第二章3
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身じろぎもせず体を丸めているのも、尻の下のタイルの硬さも文也の心をくじくには十分だった。じっとしているのが辛かった。
あれから母からの連絡がない。すぐ出られるよう電話を握りしめていたが、もう二度と繋がらないような気がする。その不安も拍車をかけた。
それにあまりにも静かだった。
あの男はもう逃げたのではないか。そう思えてならない。一人逃がしてしまったかもしれないのに、いつまでも殺人現場に留まっている犯罪者などいないだろう。通報されれば自分の身が危うくなるのだから。
でも実際、文也はまだこんなところに閉じこもったままで何もアクションは起こせていなかった。
いやきっとお母さんが何とかしてくれている。
そう思うと勇気が出た。
絶対出るなと言われていたが、盾にしていたモップやホースなどを一つずつ脇に退け、文也はゆっくり立ち上がった。
携帯電話をポケットに戻し、大きく伸びをすると手足や腰のこわばりが解けて気持ちよかった。
ドアを少し開けそっと気配を窺い、用具入れを出る。
トイレにも廊下にも照明が点いているのになぜか海の中のように薄暗く、魚市場のにおいを濃くしたような臭気があたりに充満していた。
びちゃり。
タイルに溜まった血を踏んでしまった。廊下から排水口に向かって多量に流れ込んでいる。
避けようにも避けられない血溜まりを踏みながら入口に辿り着く。目の前の廊下には真っ赤に染まった死体がいくつも転がっていた。込み上げる吐き気を押さえ、頭を出して左右を確認する。
血の川になった廊下には右にも左にも死体が転がっていた。人型を留めているものがほとんどなく、解体されたマネキンのように見えた。
やはり逃走したのかここに男の姿はない。だが油断してはだめだ。潜んでいるだけかもしれない。
一瞬ためらったが早くこの建物から逃げ出したくて文也は思い切って一歩を踏み出した。
脂の浮いた血の川には様々な死体が横たわっていた。
河津のように頭を割られた女子生徒。それに重なった首の千切れかけた男子。顔が縦半分ないものや口の上から横半分ないもの、腹を裂かれたものからは内臓が飛び出し、腕や脚を断ち切られたもの、さらに耳や五指の細かいものまでばらばらに散乱していた。
吐き気がこみ上げて文也は口を押さえた。見たくはなかったが目を閉じて移動はできない。文也は靴底のぬめりに怖気をふるいながら血の川を階段に向かってゆっくり進んだ。
柔らかいものを踏みつけ思わず悲鳴を上げそうになった。足の下の血溜まりに薄くなった顔が沈んでいる。その顔の持ち主が削ぎ落された顔面から血の糸をぶら下げて壁にもたれていた。
階段にも死体が折り重なり、千切れたパーツが散乱していた。血が滝のように落ちていたが、すでに流れはねっとりと止まっている。
転がっている眼球を踏まないよう一段目に足を降ろした。
白い壁にも手すりにも血飛沫が飛び散り、滑り落ちないようにつかんだ手が真っ赤に染まった。歯を食いしばり叫び出したい衝動を抑えて一歩一歩注意深く階段を下りる。
二階の廊下にも無残な死体が累々と転がっていた。
それを横目で通り過ぎ、文也は黙々と一階を目指す。
やがて最後の段になり、血溜まりの中へ足を降ろす。
一階のトイレの前には血塗れの同級生十数人が倒れていた。上の階と同じく人の形を留めた死体は一つもなく、宮島かどうか確かめたくても怖くてできない。
きっと宮島は逃げてどこかに隠れている。
そう信じて文也は左に曲がり玄関のほうに向かった。
事務室の前では河津が仰向けに倒れたままだった。額の真ん中がぱっくりと割れイケメンの見る影もない。見開かれた白濁した瞳が宙を見つめている。
文也は耐えられずに目を背けた。
そのため気付かなかった。
河津の濁った眼球が文也の動きを追っていることに――