第1章・1
《主な登場人物》
紅莉=リエラ=シュヴァルツヴァルグ……主人公の少女。16歳。シュヴァルツヴァルグ王国の王女。現在の王位継承者。
ユリス=カイ……紅莉付きの騎士である少年。15歳。代々優秀な騎士を輩出してきたカイ家の一人息子。
凪=コーラル……玲音の側近く仕える、王国の有力貴族の嫡男。18歳。双子の弟の嵐とともに双頭の獅子と称される。
嵐=コーラル……玲音の側近く仕える、王国の有力貴族の嫡男。18歳。双子の兄の凪とともに双頭の獅子と称される。
ヒイラギ……シュヴァルツヴァルグ王国の賢者。妙齢。男性であるが、美しい容姿を持つ。
玲音……シュヴァルツヴァルグ王国の王子。18歳。紅莉の兄であり王位継承権を持っていたが、ある日突然返上し城の一角にある塔に引きこもる。
城の一角にあるガラス張りの円形の建物は、紅莉のお気に入りの場所だった。世界中のありとあらゆる植物が育つこの温室は、日当たりのよい城の南側に面している。温室を管轄しているのは、シュヴァルツヴァルグ王国随一の頭脳を持ち、国王の補佐として手腕をふるう賢者ヒイラギだった。
国の中心に据えられている王都の周辺では決して野生していない、甘い香りを放つ桃色の大輪の花を見つめながら、王国の第一王女、紅莉はぼんやりと考えごとをしていた。
事の発端は、王国の第一王子であり、実の兄でもある玲音が突然王位継承権を破棄したことだった。王に子は二人しかなく、四つ上の兄の次に王位継承権を持つのは紅莉だ。当然、次代の王座は紅莉のものとなる。ほんの一か月前、そのようになってしまったのだ。
驚くべきことに、城の重臣たちは誰一人反対することはなかった。紅莉が目を白黒させているうちに淡々と時は流れ、事が運ばれ、いつの間にか国を継ぐ者は正式に紅莉ということになっていた。
漠然とするばかりで、今まで将来を意識することがなかった紅莉にとって、突きつけられた現実はあまりに重いものだった。いつかどこかに嫁いで国を出ていかなければならないとは思っていたため、母国に留まれることは嬉しい。だが、一国を背負う覚悟もなければ度胸もない。
紅莉の母国であるシュヴァルツヴァルグ王国は、この辺りではもっとも大きく、また繁栄している大国だ。王はよくも悪くも堅実、そして誠実であったため、側室として召し抱えられた女は誰一人としてなく、正妻との間にもうけたたった二人だけの兄妹が唯一の直系の子らであった。王には弟が一人、妹が三人いたが、弟に子はなく、妹たちは皆海を渡った彼方の国々にそれぞれ嫁いでしまっていた。
桃色の花をつついて芳しい香りを指先に遊ばせながら、紅莉は花壇の向こうにある噴水に視線を泳がせた。天井のガラスを通して入ってくる陽光はあたたかく清浄で、飛沫のかたわらに七色の小さな橋を作る。一つため息をつくと、それに応えたように雲が太陽を覆い、たちまち虹は消えてしまった。
「姫、こちらへいらっしゃいませんか。お茶の用意をいたしました」
背後から声をかけられ、紅莉は花壇の前で小さく折りたたんでいた体を伸ばした。
振り返ると、温室の中にあるあずまやで手を振っている人影があった。頭から爪先までをすっぽり覆う濃紺のローブを纏い、どこか憂いを感じさせる菫色の瞳の細面に笑みを浮かべている妙齢の男――温室を管理する賢者ヒイラギその人だった。
あずまやに足を運ぶと、一帯に心和らぐハーブの香りが漂っていた。ヒイラギ特製の、この温室で育てたハーブを使ったブレンドティーだ。
「今日は姫の好きなカモミールが入っていますよ。風味づけにミントも少し入れてみました。ミルクを入れるとまた違った……」
人さし指をくるくる回しながら解説していたヒイラギは、沈んだ面持ちでいる紅莉を見て言葉を切った。紅莉の小さな手を取って、クッションを敷きつめた椅子に座らせると、目線を合わせてほほ笑みかける。
「どうかそんなお顔をなさらないでください。わたくしも温室の植物たちも皆悲しくなってしまいます」
ふと紅莉は思考の海の底から浮き上がると、たちまち顔を真っ赤にした。
「ごめんなさい」
ヒイラギの鮮やかで深い菫色の瞳に見つめられると、いつも恥ずかしくなって顔を上げていられなくなる。ヒイラギはくすりと声をもらし、首を横に振った。
「姫が抱えている悩みは大きく、重いものであることはわたくしも理解しております。だからこそ、どうかこの一時だけはお忘れいただきたいのです。姫の笑顔は、この温室にとってかけがえのない太陽なのですから」
そして、少しいたずらっぽく片目をつむってみせる。
「もちろん、わたくしにとっても」
紅莉は目をぱちくりさせ、それからくすぐったい気持になって、ほほ笑んでみせた。紅莉の様子をまぶしそうに目を細めながら見つめてから、ヒイラギはお茶の用意を再開した。
「とってもいい香り」
胸いっぱいにハーブの香りを吸って、紅莉は満足感に浸りながら息を吐き出した。さし出されたティーカップを受け取ると、淡い緑色のハーブティーが湯気を立てていた。雲間から射しこんだ太陽の光がカップの中に注がれ、いっそう美しい緑となって輝く。一口含むと、カモミールの味がいっぱいに広がった。
「いかがですか」
「とってもおいしいです。ヒイラギさんのお茶をいただくと、いつも元気になれます」
「それはよかった」
ヒイラギは紅莉の向かいの簡素な椅子に腰かけると、自らもお茶をすすった。ローブのふちからのぞく長い睫毛を見つめながら、紅莉は頬を膨らませる。
「ヒイラギさん、約束しましたよね。わたしとお茶を飲むときはフードを外してくださるって」
カップを傾けていた手をはたと止め、ヒイラギは少々困ったようにテーブルにカップを置いた。
「しかし、何度もご説明さしあげましたが、これはわたくしの正規の装いで――」
「約束は約束です。賢者ともあろうおかたが、約束を違えるのですか」
ヒイラギの言葉など取りあわず、紅莉はそっぽを向いてあごを上げた。ヒイラギは仕方がない、とでもいうようにため息をついたが、表情はどこか嬉しそうでもある。
「敵いませんね。姫の仰せとあらば」
上等なビロードの生地でできたフードに手をかけ、ぐっと一気に後ろへ引く。
日の下にあらわになったのは、細くしなやかな、絹糸を思わせる銀色の髪だった。照り返る真白い輪はまるで天使のそれのようで、見る者の目を一瞬で奪ってしまうほどだ。後ろ髪を一つに束ねている金細工の髪留めは見栄えよく、銀髪と互いを引き立て合っていた。ローブに隠れていて毛先は見えなかったが、紅莉は彼の髪の毛が腰まで達していることを知っていた。以前にたった一度だけ、賢者がローブを脱ぎ捨てた姿を目撃したからだった。