恋が遅い男と、オレンジの蛇
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皆口正宗は走る。
梅雨が明けた、まばらに光が差し込む曇り空の下で。
汚れた靴で、水たまりを跳び越え。
僕の最高速度で。
あのオレンジの蛇の元へ。
数か月前、まだ春休みに入る直前のこと。
好きなクラスメイトの女の子と、雑談をしていたら。
「そうそう、皆口君、聞いて!私、彼氏できちゃった!」
「えっ?いつ?」
「先週!」
こうして皆口正宗は、また知らぬ間に失恋していたのだった。
もうすぐ、高校二年生となる皆口正宗は、いつも自分の気持ちに気づくのが遅かった。
ただの友達だと思っていた女の子を、恋の相手として好きだと自覚した時には、既に手遅れ。
そんなことが、幼少の頃からずっと続いていた。
正宗が自分の気持ちに気づく速度は非常に遅い。
周囲の恋の速度の、なんて速いことか。
あっという間に付き合って、手を繋いで、キスして。
正宗は、きっと自分の方が遅すぎるのだろうと思っている。
正宗は、来年度の三年生に上がった後の大学受験に備え、今、二年生になる前の春休みから、学習塾に通っていた。
塾には他の学校からも、様々な生徒が。
その中には、我が校の近くにある女子高からも、何名か来ている。
先日の失恋により、失意のどん底であった正宗は、塾の自席で、机に突っ伏していた。
「はぁ……。もうやだ。消えたい」
胸の痛みは、どんなに繰り返しても慣れるものではない。
今こうしている時も、好きだったあの子は、彼氏と一緒に……
(ダメだ。考えるな)
終わった恋に想いを巡らせ、自分で自分を傷つけている。
不毛だとは自分でも分かっていたが、心が制御できずに、勝手に想像を創り上げる。
恋とは、何て質の悪いものなのだ。
(もう、前を向いて新しい恋を探そう)
以前の恋に、思いっきり後ろ髪を引かれながらも、なんとか自分の気持ちを取り繕う。
なぜ僕はこんなにも、自分の気持ちに気づくのが遅いのか。
いつも、取り返しがつかなくなった頃に、ようやく気づくのだ。
自分の遅さに、嫌気がさす。
そして、今日も今日とて、春休みのため、朝からぞくぞくと塾の教室に参上する生徒たち。
仲良くなった女子高の生徒たちとも、なんとか笑顔で挨拶を交わす。
そして、入り口を見ると……
(あ、来た)
ぞくり、と寒気を感じる正宗。
教室の入り口から現れたのは。
まるでホラー映画に出てくる怨霊のような風貌の女生徒。
長い黒髪が顔を隠し。
垂れた髪の間から微かに見えるのは、ギョロリとした黒い眼。
足元まである、長い漆黒のワンピースを着用して。
全身から、不吉なオーラを漂わせた。
女子高の生徒の一人、郡山未来であった。
郡山未来は、音もなく歩く。
そして、正宗の後ろを通る。
正宗の全身には、恐ろしさで鳥肌が立っていた。
正宗の左横にある、空席を一つ隔てた先に座る郡山。
学習塾に通う女子高の生徒の中で、正宗が唯一話すことすらしていない女子、郡山未来。
あまりにも異物すぎて、話しかけるという発想が思い立たない。
事実、郡山が誰かと話をしているのを見たことが無い。
正宗は、こっそり横目で郡山を見てみる。
全身真っ黒のワンピース。
だけど意外なことに、靴だけは、白と赤のストライプのかわいいスニーカーを履いている。
すると、郡山の垂れた黒髪の間から、ギョロっとした真っ黒い目が、正宗を見返してきた。
咄嗟に顔を背ける正宗。
(……怖い)
顔を背けたまま、教科書に没頭する振りをする正宗。
そして講師が入ってきて、始まる英語の授業。
授業中も、左横の方から、どんよりとした空気が流れ込んできた気がした。
塾の授業も難なく終わり、その翌日。
今日は塾は休みの日。
春休みの正宗は電車に乗り、塾の近くにある、お気に入りの爬虫類園に来ていた。
なるべく光が入らないように設計された、窓の少ない白い建物。
出入り口の近くには、お子様用のお土産コーナーがある。
出入り口で料金を払い、ホールに入ると、湿気が肌に貼りついてくる。
ホールは、一階から三階までをぶち抜かれた、巨大な部屋になっている。
壁は岩のように象られ、所々に装飾のシダが生やされて。
岩の間からは、清水が流れ、各々の水槽に落ちていた。
中央には、アナコンダの巨大な水槽。
周りの小さな水槽たちには、さまざまな爬虫類や両生類。
正宗は、蛇が好きだった。
常時循環される水のにおいが、正宗の気持ちを落ち着かせる。
正宗は、自分も前世は爬虫類だったのではないかと思う。
蛙やトカゲを眺めながら、正宗の足は蛇のコーナーへと進む。
そこには、大小の様々な蛇たち。
つるりとしたものから、ゴツゴツしたものまで。
毒の有るのも、無いのも。
そして正宗は、蛇コーナーの中央に居る、小さくてかわいい蛇を見る。
爬虫類館の目玉のひとつでもある、模様の無い、宝石のようなオレンジのコーンスネーク。
クリっとした目は、真っ黒い瞳をしている。
正宗は、このオレンジのコーンスネークが大好きだ。
しばらくの間、コーンスネークを眺め、そして去り際にそのオレンジの蛇に会釈し、他の水槽を見て回る。
蛇のコーナーで小一時間を潰し、トカゲ、蛙とまた順番を巡る。
ホールを一周し、出入り口まで戻ってきた正宗は、ふとお土産コーナーが目に入った。
いつもは素通りして帰って行っていた、お土産コーナー。
(たまには見てみるのもいいかな)
正宗は気まぐれに、お土産コーナーに足を運んでみた。
爬虫類の写真集。ヤドクガエルの形の水饅頭。オレンジのコーンスネークのぬいぐるみ。
ブラブラしているだけでも、結構おもしろい。
そこに、段ボール箱を抱えて通りがかるスタッフの女の子。
ぬいぐるみを品出ししているようだ。
女の子は、緑色の迷彩の、ジャングル探検隊のような制服を着ている。
段ボール箱を床に置いた女の子が顔を上げ、正宗に笑顔で挨拶をしてくれた。
「いらっしゃいませ……ぇ……」
正宗を見て、固まる女の子。
何かしたかな、と思う正宗。
スタッフの女の子は、長い黒髪を前髪ごと上げて、纏めて後ろで結んだポニーテールで、ギョロっとした目と、そばかすが可愛い女の子だった。
(あれ?この人、どこかで……)
足元を見ると、白と赤のストライプのスニーカー。
確か、このスニーカーは……
正宗は、スタッフの胸元の名札を見る。
『郡山未来』
郡山未来。
正宗は、その名前を確かに知っている。
塾に現る、亡霊のような風貌の女生徒。
だが、正宗の脳内の郡山未来とは、遥かにかけ離れた容貌の、目の前のスタッフ。
同姓同名か?
だが、『郡山』という苗字は、この辺ではかなり珍しく、正宗の通う高校にも、一人も居なかった。
一瞬の硬直の後、そのまま、急いでスタッフルームへ去ろうとする郡山。
正宗はそれを引き留める。
「ちょ、ちょっと待って。
郡山さん?塾で一緒の?」
郡山は、つんのめるように立ち止まり、少しの躊躇のあと、こちらに振り向く。
郡山の目は、正宗とは合わせずに、床をうろうろしている。
そして少し赤らめた顔を人差し指で掻きながら、答えた。
「えーと、はい。その郡山です」
郡山未来は、意外にも可愛らしい顔立ちをしていた。
ギョロっとした黒曜石のような目と、そばかすが目立つが、ごく普通の女の子だ。
「塾が無い日は、ここでバイトしてるんです」と郡山。
あの恐ろし気なオーラは、どこにもない。
本当に塾の郡山と同一人物なのか、まじまじと顔を見つめる正宗。
「あ、あの……、あんまり、見ないでください」
手で顔を隠す郡山。
「ほら、私、そばかすがいっぱいあるじゃないですか。
それが、なんというか、コンプレックスみたいなもので……。
だから、いつもは髪を下ろして隠してるんです。
今はバイト中だから、仕方なく髪を上げてるんですけど」
確かに、あの幽霊のような姿でバイトはできないだろう。
客が逃げる。
正宗は、郡山の顔を見て言う。
「いや、そばかすなんて、全然気にならないよ。
むしろ、それが愛嬌があって、俺は好きだな」
「お、お世辞なんか言わないでください」
「お世辞じゃないよ。本当」
正宗は、恋した相手でさえなければ、素直に人を褒める。
恋した相手には、素直な気持ちは言えないのだけれど。
郡山の、手で隠した奥の顔が、赤らんでいた。
「郡山さん、爬虫類とか好きなの?」
すると、獲物に食らいつく蛇のような速さで、こっちを向いた。
「はい!好きです!だからここでバイトしようと思いまして!」
正宗が振った話に食いつく郡山。
もう、顔も隠していない。
ギョロリとした黒い目に照明が反射して、キラキラ輝いている。
そばかすも、散りばめられた星みたいだ。
「僕、蛇が好き」
「私も、蛇好きです。
あとは、蛙かなぁ。ヤドクガエルとか」
「ヤドクガエルいいよね。
特に、模様が付いてないやつとか、きれい」
「そうなんです!分かります!?
宝石みたいで!きれいなんですよ!」
「わかるわかる!」
猛毒の蛙の話で盛り上がる。
正宗は、郡山が品出ししていたぬいぐるみを指さして言う。
「蛇も好きなの?
じゃあ、それ。
オレンジのコーンスネークは?」
郡山は、品出ししていたオレンジの蛇のぬいぐるみを一つ、自分の顔の横に持ち上げる。
そして、ニコッと笑った。
「かわいいですよね」
正宗は、なんだか嬉しくなってしまった。
そしてその日、正宗は郡山と一緒に帰る約束をした。
正宗は爬虫類園の建物の前で、スマートフォンで蛇の画像を眺めて時間を潰していた。
すると、爬虫類園のスタッフ用のドアから、のそりと出てくる、革の鞄を持ち、足元まである長い黒いワンピースを着て、黒髪で顔を隠した郡山未来。
正宗が郡山に手を振ると、音もなく近寄って来る。
いつもなら感じるはずの不吉な雰囲気も、今となっては全く感じられない。
そんなものは、所詮は受けとる側の問題だったのだろう。
幽霊の、正体見たり、郡山。
あの黒髪の下は、そばかすを気にする、ただの女子高生だ。
正宗の目の前にやってくる郡山。
「お待たせ、しました」
「待ってないよ。蛇見てた」
スマートフォンの画面を郡山に見せつける正宗。
髪の毛の奥の目が、笑った気がした。
そして、何やら鞄をまさぐる郡山。
「あの、これ……」
郡山は、鞄の中から、細長い紙の箱を取り出す。
その蓋を開けると、爬虫類園の土産屋に売っていた、黄色いヤドクガエルの形の水饅頭。
「一緒に、食べようと、思いまして」
「え?僕と?
あ、ありがとう」
正宗は、箱に幾つか入っていた水饅頭を、一つ手に取る。
ぷるぷるした黄色の半透明の生地の中に、こしあんが入っているようだ。
それを、ひと齧り。
冷たくて柔らかい触感と、こしあんの甘味。
「おいしい」
「ヤドクガエル、食べちゃいましたね」
「本物なら、もう天国行きだね」
郡山も、一つ手に取り、髪の毛の隙間から口に持っていき、齧る。
「これで私も、天国行き」
ふふ、と笑うふたり。
その後は、ふたりで爬虫類の話で盛り上がり、受験の話で愚痴をこぼし合い、正宗の一方的な失恋話に笑い、帰途についた。
途中、ふたりが通う塾の前を通り過ぎる。
郡山は、正宗とは逆方向の電車のようだった。
改札口に入ったところで別れを交わすも、ホームに出たら反対側に郡山が居て、お互いに少し笑った。
そして電車に乗り込むと、電車の窓から、反対側のホームにいる郡山に手を振る。
郡山も、手を振り返してくれた。
黒髪で顔を隠した、幽霊のような恰好で。
それから後日、未だ春休みの正宗は、朝から塾に来ていた。
同じ学校の生徒も、近くの女子高の生徒も、また別の学校の生徒も、入り口からどんどん入って来る。
その中には、いつもの黒いワンピースに、髪の毛で顔を隠した郡山未来。
正宗は後ろを振り向き、ドアから入ってきたばかりの郡山に声をかける。
「郡山さん、おはよう」
その声を聞き、驚きで止まる、郡山。
その声を聞き、驚きで止まる、教室の生徒たち。
正宗だけが、笑顔だった。
止まる時間。
そして。
「お、おはよう、ございます」
返答する郡山に、さらに唖然とする生徒たち。
一体、何が、どうなっているのだと。
郡山未来と話す人間は、今までひとりも居なかった。
まるで、話したら呪われるだろうと言わんばかりに
正宗は、趣味の合う新しい友人と、仲良くしたかっただけである。
みんな、そんなに驚かなくてもいいのに。
正宗は自分の左隣の空席の椅子を引き、郡山に促した。
「郡山さん、ここ空いてるよ」
正宗の引いた椅子を見つめる郡山。
硬直した周囲の人間の目線を感じながら、おずおずと郡山は正宗の隣に座った。
机の下に鞄を下ろし、ギョロリとした黒曜石の目が、正宗に向く。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
正宗は女子に対しても、友人と思っている限りは、距離感が近い男だった。
だから郡山にも、どんどん距離を詰める。
「郡山さん。髪、上げてみてよ。
僕、郡山さん、可愛いと思うんだよね」
「か、かわいくなんかないです。
それに、髪上げるのは、まだ恥ずかしいかな……」
「そう?残念。見たかったのに」
諦めて前を向く正宗。
それを、じっと見ている郡山。
郡山が口を開く。
「あの、ほんとに、そう思ってます?」
「え?なにが?」
「その、私の事、あの、かわいいって……」
「うん」
堂々と答える正宗。
友人として接する限りは、何も遠慮はしなかった。
しかし、友人として距離がどんどん狭まった後に、実は相手の事を女性として好きだと気づいたときは、既に相手は別の男と付き合っているというのが、正宗のいつもの失恋パターンだった。
正宗は、自分の気持ちに気づくのが、遅い。
そして正宗のその答えを聞いて、何かを決心したような郡山。
郡山は、鞄のポケットを何やらまさぐる。
ポケットからから一つ、黒い髪ゴムを取り出した。
そして、前髪を一気に上げ、後ろ髪と一緒に纏めてポニーテールにする。
髪ゴムで纏めた、ボリュームのある髪が揺れる。
生徒たちが息をのむ。
そこには、ギョロリとした黒い目と、そばかすが愛らしい、ただの女の子が居た。
「ど、どうですか?」
正宗は応える。
「うん。かわいいと思う」
周囲の生徒も驚きの声を上げる。
「私、郡山さんの顔、初めて見たかも」
「えっ。なんか、普通にかわいくね?」
「ポニーテール、似合ってて、いい!」
ものすごく正直に言うと、郡山より可愛い子も、美人な子も、塾には何人も居た。
だが正宗は、郡山の顔が好きだったのだ。
(うんうん。これでみんなも、郡山さんの良さが分かってくれるといいな)
ひとり頷く正宗。
正宗は、新しい友人ができ、先日の勝手な失恋の悲しみも少し薄れ、満足気であった。
その左隣で、塾のみんなから、次々と話しかけられる郡山。
郡山は、それにたどたどしく応える。
あの不吉なオーラなど、最早どこにもない。
正宗は、これで郡山も寂しい思いをせずに済むな、と思った。
だが、正宗の心の奥の隅っこで生まれた、小さな独占欲がちくりと痛むのを、正宗は気付かない振りをしていた。