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恋が遅い男と、恋が遅い女

 皆口(みなぐち)正宗(まさむね)は、学校の教室で、(いつき)から喜びの報告を聞いていた。

 (いつき)未来(みらい)は、付き合うことになったみたいだ。

 樹の告白が成功してくれて嬉しかった。


 「おめでとう、樹!」

 「ありがとう、正宗!」


 正宗は樹と、拳と拳を合わせた。


 だが、ひとつだけ懸念がある。


 「なら、もう僕は一緒に帰れないな」

 「えっ?水臭いこと言うなよ!

  俺たちの仲だろ?」

 「いやいや、さすがに、ふたりの間には入っていけないよ」


 付き合いたてのふたりに混ざるなんて、間男のような気がして嫌だった。

 ちゃんとふたりで、愛を育んでいって欲しい。

 だから、正宗は遠慮する。

 樹はなんとなく納得したようだ。


 「そうか、わかった。

  正宗。ありがとうな」


 正宗と肩を組む樹。

 正宗は言う。


 「いいんだよ。僕は、お前らには幸せになってもらいたいんだ」


 笑う正宗。

 これから梅雨の時期に入る。

 ふたりには、是非あの神社の小道で、泥だらけになってほしいものだ。

 靴を泥に(まみ)れさせたふたりを想像し、また笑った。







 郡山(こおりやま)未来(みらい)は、自分の部屋で、夜空を眺めていた。


 考えた結果、樹とは、付き合うことにした。


 正直な話、未来はまだ恋とはどういうものか、全然わかっていなかった。

 今はただ、流れに身を任せているだけに過ぎない。


 だがそれでも、これが切っ掛けで、またいい方向へ変わればいいと思っている。


 自分に恋人ができるとは、今までの自分なら考えられなかった。

 そばかすがコンプレックスで、それを隠すために髪の毛で顔を隠していたあの頃。

 恋人どころか、友達ひとりできなかったあの頃。

 それを、引っ張り出してくれたのは、正宗だった。


 (ありがとう。正宗君)


 未来は、心の中で正宗に感謝する。

 初めての友達の正宗。


 そういえば、正宗は、自分の恋の速度が遅いと悩んでいた。

 初めて素顔を見られた、爬虫類館の帰り道で話した、正宗の失恋話。

 正宗は、女友達だと思っていた相手が、実は恋の相手だと気づくと、もうその相手には彼氏ができている、ということが多々あったと。


 未来は、自分の事に思いを()せる。

 未来は、自分自身の恋の速度がわからなかった。

 自分は、速いのか遅いのか。

 なにせ、恋なんてしたことがなかった。

 恋を飛び越えて、彼氏ができてしまった。

 でもそれは、これから先、未来と樹が決めればいいこと。


 樹とは、どんなデートをしようか。

 スマートフォンで、近場の定番のデートスポットを検索する。


 その時、未来の頭の片隅で、正宗と遊びに行った思い出がよぎる。

 一緒に行ったハリネズミカフェ。

 そのハリネズミの写真は、未来のチャットアプリのアイコンにもなっていた。


 (樹君とも一緒に行ってみよう)


 未来は、自室のベッドにごろりと転がり。

 目を閉じてみる。

 閉じた(まぶた)の裏に浮かんだのは、正宗とのお(そろ)いのスニーカー。

 未来は、目を開ける。

 なぜ、あのスニーカーが頭に浮かんできたのか。

 それは未来自身も、わからなかった。







 それから、未来は樹と、ふたりで遊ぶようになった。

 樹は部活が、未来は塾があるため、多くの時間は取れなかった。

 隙間の時間に、樹の学校の校門でお喋りをするのが定番。

 土日は学校が休みだけれども、未来は塾がある日もあるため、毎回は会えなかった。

 だが、その少ない時間を有効活用するように、遊んだ。


 動物園に水族館。ハリネズミカフェにも行った。

 樹は爬虫類が苦手なため、未来の一番のお気に入りである爬虫類館に行けないのだけは、少し残念だったけれど。

 今まで出かけた場所を頭の中で羅列(られつ)し、未来は、ふと思った。


 まるで、正宗と出かけた場所をなぞっているみたい、と。


 それが何だか、不義理(ふぎり)なようで。

 少しの罪悪感と一緒に、正宗のことを思い出していた。







 そして時は少し流れ。


 未来が樹と付き合うようになってから、早くも約一か月が経とうとする日曜日。

 5月も終わりに差し掛かろうとしていた頃。

 未来は樹と、塾の近くの町中でデートをしていた。

 樹は、未来が危なくないように、道を歩くときは必ず樹が車道側を歩き、未来に歩道側を譲っていた。

 優しい彼氏だ。


 5月の日差しは、まるで真夏のよう。

 日焼けして、そばかすがこれ以上増えないように、日焼け止めを塗るようになっていた未来。

 毎年6月になると、逆にまた涼しくなるのだから、気候というのは不思議なものだ。

 未来は、今はもう昔の黒いワンピース姿ではなかった。

 緑のカーディガンに、白いスカート。靴だけは汚れの跡のついた、白と赤のスニーカー。

 昔の幽霊のような姿を彷彿(ほうふつ)とさせるものは、もう微塵(みじん)も無かった。

 未来は、樹と喫茶店に入り、店内の席でサンドイッチを食べる。


 「……でさ、正宗が、言うんだよ……」

 「……そこでね、正宗君が……」


 ふたりの会話には、よく正宗が出てきていた。


 共通の友人である正宗。

 樹と未来を引き合わせてくれた正宗。

 正宗に対しては、感謝しか出てこない。


 樹も正宗の事を大切に思っているのは、存分に伝わってくる。

 正宗に想いを馳せていた未来は、近くの神社の事を思い出した。

 あのあじさいの低木で挟まれた、恋愛成就の小道。


 「樹君、まだ時間だいじょうぶ?」

 「俺はだいじょうぶだよ。未来も、塾まだ?」

 「うん。塾にはまだ時間あるから。

  ね、一緒に来て欲しいところがあるの」


 そう言って、未来は喫茶店の席を立った。


 未来は、樹の手を引き、歩く。


 ふたりは、塾の前を通り過ぎ、


 神社の長い階段を上り、


 大きな鳥居を潜り抜け、


 まだ花の咲いていない、あじさいで挟まれた小道に辿り着いた。

 樹は、小道の入り口に立っている看板を眺める。


 「恋愛成就の小道?」

 「そう。ふたりで通ると、末永く結ばれるんだって」


 未来は、樹を引っ張り込む。

 以前、正宗と来た時とは違って、土の地面は泥ではない。

 乾いた土の小道に入る。

 樹は、小道のサイドにある低木を眺めた。


 「これ、あじさいか?」

 「うん、たぶんね」

 「梅雨に入ってから来たら、きれいかもな」

 「それいいね」


 ふたりは、小道を進む。

 両サイドには、まだ緑だけのあじさい。


 小道を通りすぎ、本殿の横の石畳に出る。


 未来は足元をみると、靴には、乾いた土の汚れが少し付いていただけで。

 正宗と来た時のようには、泥で汚れてはいなかった。


 「未来、どうしたの?」

 「靴、思ったより汚れてないなって」

 「よかったじゃん」

 「んー、なんか、ふたりで汚れたかったの」

 「ははは、なんだそれ」


 樹が、爽やかに笑う。

 未来は、正宗と来た時のことを思い出していた。


 お揃いの靴に、お揃いの汚れ。

 あの時、正宗と心が繋がった気がしたのだ。

 その喜びを、樹とも分かち合いたかった。


 だが、乾いた土では、泥のようにはいかない。

 梅雨になって、雨が降るようになれば、また靴を汚すことができるだろう。

 未来は、梅雨になったらまた来ようと、心に誓った。


 「あ、そろそろ行かなきゃ。塾」

 「お、もうそんな時間か」


 未来は腕時計を見て、もうすぐ塾の時間であることを思い出した。

 未来たちは大きな鳥居をくぐり、神社の長い階段を下りてゆく。


 長い階段を下り、しばらく歩き、ちょうど塾と、道路を挟んで向かい側に来たところで、樹が未来の腕を掴んだ。

 未来は樹の方へ振り替える。


 「どうした、の……」


 樹は、掴んだ腕ごと、未来の身体を引き寄せて。


 未来の唇へキスをした。


 未来は少しびっくりしたが、黙ってそれを受け入れた。


 口づけていたのは、ほんの数秒だっただろう。

 未来は、それよりも長い時間に感じていた。

 未来にとっては初めてのキス。

 少女マンガを読んでは、キスとはどんな感じだろうと想像を膨らませていたこともあった。

 そして、実際にしてみて……


 (なんか、こんなもんかなって感じ)


 未来は、割とあっさりした感想であった。

 ちょっとだけドキッとしたが、すぐに冷静になれた。

 むしろ、自分の冷静さの方に驚いていた。


 未来から、唇を離す樹。

 そして、いつものように爽やかに笑う。


 「ちょっと強引だったかな」

 「うん、ちょっとね」


 未来も笑う。

 こんなキスで喜んでくれるなら、幾らでもしていいとも思っていた。


 そして、塾に向かおうとして、道路を渡ろうとして、塾の方を振り向いて、







 道路を挟んだ先に、驚いた顔の正宗が居た。







 (見られた!?)


 未来は、正宗にキスを見られたと思った瞬間、心臓が激しく()ねた。

 正宗に見られた。樹とのキスを。


 見られてたの?ヤバい!

 何が?いや、別にヤバくない、はず。

 樹は彼氏。何もやましい事なんて、

 いや、でも……


 未来は、樹にキスをされた時よりも、はるかに冷静さを欠いた。

 気が動転して、何も考えられなかった。

 顔が熱い。鼓動が抑えられない。

 未来は、そのまま倒れそうだった。


 「未来!だいじょうぶ!?」


 樹が、未来の身体を支える。

 まるで、抱きしめるように、肩を優しく掴む。


 「きゃっ!」


 未来は、支えてくれていたはずの樹の腕を払いのけた。


 また、正宗に見られてしまうじゃないか。


 「み、未来?どうした?」


 払いのけられた腕の行き場を無くし、うろうろさせる樹。

 未来は必死に弁明する。


 「だ、だいじょうぶ!だいじょうぶだから!」


 急いで樹から離れる未来。


 正宗に言い訳しなきゃと考えて。


 (言い訳?誰に?正宗君に?なんで?)


 自分で自分が分からなくなっていた。

 まるでそれは、浮気現場を見られたかのようで。

 彼氏は樹なのに。


 「未来、本当にだいじょうぶ?」

 「うん!だいじょうぶ!

  そ、そろそろ塾、行かなきゃ!

  私、行くね!」


 早足で、逃げるように樹の元を離れる未来。

 道の反対側を見ると、もう正宗は居ないようだ。

 塾の中に入ったのだろうか。


 彼氏は樹で、キスをしたのも樹で、でも頭に浮かぶのは、正宗の事ばかり。


 未来は道路を渡り、塾の建物に入る。

 教室の前に着き、ドアを開こうと、ドアノブに手をかける。

 正宗と顔を合わせるのが怖かった。

 でも、入らなきゃ。


 未来は、ドアノブを回し、意を決して教室に入った。

 見回すと、数人の生徒たちが、所々でお喋りをしていた。


 正宗は、いつもの席に座っていた。

 そして、正宗の左隣は、いつも未来が座っている席。

 今日も、その椅子は、未来に座ってもらうために空いていた。


 「お、おはよう、正宗君……」


 正宗の左隣の椅子を引き、正宗に挨拶する未来。

 この塾では、夜だとしても『おはよう』が挨拶だ。


 「お、おはよう、未来さん」


 ぎこちない挨拶を返す正宗。

 不自然な間。


 やはり、見られていたのか。樹とのキスを。


 未来は、もう樹の事は頭から抜け落ちていて、正宗の事だけを考えていた。


 「正宗君、その、見てた?」

 「……うん。ごめんね、見ちゃって」


 やっぱり見られてた。

 またもや心臓が跳ねる。


 樹との口づけ。

 正式に付き合っているのだから、やましいことなど何もないはずなのに。


 だが未来は、動揺を隠しきれなかった。

 心臓が高鳴り、意識が朦朧(もうろう)とする。


 頭の中で、言葉が回る。


 やだ。みないで。おねがいだから。まさむねくん。


 頭の中で、ぐるぐる回る。


 「未来さん。靴、土が付いてる。

  神社の小道に行ったんだね。

  樹と。

  これで、靴の汚れは三人お揃いだ」


 笑う正宗。


 正宗の口から、樹、と出てくると、胸が苦しくなる。

 お願いだから、正宗の口から、その名は出さないでほしいと、勝手な願いを込める。

 うまく呼吸ができない。


 未来の目の前が、ぐるぐるまわる。


 「お、おい。未来さん、だいじょぶか?」


 心配する正宗の顔。

 正宗が心配してくれている。

 うれしい。


 正宗の顔も、ぐるぐるまわる。


 だめ、立っていられない……


 未来は、正宗との過去を思い出していた。


 初めて素顔を見られた、爬虫類館のお土産コーナー。

 その後で一緒に食べた、ヤドクガエルの水饅頭(みずまんじゅう)

 塾で初めて顔をさらした時も、かわいいと言ってくれた。


 そして、一緒に泥に塗れた、あじさいの小道。

 お揃いの靴で、お揃いの汚れ。


 ぐるぐるまわる意識で視界に捉えたのは、正宗の履く、汚れた白と赤のスニーカー。

 お揃いの靴で、お揃いの汚れで……


 「未来さん!」


 未来は、そのまま床に、うずくまった。







 未来は夢を見ていた。


 あの神社の、あじさいの小道。


 小道の両側の、あじさいは満開で。


 地面はぬかるんだ泥の道。


 隣を見ると、笑顔の正宗。


 ふたりは手を繋いで、小道を歩く。

 お揃いの靴で、お揃いの汚れ。

 そして、小道を通り抜け。


 その先で、未来は正宗に、口づけをされた。


 胸いっぱいに喜びが溢れる未来。

 嬉しくて、涙が零れ落ちる。

 そして、ずっとふたりで……



 

 未来が目を覚ますと、塾の救護室の白い天井が見えた。

 いつの間にか泣いていたのだろうか、頬が濡れているのを感じる。

 未来が寝ていたのは、救護室の白いシーツのベッド。

 それを見た塾の救護スタッフが、未来の元へ駆け寄ってきた。


 「郡山(こおりやま)さん、だいじょうぶ?

  具合が悪かったの?」


 未来は、ベッドから起き上がろうともせずに、告げる。


 「だいじょうぶです。ちょっと嫌な夢を見ただけで」


 嘘だ。

 本当は、正宗と……、


 それ以上は考えてはいけないと、自分で自分を戒める。


 でも、幸せな夢だった。


 幸せだと、思ってしまった。


 本当は、いけないことなのに。


 樹が、いるのに。


 その時、以前、正宗が失恋の話の時に言っていたことを思い出す。


 『僕、いつも自分の気持ちに気づくのが遅いんだ』




 そうか。


 私も、自分の気持ちに気づくのが、遅かったのだ。


 私も、恋の速度が遅かったのだ。




 だが、今は、きづいてしまった。


 きづいて、しまったのだ。




 樹という彼氏ができて、樹とのキスを正宗に見られ、心配してくれた樹を邪険にして、その果てにようやく、大切なのが誰なのか気づいたのだ。


 時計を見ると、もう授業は終わっている時間だった。

 もう正宗は帰ったのだろうか。

 未だ、ぼんやりとする頭で考えていたのは。

 皆口(みなぐち)正宗(まさむね)のことばかりであった。







 正宗は、塾から帰宅した後も、自室で未来のことを考えていた。

 教室で、突如うずくまった未来。

 救護室に運んで、そのままスタッフに任せてきたけれど。

 授業には、まるで身が入らなかった。


 大切な、友人の未来。


 親友の樹の恋人。


 偶然目撃した、ふたりのキス。


 そして、教室で倒れた未来。


 正宗は、ふたりのキスを思い出すと、胸が苦しくなる。

 友人だったはずなのに。

 親友の恋人のはずなのに。

 好きだと思っては、決していけないのに。


 正宗は、いつも自分の気持ちに気づくのが遅かった。

 好きだと自覚した時には、既に手遅れ。

 いつだってそうだったのだ。

 正宗は、未来を想い、涙を流す。


 思い出すのは、未来の黒曜石の目。




 そう、正宗は、未来のことが。




 「なんだよ……。

  なんで今になって……。

  またかよ……!

  また、僕は、遅かったのかよぉ!」


 悔し涙が(こぼ)れ落ちる。

 悔しいのは、自分の遅さに。


 正宗の恋の速度はいつも遅かった。

 気が付いた頃には、手遅れで。

 その自覚の遅さを、いつも恨んでいた。

 そして自分自身を。


 しかし、これは決してバレてはいけない恋。

 親友の恋人を好きになるなんて。


 樹と未来のキスシーンが、脳裏に浮かぶ。


 正宗は、嘆く。

 ひとり、部屋の中で。







 6月になり、梅雨入りをした。

 空には雲がかかって、霧雨が降っている。

 正宗は放課後になっても、校舎の窓から外を眺めていた。

 ふと、隣に誰かがいる気配がする。

 隣を向くと、黒髪の黒縁眼鏡の情報屋。

 小山内(おさない)が、隣の席の椅子に座って、こちらを見ていた。


 「よう、皆口(みなぐち)君。後悔、してる?」


 小山内の問いをきっかけに、正宗の頭には、未来の姿が浮かんでいた。

 黒曜石の目。そばかすの笑顔。


 正宗は、問いに答える。


 「後悔、してる」


 なぜ自分は、樹の背中を押してしまったのだろう。

 なぜ自分は、ふたりを祝福などしてしまったのだろう。

 なぜ自分は、こんなにも遅かったのだろう。

 もっと早く気付けていれば。

 後悔は切りがない。


 小山内は続ける。


 「一応、言っちまったしな。

  (つら)かったら、話は聞いてやるって」


 そうか。

 小山内は、確かに言っていた。


 バスケットボールの試合会場で。


 樹が未来に告白する直前に。


 正宗に『後悔するぞ』と。


 あれは、これの事だったのか。


 正宗は続ける。


 「ようやく、分かっちゃったんだ」

 「そうか」

 「好きだ、って」

 「うん」


 小山内は、ただ受け止める。

 正宗は、言葉が止まらなかった。


 「なんで、気づくのがいつも遅いんだろうって」

 「うん」

 「僕が、もっと早ければ、こんなことには、ならなかったかもしれないって」

 「うん」

 「……っ、……(つら)い」

 「(つら)いな」


 正宗の目からは、涙が止まらなかった。

 あまりにも後悔が多すぎて。

 隣に座る小山内は、ただそれを聞いてくれていた。

 しとしとと降る、霧雨の雨音と共に。







 ある日の、塾の教室。


 授業が全て終わったとき。


 いつも通り、正宗の左隣には、未来が座っていた。

 あの救護室に運ばれた日以来、未来は何かに悩みこんでしまっているようだった。


 次々と教室を去る生徒たち。


 気が付くと、教室の中には、正宗と未来だけだった。


 言葉は、交わせなかった。

 一度言葉にすると、きっと止めることはできないだろう。

 言ってはいけない言の葉で。

 だから、ただ無言で、隣り合って座っているふたり。


 正宗は、何気なく左手を、机の下で、少しだけ未来の方へ伸ばした。


 さまようように。


 求めるように。


 求めるものには、触れられないはずなのに。


 しかし、なにか柔らかいものに触れた。


 そこには、未来の右手があった。


 未来も、右手を正宗の方へ伸ばしていた。


 机の下で。


 さまようように。


 求めるように。


 正宗は、思わずそっと、未来の手を握ってしまう。

 未来の手は、やわらかくて、少し冷たかった。


 正宗は、未来を見る。

 未来も、正宗を見ていた。


 未来は、泣いていた。

 黒曜石の目から、涙が一筋流れていた。


 未来は、正宗が握った手を強く握り返す。

 その強さに、未来の気持ちが伝わってくる。

 正宗も、なお強く握り返した。


 もし、自惚れでなければ、未来も僕の事が……

 ああ、僕たちはふたりとも、自分の気持ちに気づくのが遅かったんだ。


 ふたりとも、手を強く握り合う。

 もう離さないと言わんばかりに。


 許されないはずの、手つなぎ。

 許されないはずの、関係。

 だけど、愛おしさだけは本物で。

 後悔と、愛と、嫉妬と、執着が、正宗を満たしていた。







 未来と手を繋いでから、その次の日曜日。

 正宗の心には、もう未来だけが写っていた。

 親友の恋人に恋をした。

 終わりしか見えない恋。


 正宗は、電車に乗り、昼間から爬虫類館を目指す。

 駅を出る正宗。

 今日もまた、霧雨が降る。

 差した傘に、細かな雨音がする。

 あじさいもそろそろ咲いただろうか。

 あの神社の小道を思い出す。


 正宗は、爬虫類館の出入り口で料金を払い、ホールに向かった。

 湿気が肌に貼りついてくる。

 日曜日だというのに、ひとは(まば)らだ。

 蛙とトカゲの水槽を通り過ぎ、蛇のコーナーへやってきた。

 そこには、正宗しか人が居なかった。

 中央には、宝石のように美しい、オレンジのコーンスネーク。

 黒い目は、まるで未来の瞳のようだった。




 すると、正宗のスマートフォンが震える。

 ポケットから取り出し、画面を見ると『(いつき)』の文字。

 正宗の心臓も震えた。

 画面をタッチし、電話に出る。


 「正宗か」

 「ああ、どうした」


 心なしか、樹の声は湿っている。


 「未来のこと」







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