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ぴいんぽおーん
無機質な機械音と、ドアの向こう側のノイズが部屋に響き渡る。
「○○さーん、お届け物ですー!」
私はこの音で目が覚めた。
でも出なくても大丈夫。
私は彼氏と同居しているの。
ほら、彼の足音が聴こえる
とたとたとた…
かしゃん
ガチャリ
「あっ、○○様でしょうか?」
「はい」
「こちらにサインをお願いいします」
「はい、ありがとうございます!」
「…どうも」
ガチャリ
かしゃん
ほらね、良いでしょう?
私はずっと寝ていても許されるの。
自慢話はもっとあるのよ?
彼はここらの地域一帯で、たくさんの土地を所有するんですって。
今は、彼のお父さんの物だけど、いずれはね。
なんでも曽祖父の代からこの土地を守り続けてるらしいの。
昔は畑を小作人に貸して、収入を得ていたらしいわ。
今はマンション、アパート、テナント…放っておいてもお金が入ってくるだなんて、素敵すぎるでしょう?
でも、彼のお父様は厳しくて、一度でも一人で稼げるようになったら土地を半分渡すですって!
なんのために?
あのお父様本当にわからずや。
その逆境の中、彼は花を育てることにしたらしいの。
まだ育てている花壇は見たことがないけれど、もらったことはあるのよ。
良いでしょう?
それは、セミが激しく鳴く昼下がりの公園での出来事。
美術学校に通っていた私は、友人と共に美しく濃い緑をキャンバスに写そうとしていた。
課題は『自然の風景』
夏休みの期間を利用して、一枚仕上げないといけないの。
「…ねぇ、××…さっきからあの人、ずっとこっちを見て来てない?」
「気のせいでしょう、それか私たちの絵を見たいんじゃないかしら?気になるなら誘ってみたら?」
「やだよ!まだ下手くそなのに…それにあの人怖いし…」
友人の言う彼は不思議な眼をしていたそうなの。
私は普通の人だと思うけどなぁ。
少しとろんとした透明感のある眼。さらさらしていそうな少し色素の薄い髪。
不健康なのかしら、血色はそこまで良くなさそうね。
白シャツにジーンズ。なんて典型的なファッションなのかしら。
あ、目が合っちゃった。会釈だけでもしておこう。
って、反応なしかよ。本当に変な人ね。乙女を凝視しておいて挨拶も返さないだなんて。
失礼すぎるわ。
「やっぱり、場所を変えましょうか。あの人の視線に映らないようなところ」
「うん!あーでも結構進めちゃったな。同じような風景のところってあるかな?」
「想像で描けばいいじゃない。葉っぱとかはそこらにあるわ。さっきの風景思い出して」
「それができないから言ってるんですー!××はいいよね。もともとうまいんだもん」
「じゃあ明日にする?」
「あの人さえいなければな…いっそのことこの世から消えて欲しい」
「そんなこと言っちゃいけないわ。…私、あの人を描いてみようかしら」
「嘘でしょ⁉そっちこそ冗談言わないでよ、あんな不審者!」
「だって、本当にモデルみたい。さっきから全然動かないわ。ちょうどいいじゃない」
「うー、ゲイジュツカって本当に変わった人の巣窟なのね。私には向いてないかも」
「こちらをじっと見つめてくれるんですもの。まるで描いてくれって言ってるみたいじゃない。見つめ返してやるのよ。ほら」
私はまだ新緑色しか乗せていないキャンバスに、あの人の色を置いた。
風がたなびいて、油絵の具の香りがツンと鼻を刺激する。
「あ、動かないで…」
「ホラやっぱり。生半可な気持ちで描くと失敗するよ?」
あの人が私たちに背を向けて歩いて行ってしまった。
名前も知らないのに、淋しい気持ちになる。
「もう帰ってこないかしら」
「もう帰ってこなくてよろしい!」
「そんなこと言わないでよ。こんなに進んだのに」
私のキャンバスは公園の緑より、あの人の肌の色でいっぱいになってしまった。
優しい色合いで、そこに彼がいるような気がして。我ながら素敵な絵だわ。
でもやり直すべきかしら。課題は自然の風景だし…
「ああもう、台無しだわ。」
自然と愚痴が吐き出された。また一からやり直しだ。あの人のおかげで。
「また明日にしようよ。もう四時間も描いてるわ。ほら、太陽があんなに低くなってる。夕立も降ってきそう」
「本当だ。降って来る前に帰りましょうか。明日もここに10時に集合ね!二人分のお弁当作って来るわ!」
「本当!すごくうれしい。明日が楽しみになってきたわ」
「内容は何がいいかしら?私は片手で食べられるサンドイッチがいいと思うんだけど」
「××大好き!じゃあ、タマゴとトマトが挟んであるのがいいな。あ、私ミックスジュースでも作ってこようか。最近はまっちゃったの」
「素敵ね!明日は課題よりピクニックになっちゃいそう。じゃあ、また明日ね!」
まだ乾いていないキャンバスを持ち、意気揚々と帰路についた。
家のドアを開けた時に、あの独特の香りがしたの。
アスファルトに雨粒が染みて、楽しそうに香り出す。
雨は好きよ?この香りもたまらないけど、音も好き。
しとしと、ぽつぽつ、ざぁあああああ…
風が強い日は家も揺れて、少しスリリングね。
あの子は夕立が振る前に家に帰れたかしら?
明日泣いていたらだいたい分かりそうね。
夕立が去ったら、パンを買いに行きましょう。
タマゴはあるし、トマトはなかったかしら。
レタスもハムも欲しいわね。
ああ、明日が楽しみ。
窓辺に伝う二つの雨粒が、一緒になってスピードを上げて落ちていく。
まるで駆け落ちのようね。地の果てまで堕ちて、天に昇るまで一緒だなんて素敵。
やっぱり雨はロマンチックで好きよ。
ああ、雨がどこかへ行っちゃった。楽しいひと時は終わり!
明日の準備をして寝ましょう。
「おっはよー××!今日も蒸し暑いね」
「おはよう。本当に朝から暑いわね。昨日も無事に帰れたみたいでよかったわ。すぐに雨が降ってきたでしょう?」
「ねー。吃驚しちゃっ…た。」
「どうしたの?」
「あの人、またいるよ。どうしよう」
「あら、本当」
昨日よりしわくちゃの白シャツ。ジーンズも少し濃い色合いのものになってるわね。
でもそれだけしかファッションを知らないのかしら。
不思議な人。
「またこっちを見てる。もう課題の場所変えようか」
「挨拶してくるわ。昨日無視してくれたし、気に障るわね」
脚にずいぶんと力が入ってしまった。
友人を怖がらせた罰よ。一発ぶんなぐってやる。
「こんにちは、お兄さん?昨日もいらっしゃったわよね?」
「ああ、こんにちは。昨日もいたね」
「ねぇ、私たちあそこで絵を描いているの。あなたがここで突っ立たれていると気が散っちゃうのよ。もし用事がないなら別の場所に移動してくれないかしら?」
「やっぱり描いてたんだね。僕は花を見ていたんだよ。心が落ち着くからね」
「花って…私たちの後ろの花壇?なんでそんな遠いところから見る必要があるのよ。近くで見ていればいいじゃない。とにかく、ここに居られては困るの」
「ずいぶんと身勝手なゲイジュツカさんだね。そんな狭い心で綺麗な絵が描けるの?美しくないものは全部排除しちゃうだなんて、独裁者でしかない」
「なっ…そうね。公園はみんなの物よね。やってやろうじゃないの。ずっとそこに突っ立ってるがいいわ!」
恥ずかしいわ。見知らぬ男性に思いきり啖呵を切ってしまった。
それにあの人の言う通り、公共の場所でどいてくれだなんて…私の方が悪いじゃない。
こうなったら勝負してやろうじゃないの。
「ねぇ、どうなったの…⁉」
「勝負よ。あいつは意地でもどかないらしいわ。それにあのイカれた眼!私たちの後ろの花を見ているんですって!とんでもない野郎だわ」
「あんなところから、この花壇を?おかしな人ね」
「私たちも、意地でもどいてやらないわ!」
「えっそうなっちゃうの?」
「ええ、明日もここに集合ね。さぁ、続きを描きましょう」
次の日も、その次の日も、彼は変わらずそこに出没した。
いつも変わらない白シャツとジーンズ。
よく見たら毎日違っているみたい。
…もしかしたら、私たちがここを陣取る前からあそこにいたのかしら。
そうだったとしたら、すごく失礼なことをしちゃったかもしれないわね。
私のキャンバスには、葉の深緑と木のあたたかな茶色、高く遠い青い空に、大きな影を落とす入道雲、乾燥した土色と木陰、その中に堂々と彼が写りこんだ。
時々姿が見えないと心配になってしまうほど凝視してしまったわね。
絵も完成が近くなってきたころ、彼はいつもの私たちの場所に座り込んでいた。
「ねぇ、そこは私たちが普段使っているところなの。知っているでしょう?いつもの場所に立っていて頂戴よ」
「知っているよ。待っていたんだ。これを渡しに来ただけ」
「え…花束?」
「うん。君はハツラツとしてるから黄色のバラを選んだんだ。小さいし綺麗なのは四本しかなかったけど」
「どうして?素敵だけど、何故私になの?」
「描いている絵を見せてもらいたくて。見せてくれたらいつもの場所に行くよ」
「…仕方ないわね。ほら」
「………すごい。奥行きがあって綺麗だね。これはボク?」
「ええ、邪魔者じゃなくて、絵に閉じ込めてやったわ」
「ふふふ、強気なところも素敵だ。いつかこのバラも描いてよ。ボクが育てたんだ」
「この黄色いバラを、あなたが…?」
「あ、お友達来たみたいだね。じゃあいつもの場所で」
本当に不思議な人ね。
「ねぇ××、さっきあの人と話してたの?大丈夫だった?」
「大丈夫よ。なんだか不思議だけど、怖い人ではないみたい」
「絵を見せていたの?」
「うん。もう絵は完成しそうだし、この公園ともあの人ともおさらばよ」
「…そうだね。私も今日で完成させるつもり」
私はその日のうちに黄バラを牛乳瓶に入れ替えて、絵を描いたわ。
ゴッホのように大輪のひまわりもいいけれど、これも味があって素敵ね。
次の日に私はまた公園へ来たの。あの人にこの絵を渡すのと、別れを告げるために。
でも叶わなかったわ。
あの人がバラの絵を見て、こう言い放ったのよ
「下手だね。もっときれいに描いてよ」
何度も挑戦したわ。
なんでこんなことしているんでしょう
いつの間にか彼の部屋で一日中、四本の黄バラとにらめっこ。
日に日に意識が遠くなっていく。
でも彼を満足させる絵を完成させないと。
私のゲイジュツカ人生に傷がつくわ。
それに約束をしたの。絵が完成したら、結婚しようって。
私が好きな家もデザインしていいよって。
大理石の家具でも作ってやろうかしら。
車は…そうね。派手なのは苦手だから、シンプルな黒。
そんな夢も彼は笑って聞いてくれたわ。
全部叶えてあげるって。
なんて言ったってお金持ちだからね。
「××、お届け物だよ。これで楽になれるよ、ほら飲みな」
………
「すごく素敵な絵だね。綺麗な花が咲いたよ?君は花だ」