第三章4
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祐子は薄暗い路地から塾のある大通りへと出た。色とりどりに輝いているネオンや行き交う車のヘッドライトが眩しい。
大通りにはたくさんの車も人通りもあった。
ほら、やっぱりわたしの聞き間違いだったわ。こんなに賑やかじゃない。いったい何をどう聞き違えたのかしら。
祐子は文也に呼びかけた。が、返事はない。
さっきから何度も呼び掛けていたが、ずっと応答がなかった。ノイズが聞こえているので通信が切れているわけではなさそうだ。
赤色灯の反射する北尾塾の外壁が見えた。歩道の街路樹の脇に所在無げな姿で健夫が立っている。路肩にはパトカーが一台止まっているだけで緊迫した様子はなく、祐子はとりあえず安心した。
「あなたっ、文也は?」
祐子は自転車のスタンドを立てながら訊いた。
「今、中を調べてくれてるよ」
靴音を立てて二人の警官が玄関の階段を下りてくる。
「あ、お巡りさんどうでした?」
健夫が尋ねた。
「お母さんが通報されてきたようなことはまったく起きてないんですが――」
二人の警官は顔を見合わせ、困惑の表情で北尾塾を振り返る。
「ですが?」
聞き返す健夫の表情が曇り始めた。
「その――誰もいないんですよ。先生や事務員の方たちも生徒さんも」
「誰もいない?」
「きょうはどこか別の場所に移動するとか、言ってなかったですか?」
腑に落ちない表情を浮かべた警官たちは健夫を通り越して、祐子を見た。
「そんな予定は聞いてません。
で、どうなんですか? 本当に殺人事件は起きてないんですか? 電話で文也が言ったんです。塾に男が侵入してきて先生や友達を襲っているって」
「うーん。おかしいな――さっきも言いましたけど、そんな事件があったようにはとても見えないんですよね」
大通りを走る車のヘッドライトが二人の警官の端正な顔を照らしては過ぎていく。
「でも確かに言ったんです。鉈で頭が割られるのを見たって――」
恐怖で堪えきれず祐子は喉を詰まらせた。
我が子の見たものがどんなに恐ろしいものなのか、想像もできない。
「受付のスケジュール表で見たんですが、きょう塾長さんは出張らしくて、一度そこに連絡を取ってみます。
お父さん、お母さん、もうしばらくお待ち下さい」
そう言うと二人の警官はパトカーのほうへと移動し、無線で報告を始めた。
それを眺めながら祐子は北尾の顔を思い浮かべた。丸顔の人の良さそうな塾長はいつもにこやかに微笑んでいるような人だった。
「大丈夫だよ。何にも心配いらないよ」
健夫が祐子の肩を抱き寄せる。
何の根拠があってそんなことを言うのか。
祐子は苛立ち、肩に置かれた手を振り払いたい衝動に駆られた。だが健夫は文也の声を直接聞いていないのだから仕方ない。それに自分を不安にさせない思いやりなのだともわかっている。不安でたまらないのは健夫も一緒なのだ。
手の中にあった携帯電話から微かな声が聞こえていることに気付いた祐子は慌てて電話に出た。
「文也っ」
叫ぶ祐子の手から健夫が電話を取り上げる。
「文也っ、どうした何があった」
その声に警官たちが振り向いた。
祐子は息子の名を何度も呼び叫んでいる健夫から電話を奪い返し、自分もその名を呼んだ。
だが、母に助けを求める文也の絶叫が聞こえ、その凄まじさに祐子の膝が我慢できずにくずおれる。
健夫が再度、祐子の手から携帯をもぎ取ったが「切れてる――」と言って項垂れた。
駆け寄ってきた警官たちも代わる代わる電話を確認してみたものの首を横に振るだけだった。
「お母さん助けてって、あの子が、お母さん助けてって――文也ぁぁどこに行ったのぉ――」
警官から返された携帯電話からは、ツーツーという音が鳴り続けるだけで、ノイズも風の吹く音ももう聞こえず、二度と文也に繋がらないのだとなぜか祐子にはわかった。
携帯電話が手からすべり、石畳の上に音を立てて落ちた。それを拾うこともせず祐子は北尾塾を見上げる。
蛍光灯が玄関や廊下を白々しく照らしていたが、どんなに目を凝らしても、そこには誰もいなかった。




