狭間の町 広陵
3
今、僕たちの目の前に見たことの無い光景が広がっていた。
少し高い位置に出た僕らはその光景を一望できた。
向こうが見えないくらいの大きい空間、最初に目に飛び込んできたのは幅の広い道、この空間を縦断するように、長い道が通っている。その真ん中付近に、黒い花畑が大きく広がっている。
花畑と言えば鮮やかできれいな色の花畑を想像するけど、この花畑は真っ黒。太陽の光をすべて吸収してしまいそうな黒一色の花畑、遠目で見ても、見たことの無い花が一面に咲いている。
その花畑の周りに、漆喰を塗ったような、白いドーム状の建物が花畑を等間隔に囲むように建てられている、その間を人が行き来しているのが見える。
白いドーム状の建物はこの町の家みたいだ、そう、ここは町にしか見えない、入口のおじいさんが言っていた町とは、ここのことか。
僕は、ほっとした、人がいれば帰り方を聞いて帰れる。
横にいるサキを振り返ると、サキは上を見ていた。
この町を囲む壁が、空まで届きそうなくらいに高い。その空が細長く稲妻のように見えている、おそらくここは地表の割れ目の底にある町なのか、その割れ目から差し込む、わずかな光がこの町を照らしている。
それより僕の眼を疑ったのが、空中に浮かぶ丸い球、下にはドーム状の家があるけど、その家を掘り起こし空中に浮かべたみたいな、でも、もし家ならどうやって入るんだろう、と思っていたら中から人が出てきた、その人は迷うことなく、入口を出て空中に一歩踏み出し、入口のすぐ前にある、透明の円盤の上に乗った。その円盤が音もなく下まで降りてきた、その人が地面に降りると、また、音もなく戻って行った。
「こんな所に、人が住んでるんだね」サキがぽつりと呟いた。
サキの声のトーンに危機感を感じた僕は、あわててサキの顔を確認する。
楽しそうに微笑み、眼がキラキラしている。
「サキ、楽しそうなとこ、何だけど、まずは帰り道を……」
「そうね……まずは、帰り道を聞きましょう。まずは」
やっぱり、この光景を目の前にじっとしている訳ないよな。
僕たちはすぐにでも帰れるだろう。帰り道を聞けば。それならこの町を散策してもいいだろうと思いながら、町を縦断する道を目指して降りて行った。
道を歩きながら、誰かに声をかけようと周りを見渡しあることに気付いた。
ここの人たちの服装が何か違うような感じがする。
町の中なのに剣を装備している人たち。僕らが住んでいるサークルタウンでは、町中で剣を装備することは禁止されている、剣の装備が許されているのは、遠征隊、守備隊だけで、拡張隊の人達が、木を切りに町を出るときでも、剣を荷物として持って行き、町を出る直前で装備している。
でもここの人たちは剣や槍、斧やこん棒、僕の見たことの無い武器など、様々な武器を装備している、防具も盾や鎧、革の胸当を付けている人、上半身裸で自分の肉体こそが最強の防具とアピールしてる人、まさに今から戦いに行くような、武装している人たちが、この町を縦断する道の右側に比較的多く見られる。
道の左側の人達は、向こう側の人たちと比べると全く無防備な服装、大きな布をきれいに体に巻きつけたような、色とりどりの僧衣を着ている、手には何も持たず、胸の前で片手を立て、拝むような姿勢で静かに歩く人。両手を合わせている人、座禅を組み、瞑想している人、何処からか、お経を唱える声も聞こえる。何処から見ても僧侶にしか見えない人たち。
男の人と女の人で分かれているのかと思ったけど、そうでもないみたいだ、両側とも男の人も女の人もいる。道を挟んで別世界みたいに見える。
僕とサキは今、学校指定の制服を着ているんだけど、こんな普通の服を着ている人は見かけない。
この町には、武装している人か、僧侶の人しかいない、僕たちに近づいてくる、きれいな女の人もショートソードを装備し、左手には手の甲から肘まである小手を付けている。
……えっ、近づいてくる……
僕はサキの前に出ていつでも木剣を出せる準備をした。
まさかいきなり斬りかかってこないとは、思うけど。
女の人が剣の届く距離まで近づいてきた、僕はその人から目をそらさず、その人の動きに警戒した。
近くで見ても、きれいな女の人、の一言でその容姿を表現してしまいそうな女の人、女の人と言っても年齢は僕たちと同じぐらいじゃないかと思う。
精悍な顔立ちに女性のやさしさを感じる唇、肩までのびる茶色がかった髪の毛がそよ風にゆれている、引きしまったボディーラインに溶け込むように、装飾されたショートソードのグリップが輝いている、膝上まであるロングブーツを履き、非の打ちどころの無い、女剣士。
その人のどこか寂しい眼差しから、眼が離せなかった。
「おまえたち、人間か」
ぶっきらぼうな、でも大人びた落ち着きのある声で、よくわからない質問をされた。
今、この人、僕たちに人間か、って聞いてきた? 僕は自分に質問をしていた。
「あなた失礼ね、突然、人間か、ってどうゆうこと」
サキが僕の代わりに質問してくれたのはいいけど。
「あ、すまない、あたしは、奈良飛鳥、人間よ」
「私は、天野沙祈、で、こっちがアキラ、私たちは、その、人間だけど。人間か、って、どうゆうこと」
「……おまえたち、やはりここに来たばかりか。なにも知らないんだな」
「私たちあのトンネルから出て来たんだけど、帰り方が分からなくて。あのトンネルなんか変だから。町の人に帰り方を聞こうと思って。あなた何か知らない」
「おまえたち……鬼迷宮から来たのか……まさか」
奈良飛鳥と名乗った人は、眼と口を大きく開け、信じられないといった表情をしている。
今、鬼迷宮と言った、きは、鬼か、そして迷宮……鬼の迷宮?人鬼岩となにか関係があるのか、でもあれは僕たちが付けた名前。
「でも、おまえたち、あの中は真っ暗闇だろう、その中を通って来たのか」
「いや、僕たちの周りは足元が見えるくらい、明るかったけどな」
僕は中のことを、奈良飛鳥と名乗った人に説明した、ゴツゴツしたトンネル内、だけど歩きやすい道。光があり、道が変わることも。
「まさか……いや、でも……おまえたち、鬼迷宮の中が明るいと言ったな、それが本当なら帰れるかもしれない」
僕は、その言い方に驚き、聞いてみた。
「帰れる方法って、もしかして、奈良さんも帰る……」
「アスカでいい」
「それじゃ、アスカも帰る方法を探しているのか?」
「いや、あたしは……わからない」
「じゃ、アスっと、私もアスカって呼んでいい? 私はサキって呼んで、で、こっちが、あんた」
サキは僕に指を差しながらそう言った。
「あんたは、ないだろ、アキラだ」
「どっちでもいいわ」
「どっちでもいいのかよ!」
サキはクスッと笑い、アスカは笑いをこらえている。その仕草を見て、僕は木剣を持つ手を離し肩の力を抜いた、どうやら危険はなさそうだ。
「アスカはどこから来たの」
アスカは、上を指差しながら。
「あそこからきた」
そう言われて僕は、アスカの指差す方向を見た。そこに見えるのは、地表の割れ目から見える空、しか無いんだけど。
「えっーまさか、あそこから落ちたの?」
サキが、裏返った声を上げた。
アスカは静かに頷いた。
「何で、何で落ちたの」
アスカは手を振りながら。
「そのことはいい、おまえたちが、あの中から出てきた。そこには光があった。もしかしたら帰れるかも知れない。弥勒菩薩様に聞けば分かる」
「……」
サキの眼が点になっている。
「えっ、弥勒菩薩って、あの、仏像の?」
サキが異常なほど驚いている、みろくぼさつ、と言う人を僕は知らないんだけど。
「本当にいるの、菩薩様って、実在する人なの……そういえば、お母さんが言ってた、『人仏の人たちは、ちゃんと見ているからしっかりお祈りしなさい』って、あっ、人仏って、人に仏って書くんだって。あれは私に、お祈りをさぼらせないようにするためだと……」
さきは、過去の記憶を思い出しているみたいだ。人物、じゃなくて人仏、そんなの聞いたことないぞ。……人仏……!
僕はとっさに道の左側を見た、僧衣を着、静かに歩く人たちを。
「アキラが今、見ている人たちが人仏だ。右側にいる人たちが獄人。獄人と言うのは地獄の人。なんだ、サキは知っていたのか、あたしは口にできないくらい驚いたぞ。この町は人仏と獄人が共に暮らす、狭間の町、広陵」
いやいや、サキも口にできないほど驚いているぞ。眼と口、鼻の穴まで大きく開けて、サキのこんな顔のほうに僕は驚いた。人仏と獄人にも驚いたが、トンネルを抜け、この町に浮かぶ丸い家を見たときに、心の準備をしていた。今は自分の眼で見たことを信じるしかない。
「とにかく菩薩様の所まで案内しよう、ついてこい」
そう言って、アスカは振り向き、歩きだした。僕たちはアスカに付いて行った。
アスカは歩きながら、人仏と、獄人について話してくれた。
人仏は、戦うことはせず、祈ることで悟りを開き、如来。阿弥陀如来や薬師如来などになるための修行を日々行っている人。
獄人は、祈ることはせず、戦うことで人仏の人たちを守る守護仏。心を清めれば、四天王や十二神将のような天部の者。天の位を持つことが出来るらしい。
そして人間は、力は弱いが祈ることも、戦うこともできる。その目的は様々で時に、人間同士で戦うこともある。そんな人間たちに正しき道を指し示すのが、如来になった者の役目。
アスカの話をなんとか理解しようとしたけど、僕には少し難しすぎる。隣のサキに眼をやると、予備知識があるせいか、うん、うん、と頷いて理解してるみたいだ。
僕はもう一度あたりをみまわしてみる。祈る人と戦う人か。
僕たちはきょろきょろしながらアスカに付いて歩くと、さっき見た黒い花畑にたどり着いた。
目の前に黒い花畑が広がっている。
僕たちは今、この町の中心付近にいるのか。近くで黒い花を見ると。黒い花びらの間に透明の花びらが、しおれているように垂れ下がっている。
「アキラ見て、黒い花、こんな花、見たことないね」
「光集花と言うんだ」
花を見ているサキの後ろからアスカがそう言った。
「菩薩様は、この先だ、行くぞ」
アスカは再び歩き出そうと。
「あっ、まって!」
サキが声を上げ、何かに注目している。僕もサキの眼線を追いかけると、そこに見えたのは、ゆらゆらしている人魂。
僕は人魂について、ここに来た事を思い出す。
「あの人魂、何処に行くんだろうね」
サキは僕と同じことを考えていた。
「おまえたちも人魂が見えるのか」
アスカにも人魂が見えているみたいだ、今、人魂が獄人の近くをゆらゆらしているが、あの人たちには見えていないのか、気にも留めていない。もしかしたら見える人と見えない人がいるのか。そう思ったとき、僕の背後からお経を唱える声が、僕が振り返ると、数人の人仏が人魂に向かってお祈りをしている姿があった。あの人たちには見えている。そう言えばサキも、鬼迷宮と呼ばれたトンネルで祈ろうとしてたな。なぜ祈るんだ。
「あの人魂はね、迷ってるの、ほら、迷わず成仏してくださいって言うでしょ」
サキは、僕の心の声に答えるような、自分自身に言い聞かせるように呟いている。
「だから私、祈ってあげたいの、祈ることで人魂は、あの人たちは、迷わず成仏できるから。行ってみましょう」
相変わらずサキには迷いがない、思い立ったらすぐ行動。サッと、人魂の方へ歩き出した。
「まっ、まて、サキどこに行くんだ」
アスカはサキを止めようと手を出したけど、サキはその手をすり抜けながら。
「すこしだけ、ちらっと、見るだけだから」
サキは人魂に向かって駈け出した。僕も慌てて、後を追いかける、後ろで小さくため息をつきながらアスカも来るのを感じた。
人魂に追いつき走るのをやめ、歩き出した。
獄人たちの間を歩いているとその人たちの目線を感じる、あまりにも怖い顔の人たちが多い獄人の人たち。
僕は怖くて、眼を合わせることが出来なかった。
前を行くサキは堂々と歩き、後ろを行くアスカは一言二言交わしながら悠然と歩いている。
人魂に付いて歩くと、この町を囲む絶壁のはるか高い壁にたどり着いた、上を見上げると壁が倒れて来るんじゃないかと恐怖を感じる。
その遥か先にある空が遠い……人魂は壁の前で、止まり、ゆらゆらしている。すると、その壁に吸い込まれるように人魂が、消えていった。
「あっ!」と声をもらし、サキは壁に向かって慌てて手を合わせた。その手がかすかに光を帯びている。
「なんだ、サキの手が光っているぞ」
アスカが驚きの声を上げた。
「そうなんだ、サキが手を合わせると手が光るんだ、すごいだろ」
なにが凄いのか分からないが、僕は自分の事のように自慢した。
サキがまだ光の残る手で、人魂の消えた壁に手を伸ばした。
その手が壁に触れた途端。そこにあるはずの壁が消え、一人が入れるくらいの穴が現れた。
サキは思いつめた眼で、僕とアスカを交互に見る。僕は小さく頷き。
「入るんだろ」と言った。またトンネルかと思いながら。
サキは深刻な顔で、大きく頷いた。
僕たちは一列になりその中に入って行った。僕はサキに、もし分かれ道があったらその時は戻るぞ、と念を押した。
まっすぐ立っても頭は当たらないが、少し頭を下げ、僕が先頭に入って行く、サキが続き、その後ろをショートソードに手をかけたアスカも続く。
トンネルを少し進んだけど分かれ道はなかった。鬼迷宮のように道が変わるかと思ったけど大丈夫みたいだ。
そして、少し開けた場所に出た、僕たちが剣の稽古をする、武道館かそれよりもすこし狭いくらいの空間。足元には二本足の人の形や、四本足の動物の形をした置きものが無造作に、この空間一面に置かれているのが見える……ここは地下の空間のはず、なぜ見えるんだ。僕はそう思い天井に目をやる。
この空間の天井一面がゆらゆらと、光り輝いている。ゆらゆら、と、僕は眼を凝らしてよくみる、この光の正体は人魂か!
数え切れないほどの人魂の光があたりを照らしている。
僕の横にいる、サキを見ると両手で口を押さえている、向こう側のアスカは茫然とその光景を見ている。
「ここは、何だ」
僕はアスカに聞いてみた。
「あたしにも分からない。ただ、足元にある人形は、邪象か」
「邪象ってなんだ」
僕はアスカに詰めよった。サキの様子がおかしい天井を見つめ、震える手で顔を覆っている。
「恨みを持つ人魂が邪象に取り込まれ恨みを晴らすために邪鬼になる」
「邪鬼って何だ!」
「しっ!何か来るぞ」
アスカに促されサキを引っ張り岩陰に身を隠した。
「集まりし、さまよう者どもよ」
どこからか、声が聞こえてきた、この空間に響き渡る、悪意に満ちた声が。
この人魂に向かって言っているのか。
「おまえたちの、欲望、怒り、愚痴、そのすべての恨みを晴らすため力を欲する者どもよ。今、私がその思いを叶えてやろう。邪象に入りその恨みを晴らしてまいれ。おまえたちを殺した者どもに報いを」
―ノウマク・サンマンダ・ボダナン・ラタンラタト・バラン・タン―
その声は聞いたことの無い言葉で何か呪文を唱えだした。空中に漂っていた人魂は音もなく降りてきて、無造作に置かれている邪象の中へ吸い込まれるように消えて行く。
魂を吸い込んだ邪象の形が変わりだした、足元にあったはずの、人型の置きものが、みるみる大きくなり、僕たちと同じくらい、中にはそれよりも大きくなっている。
背中が丸く顎を突き出し、手足が異様に長い、どす黒い土のような表面には、あちこちにひびが入り今にも崩れそうな体に見える。その黒い体に殺意を感じる真っ赤な眼だけは鈍い輝きを放っている、口は大きく割れ中から牙が覗いている。
動物型の邪象も大きくなり、威嚇しているように背中を高く丸めている。四本足の体は、同じく、どす黒く全身にひびか入り赤い眼をしている、口を大きく開け、人型の倍はありそうな牙が見えている、狼のようにも犬のようにも見える……犬!……僕たちを襲った犬か?
……デビジャ。邪鬼はデビジャ……なのか。
「あなた!何をしているの!」
サキが大声を出した、その両手は色が変わるほど強く握りしめられ、怒りで震えている。
「「サキ!」」
「おやおや、そこにいるのは人間か、何をしているだと、貴様たちが殺した者たちに力を与えているのだよ。貴様ら人間が殺し合い死んだ者、その巻き添えで死んだ者、誰でもよかったと言ってまた殺す。その結果がこれだ、死した者の魂は転生の地へ行かず、恨みを晴らすためにこの世をさまよいまた人間を殺す、人間同士殺し合えばいい。殺し合うために生きるのだろう」
サキは両手を握りしめ、見えない相手に向かって大声で叫んだ。
「そんなことない! 人々は過ちを正し自分達が平和に暮らせるように頑張っている。今、自分達の周りで何が起こっているのか。今、自分達には何が出来るのかを模索し。みんな必死で生きている。みんな殺し合うために生きてるんじゃない!」
サキの顔が真っ赤になっている、瞳を濡らし何か言い返す言葉をさがしているみたいだ。
僕は何も言えなかった。サキの横に寄り添うことしか出来なかった。
「ハッハッ そう、自分達人間は、間違っていないと言う。自分が平和に暮らせるように。自分が幸せになるようにと。そう、自分がだ! 自分以外の者はどうなる。今ここにいる者たちは。なぜこの場所にいる。なぜ死んだ。人間たちが殺し合いたいのなら私が力をかそう。人間達が望む、欲望、怒り、愚痴、煩悩をむきだしに殺し合う世界を作ってやろうではないか。ここにいる邪鬼と共に。素晴らしい世界になるぞ。今生まれた邪鬼どもと、地獄以上の素晴らしい世界を作ろうではないか」
サキが全身を震わせている。今にもこぼれそうなほどの涙を浮かべて。
「ちがう、ちがう、そんな事無い。なぜ……なぜこの人たちは天国に行かないの! 死んだ人たちの魂は、天国に行くんじゃないの!なぜここにいるの。なぜ、成仏しないの」
大粒の涙がサキのほほを濡らしている。
「ハッ!それもまた、貴様ら人間たちが望んでいるのではないか」
「なっ!」
「貴様ら人間は死者のために祈ってやったか、転生の地へ行く道を示してやったか、貴様らはその祈りすら忘れ、ただ、自分が平和せになるために生きている。死者のことはどうでもいいのだろ、自分だけが幸せになればそれでいい……それでは奴等が可愛そうではないか。死に値するのは貴様ら生きている人間ではないのか!」
サキは涙を拭いながら顔を上げた、その眼は力強く輝いている。
「私が! 私が祈ります。今、ここで、この人たちの為に」
サキはそう言って両手を合わせ、眼を閉じる。やさしさを感じる、透き通った声でお経を唱え出した。毎朝祈っている阿弥陀佛を『南無阿弥陀仏』と。
サキの手がかすかに光を帯び、サキの周りだけが稟とした空間になったように感じる。
僕はお経を知らないけど、サキの横で同じように手を合わせる。その向こうでアスカも手を合わせている。
「ハッハッハ何をするのかと思えば、無駄なことを。阿弥陀の力も借りずに成仏させることなど出来るものか。何も知らぬ人間どもよ、貴様たちも、ここで死に、こやつらの仲間になるか、いや。貴様らは、この世の地獄を見て、死ぬがいい。ハッハッハ」
何か、何か出来ることはないのか。横で手を合わせ、お経を唱え続けいるサキを横目に、あたりを見回す。
鞄の上にある木剣が目に入った……あいつを倒せたら……僕は木剣に手をかけた。この木剣であいつを倒せるとは思ってない。だけど何かをしなければ、何も始まらない。今僕に出来ること、サキのために、行き場を見失ったこの人達のため。それが無駄に終わっても。
まだ唱え続けるサキの横で。僕も諦めないぞ。
僕は声の出所を探った、声は聞こえるが、姿は見えない。かまわない、声のする方に飛び込んでやる。
「目障りな奴らめ、今ここで死を選ぶか」
―あそこか―
僕は手に力を込め、今まさに飛び出そうとした。そのとき、アスカが僕の襟首をつかみ、それを止めた。もう一方の手でサキの手を引いている。
「アスカ!」
サキの大きな、赤く充血した眼が、見えない声の主を凝視している。
僕は歯を強く食いしばり、木剣をつかむ手に力を入れた。
「アスカ!離せ!」
「まちなさい!」
アスカの手が震えている。僕と同じ気持ちなのか。アスカもこらえているのか。
「あたしも、こんなことになっているとは 知らなかった。今飛び出しても無駄に死ぬだけだ。あたしは死ぬのは怖くないが、無駄には死にたくない。菩薩様に話を聞こう、どうすればいいのか、それからでもいいだろう」
アスカの言うとおりだった。僕は、僕たちは何も知らなすぎる。ここがどこで、人仏に獄人そして人間、魂があり邪鬼になる、転生の地とは、阿弥陀の祈り。サキの光。どうすればいいのかも分からない。今飛び出してもアスカの言うとおり無駄に死ぬだけか。
アスカに引かれて僕たちはその場を後にする。今はそうするしかない。まずは知ることから始めなければ。背後からまだあの声が聞こえる。サキはまだ祈り続けようと手を合わせている。
「サキ、今は菩薩様の所に行こう」
サキは小さく頷き、アスカを先頭に僕たちはその場を後にした。
迷うことなく町に出て黒い花畑を通りすぎるとき、サキが呟いた。
「どうすればいいの」
サキの声に力はなく、絞り出すようなよわよわしい声を出した。
「菩薩様に会ってから考えよう」
アスカがやさしく声をかけた。
僕たちはしばらく無言で歩いた。町の人たちは普段どおりの生活をしているみたいだ。