふたりは、泥の小道を歩く。

 相合傘(あいあいがさ)で。

 白と赤の、お揃いのスニーカーで。


 「未来さん。僕と出会ってくれてありがとう」

 「正宗君。私と一緒にいてくれてありがとう」


 泥を踏むたびに、スニーカーが汚れていく。

 お揃いの泥汚れ。


 「未来さん」

 「正宗君」


 ふたりは、ただ名前を呼び合う。

 気持ちを伝えあうのは、それだけで十分だった。




 ここまで来るのに、ずいぶんと回り道をした気がするけれど。

 これが、きっと僕たちの恋の最高速度。

 ふたりとも、気づくのが遅いんだ。

 そのせいで樹まで傷つけてしまって。

 それでも、巡り会えたのが嬉しかった。




 ふたりは、泥の小道を進む。

 相合傘で。

 汚れた靴で。

 狭い小道は、身体をくっつけないと、一緒には通れない。

 正宗と未来は、身体を寄せ合い、離れることなく、泥を踏む。

 お揃いの靴に、お揃いの汚れ。

 未来は、足元をみて嬉しくなった。




 やがて、小道は終わり。

 本殿の横の石畳(いしだたみ)へと()わる。


 その石畳の上に立ち。


 ふたりは向き合い。


 見つめ合い。


 そして。




 正宗は、未来の唇にキスをする。




 胸いっぱいに喜びが溢れる正宗と未来。


 まるでそれは、満開のあじさいの花。


 未来の目からは、嬉しくて、口づけたまま涙が零れ落ちる。


 未来の胸には、あの夢で見た光景が浮かんでくる。


 正宗とふたりで、満開のあじさいの小道を進み、口づけを交わす、あの夢が。


 あの、幸せでいっぱいのキスをした夢が。


 今、夢が正夢となった。


 ふたりは、いったん唇を離す。


 でも、そのまま正宗の胸に飛び込む未来。


 ポニーテールが揺れる。


 未来の身体を抱え込む正宗。


 この土地に住まう、産土神(うぶすながみ)様も、ふたりを見ているのだろうか。


 願わくば、あじさいの小道を歩いた正宗と未来を、ぜひ(いわ)ってほしい。


 そして、ふたりの勝手で傷つけてしまった樹を、ぜひ癒してほしい。


 樹からしてみれば、きっと余計なお世話であろう。


 そんなことを考えて、やっぱり僕は偽善者だ、と正宗は思う。


 汚れた靴で結ばれた、(いびつ)なトライアングルのような三人だったけれど。


 でもやっぱり、正宗は樹も大切に思っていた。


 正宗は未来を、その腕の中に包んで。


 産土神に、願った。


 樹にも、また新たな春が訪れるようにと。


 霧雨が降る、鎮守(ちんじゅ)(もり)に囲まれて。







 そして、梅雨も明け……


 正宗が、未来と付き合い始めてから、一か月弱。

 今日は、爬虫類館の中で待ち合わせ。

 コーンスネークの前で。


 皆口正宗は走る。


 梅雨が明けた、まばらに光が差し込む曇り空の下で。

 汚れた靴で、水たまりを跳び越え。

 僕の最高速度で。


 あのオレンジの蛇の元へ。




 僕ら三人の関係は、歪で綺麗なトライアングルだった。

 汚れた靴で結ばれた、三角形。

 でも今は、その一端は欠けて。

 ふたりだけを結ぶ、真っすぐな銀色の線になった。

 今までは、恋の速度が遅すぎて、決して手に入れられなかった銀の(きずな)

 やっと手に入れた、ふたりを繋ぐ銀の(きずな)

 この銀に輝く線は、もう手放さない。


 皆口正宗は走る。

 彼なりの、最高速度で。










 梅雨明けの放課後の体育館で、樹はひとり、シュートの練習をしていた。

 未来に対して、未練が無いと言えば嘘になる。

 でも、おさまるべき所におさまった。

 これで良かったという思いには、一切の嘘偽(うそいつわ)りは無かった。


 バスケットボールをゴールに目掛け、シュートを打つ。


 しかし、ゴールの輪に当たり、弾かれてしまった。


 ボールは体育館の入り口まで転がっていった。

 すると、ボールは誰かの足にぶつかって止まった。

 その足の持ち主は、ボールを拾い上げる。


 それはバスケットボール部のマネージャーの、ショートカットの女の子。

 樹がそちらへ振り向くと、マネージャーはボールを両手で差し出した。

 マネージャーの元へ駆ける樹。

 ボールを受け取ろうと、手を伸ばす。




 樹がボールを受け取ろうとした、その瞬間。


 マネージャーは、ボールを差し出したまま、言った。


 頬を赤らめて。




 「樹君。大事な話があるの」







 そしてそれを、体育館の入り口の外から見ていた、黒髪で黒縁眼鏡の男子高生。

 あのマネージャーに、樹が失恋したことを伝えたのも彼だった。


 「まあ、樹もがんばったんだ。

  あいつも報われなきゃな」


 そして、黒縁眼鏡の情報屋は、何も言わずに去っていく。

 樹に向かって、軽く手を振りながら。







 今日もまた、新しい恋が始まる。









お読み頂きありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ