花火のように
ある春休みの朝。
来年度から高校2年生になる僕は、携帯の着信音で目を覚ました。
この着信音、メールじゃなくて電話か……そう思いながら、枕元に置いてあった携帯を手に取る。
「一体誰だ、こんな朝早くに……」
自分でも分かるくらい不満げにそう呟きつつ、、寝ぼけ眼でディスプレイを見た。
しかし。そこに表示されていた名前を見て瞬間、眠気なんて吹き飛んでしまった。
なぜなら。
そこに表示されていたのは……半年ぶりに見た、ある少女の名前だったからだ。
僕がその少女に出会ったのは、夏休みのある一日のことだった。
図書館で本を読むのにもなんだか飽きてしまって、僕は街を散歩していた。
時刻は夕方。日が沈み始めてはいるものの充分に明るい、そんな時間だったと思う。
ちなみに散歩といっても、決まったコースがあるわけじゃない。
この散歩は、僕にとっては気まぐれな時間つぶしの手段でしかなかったのだから。
そんなわけで、僕は風の向くまま気の向くままに、街を歩き回っていた。
そして、高台の上にある公園を通り過ぎようとした時に。
僕は、その少女を見つけた。
ひと目見た瞬間に、目を奪われていたと思う。
その少女はベンチに腰掛けて、スケッチブックに絵を描いていた。
身体つきは華奢、という表現が一番しっくりくるだろう。
鉛筆を握る手も、それを動かす腕も、一瞬肉が付いていないと錯覚してしまうくらいに細い。
その肌が純白のワンピースを着ているにも関わらずなお白く見えるほどに色白、というのもそう錯覚した要因だと思う。
正直、ちょっと薄気味悪いくらいに色素というものが欠落しているように見えた。
ちょっと目を離したら煙のように消えてしまうのではないか、そんな印象すら受けた。
だが、そんあ印象は彼女の目を見た瞬間、かき消された。
少女の目は、そんな身体つきに似合わないくらいに力強かった。
とても意志というものが明確に宿っていて……見ているだけで、必死さが伝わってくる気がする瞳だった。
「ねえ……何を描いているの?」
気付くと僕は、その少女に声を掛けていた。
今考えてみると、それは当時の僕にとってはおかしな行動だった。
当時の僕は、平凡で無難な人生こそが至高だと信じていたからだ。
だから勉強もあまり熱心にせず、一学期の期末試験でも平均よりちょっと上くらいの点数に甘んじた。
クラスメートとの付き合いも、とにかく敵を作らないように振舞った。
だから当時は、クラスメートたちは僕を無視するわけではないが積極的に何かに誘ったりもしない……そんな関係になっていた。
まあ夏休みもそんな関係が続いてしまったために誰からも誘われず、毎日図書館に通って時間を潰す、そんな日々を送ることになったわけだが……まあそれは、今はどうでもいいか。
とにかく、そんな風に『平凡』を望んでいた僕が、明らかに『非凡』な少女に声を掛けたというのは……当時の僕にとって、かなりブレたことだと言えるのだ。
正直声を掛けた直後に、なんでこんなことしちゃったんだろう、と後悔した。
せめて少女が無視してくれたなら、何も言わなかったことにして立ち去れるのに……。
そんな無責任なことまで願ったぐらいだ。
だがその少女は、僕の無責任な願いを一蹴できる程度には律儀だった。
「夕陽よ」
突然声を掛けたことに驚く様子もなく、少女はそう答える。
良く通る、澄んだ声だった。
だがこっちを向く様子は無い。僕は不思議に思いつつ、少女の視線を追った。
するとそこには。
今彼女が言った……今描いているらしい『もの』があった。
夕陽だった。
もちろん、それだけじゃない。
高台から見えるのは、僕が住んでいる街だ。
夕陽は、空と海のはざまに姿を隠しながら、街を赤に染めていた。
その赤は、どこか暖かみがあった。
これから訪れる夜の闇から、人々を包んで守ってくれる……そんな優しい光だと直感したくらいだ。
素直に、この風景を綺麗だと思った。
「……綺麗だね」
気付くと、僕は思った通りのことを口に出していた。
僕の呟きは少女の耳にはっきりと届いたらしく、少女は驚いたように僕の方を向く。
そして。
一瞬の間を置いてから。
「……ぷっ」
吹き出した。
瞬間、自分の顔が夕陽以上に真っ赤になったのが分かった。
少女が吹き出したのを見て、自分が何を言ったのかに気付かされたのだ。
あああああ、女の子の隣で『綺麗だね』なんて。僕はナンパでもしてるのか?
「あぁ、ごめんごめん、君がさらっと言ったのがなんか面白くってさ。でも、ここから見る夕陽は確かに綺麗だよ。私が題材に選ぶくらい……ね?」
僕が恥ずかしさで悶絶していることに気付いたらしく、少女は少し慌てた様子でフォローしてくれた。
そしてその言葉で、彼女が今まで絵を描いていたことも思い出す。
そのまま自然な流れで、僕は少女のスケッチブックを覗き込む。
スケッチブックに描かれていたのは鉛筆画だった。
ここから見た風景そのままの、街と夕陽の絵。
絵に関しては素人だけど、素直に巧いと思った。
実際は黒一色であるはずなのに、紙の上では夕陽が絶妙な濃淡の使い分けによって雄々しく、赤く光っている。
さらに街も夕陽に染まり、黄昏時の物悲しさが伝わってくるような気さえした。
「……よし、完成した。あとは仕上げ、っと」
彼女の言葉から察するに、それはちょうど今完成したようだった。
少女は仕上げと言いつつ、絵の右端にサインを書く。
「『仕上げ』?」
その言い回しがなんだか気になって、僕は聞き返す。
「うん。いろいろ描き込んできて、ようやく納得のいく絵に出来たから。だからこの絵は、これで完成。で、これは間違いなく完成した、って証として、私の名を刻んだの」
端っこにサインをすること。どうやらそれが彼女にとって本当の意味での仕上げ、らしい。
わかったような、わからないような……いまいち納得できず、僕が考え込んでいると。
「さて、せっかく私をナンパしてくれたんだし」
少女は画材を鞄に仕舞いながら、そんなことを言ってきた。
「……へ?」
少女の予想外の言葉に、僕は素っ頓狂な声で返事になっていない返事をする。
「だって今日は、この街の祭りの日じゃない。誘ってくれてるんでしょ?」
だが少女は、僕が戸惑っていることに気付く様子も無いまま、話を進めていた。
無邪気で、人懐っこい笑みを浮かべて。
「ああ……言われてみれば」
確かに今日は、地元の祭りの日だった気がする。
正直言われるまで忘れていた……のだが。
「もうそろそろ、屋台とかが店開きしてる頃だよね。行こっか!」
僕の相槌を肯定と取ったのか、少女は僕の腕を掴んで歩き出した。
かなりマイペースな子だ。
だが、少女の腕力は大して強いわけでもない。
振り払おうと思えば、簡単に振り払えたはずだった。
でも僕には、なぜかその手を払うことは出来なくて……それが『なぜか』分からないまま、屋台の並ぶ場所へと連れてこられていた。
「やっぱりいろんなお店があるね。何かする? それとも、何か食べる?」
嬉しそうな、しかし祭りのにぎやかな雰囲気に比べたら少々大人しく感じる声で、少女は僕にそう訊ねた。
……ここまで来たんだ、素直に付き合ってやった方が僕も楽しめるだろう。
少しだけ考えてからそう判断した僕は、近くにある屋台を見る。
「そうだね……射的でもやろうか」
そしてパッと目に付いたものを、候補として挙げた。
射的ならそこそこ得意、というのもあったのだ。
「うん、いいよ」
少女も割と乗り気なようで、返事をするのとほぼ同時くらいに、射的の屋台へと移動を始めていた。
その射的屋は、コルクの弾で景品を倒したらそれがもらえるという、オーソドックスなモノのようだった。
「おじさん、二人分」
なんとなく見栄を張って、僕は二人分の代金を屋台のおじさんに手渡す。
夏休みに入ってからは小遣いを使うことがほとんど無かったため、懐にはそこそこ余裕があったのだ。
「いいの? ありがとう!」
少女は嬉しそうに僕にお礼を言う。
その笑顔は無邪気で、なんだか微笑ましい。
ここまで素直に喜んでくれると、僕もおごったかいがあるというものだ。
ちょっと和やかな気持ちになりつつ、おじさんから銃を受け取る。
少女はまずは小手調べといった感じで、キャラメルの箱に狙いを付けていた。
「えいっ」
そしてやっぱり微笑ましい掛け声と共に、引き金を引く……が。
彼女の撃った弾は、箱の少し上を飛んでいってしまった。
「あー、あとちょっとだったのに」
悔しそうに少女が呟く。
よし、なら次は僕の番だ。
「こうやるんだよ」
僕は言いながら、彼女が狙っていたキャラメルの箱を撃つ。
弾は狙い通り箱の上部に当たり、キャラメルの箱は少し揺れてから手前に倒れた。
「ふーん、けっこう巧いんだね。あっちは落とせる?」
言いながら、少女は景品の一つを指す。
そこにあったのは、全長50cmくらいのウサギのぬいぐるみだった。
「どうだろう……やってみるよ」
正直、ちょっとコルク鉄砲で倒すには大きすぎると思う。
だが挑発された以上、退くのもシャクだ。
というわけで、僕は言われるままにぬいぐるみを撃った。
ぽんっ、という軽い音と共に、銃からコルクの弾が放たれる。
それは狙い通りぬいぐるみの首くらいの位置に当たった。
だが。
「あー、惜しい」
ぬいぐるみは少し揺れただけで、倒れなかった。
しかし今の揺れ具合から考えると、もうちょっと上の部分を狙えば、倒せる気がした。
だが、与えられた弾は一人当たり三発だ。
つまり僕の手持ちは後一発しかない。
たった一発で正確に打ち抜けるかと言われるとさすがに厳しいか……?
「えいっ、えいっ」
そんなことを考えているうちに、少女は残った二発をウサギのぬいぐるみに費やしていた。
だがどちらも狙いどころが甘い。
最初に撃った方は完全に外れた。
ニ発目は顔の部分に当たったが、それも少し揺れただけで倒すには至らない。
仕方ない……そう思いつつ、僕はまだ揺れているぬいぐるみに狙いをつけた。
額くらいの位置に巧く当てられたなら、揺れの勢いに乗って倒れてくれるかもしれない。
そんな希望を胸に、僕は引き金を引いた。
だが。
「……だめかぁ」
やっぱり、ぬいぐるみは倒れなかった。
確かに額には当たった。
だが、倒すにはまだ勢いが足りないようだった。
多分二、三回連続で額に当てたら倒せるようにしてあるのだろう。
「残念だったね。もう一回、やってみる?」
なんだか悔しかったので、そんな提案をしてみる。
「ううん、いいよ。次に行こう」
だが彼女は気にする雰囲気も見せず、既に屋台から離れていた。
僕も慌ててそれを追う。
「じゃあ次は、金魚すくいでもやってみる?」
そして、また目に入ったものの中から適当に提案した。
しかし彼女は、僕の提案に乗り気じゃないのか、渋い顔をする。
そして、ちょっとだけ考えるような仕草をしてから。
「君のところで、金魚って飼える?」
そう聞いてきた。
「いや、うちじゃ無理かな。ってか、取れたらあげるつもりだったし」
意図が分からなかったため、僕は考えていたことを素直に答えた。
「じゃあ、やめとこう。……私のところじゃ、飼えないから」
彼女は僕の返事を聞くと、そう言った。
言葉を付け足した時は、どこか寂しそうな表情を浮かべて。
「そっか……」
僕は。
彼女のそんな顔を、これ以上見たくなくって。
「じゃあ次は、どこへ行こうか!」
声を張り上げてそう言った。
「……ふふ、そうだね。じゃあ次は……」
彼女はそんな僕の気持ちを察してくれたらしい。
優しい微笑を浮かべて、次に行くところを探し始めた。
そんな調子で屋台を見て回っていると、途中で彼女がちょっと休憩しようか、と提案してきた。
多分歩き疲れたのだろう、そう思った僕はそれを快諾し、神社の境内に二人で座り込んだ。
そこで涼みながら、ここまでに行った屋台の感想を言い合う。
それが一区切り付いた頃。
「そろそろ公園に戻らない?」
彼女は、そんなことを言ってきた。
「何で?」
僕がそう言うと、少女は僕の耳もとにりんご飴で赤く染まった唇を近づけて。
「あの場所、花火を見るのにいいんだ」
内緒話をするように、小声でそう囁いた。
「そうか、そろそろ時間なんだね。いいよ、行こう」
僕は耳もとで感じた吐息の感触と甘い匂いにドキッとしたのを隠すため、慌てて立ち上がる。
そして赤くなった顔を見られないように、彼女を先導するように公園に戻った。
そして。
公園の、彼女と出会った場所まで、ちょうど戻った瞬間。
夜空に、一輪の花が咲いた。
それに続いて、色とりどりの花が……無数の花火たちが、夜空を覆い尽くしていく。
夜の静けさを、轟音で吹き飛ばして。
闇の暗さは、まばゆい光でかき消して。
無数の花火たちが夜空を彩っては……散っていった。
綺麗だ、と素直に思った。
その感覚が懐かしくて。
なんだか、貴く感じて。
僕は、花火を食い入るように見ていた。
その、隣で。
「うん……やっぱりこれが、私の理想」
少女は、呟くようにそう言った。
「……『理想』?」
とても前向きなはずの言葉が、なんだか寂しそうに聞こえて。
僕は思わず、その言葉をオウム返しにしていた。
「うん。私の理想だよ。花火みたいな生き方。その生涯がたとえ一瞬だったとしても、強く輝いて。その存在を知らしめるの。私が生きたって、証明する。私が生まれた意味を、残すの」
彼女の声色は、言葉を重ねるごとに必死さが滲んでいるような気がした。
その鬼気迫る感じに、僕は正直圧倒されていた。
冗談を言っているようにも聞こえない。
「なんだよ……それ」
「そのままだよ。私が目指す生き方なの、花火のような生き方」
「目指すって……それじゃあまるで――」
まるで――僕が言おうとした、言葉の続きは。
「そうだよ。私、もうすぐ死んじゃうの」
皮肉にも、彼女自身の口から発せられた。
僕が言葉を失っている間に、少女は言葉を続ける。
「私ね、病気なんだ。いわゆる、不治の病ってやつ? もう治らないらしくって……保っても、あと一年らしいよ」
「そんな……」
「私、『死んだ』って言われたくないんだ。『死んだ』って言われると、本当に何もしないまま消えたみたいじゃない? 『生きた』って言われたいんだ。私の命が終わるまでに、生きた証を遺したいの。で、『生きた』って言われたいの。絵に私の名前を刻むのも、その一環なんだよ?」
今にも泣きそうな顔で、少女は微笑む。
「…………」
何も、言えなかった。
何を言ってやればいいのか、まったくわからなかったのだ。
そんな僕を見かねたのか、あるいは元々続けるつもりだったのか。
少女がまた、口を開いた。
「もうすぐね、コンクールの締め切りなんだ。プロアマ不問の、絵画コンクール。絵を描く人にはけっこう有名なやつで……だから、それで賞を取れたなら、それを私が生きた証に出来る、って思うんだ」
「……じゃあ。さっきの絵も、そのため?」
「うん。今のところ、あれが一番巧く描けてるんだけど……どう思う?」
どう思う? そう聞かれて一瞬だけ迷った。
そもそも僕は、アレ以外の絵なんて見ていない。
それに僕は、絵に関しては素人でしかないのだ、が。
それでも。
「うん、あれがいいと思う」
一瞬だけ考えてから、僕はそう答えた。
「本当!?」
「うん、本当だ」
それは僕の、素直な気持ちだった。
あの絵を見た時、僕は。
夕陽の力強さを知ったような気がした。
街を優しく包み込む、夕陽の暖かさと雄々しさ。
圧倒的なほどの夕陽の存在感と暖かさに。
僕は、確かに感動を覚えたのだ。
この感動は、僕以外にも伝わるのか。
それを、コンクールに出して試してほしかった。
「……ありがとう!」
僕の断言に、少女は今までに見せてくれた中でも一番の笑顔を浮かべて、お礼を言った。
迷いが消えた、そんな風ですらあった。
「じゃあ、これで挑戦するよ。そうだ、連絡先、教えて? 結果が出たら、教えるから!」
その言葉も、力強い。
そんな覇気のある声を頼もしく思いながら、僕は言われるままに、少女と連絡先を交換した。
そしてその日はそのまま別れ……彼女と会ったのは、それが最初で、最後となった。
その後、彼女とはすぐに連絡が取れなくなったのだ。
出会った翌日から数日はメールのやり取りもしていたのだが、ある日『容態が悪化してきたからしばらく返事できないかも』というメールを最後に、ぱったりと返事が来なくなった。
電話をしてみても、電源が切られていて繋がらない。
そんな感じで彼女とは連絡が取れないまま夏休みが終わり、『また容態がよくなったら連絡ください』とだけメールを送ったのを最後に……気付くともう、半年が過ぎていた。
そして半年経った、今。
ようやく、彼女から着信があったのだ。
久々に彼女の声が聞けることが嬉しかった。
コンクールの結果だって気になる。
色々なことを期待しながら、僕は彼女からの電話に出る。
「もしもし?」
声が弾んでいるのが自分でも分かった。
でも。電話越しに聞こえてきた声は……半年前に聞いた声ではなかった。
電話の相手は、彼女の父親だった。
本人ではなく、父親。
一瞬感じた嫌な予感は、すぐに的中した。
彼女の父親は、少女が九月の下旬に逝ってしまったことをまず教えてくれた。
そして彼女の絵も、コンクールでは落選してしまったということを、感情を抑えたような口調で僕に告げてから。
あっさりと、電話を切ってしまった。
あまりにも簡潔で、事務的だった。
だが、彼に対して怒る気にはなれなかった。
父親である彼の悲しみは僕の比では無いはずだし……なによりも、彼女が亡くなってしまったことと、彼女の絵が落選したという事実で僕自身頭がいっぱいだった。
なんて、無情なのだろう。
そう思った。
彼女が生涯を賭けて描き込んだ絵は、あっさり落選してしまったのだ。
彼女が亡くなった悲しさよりも、彼女にあまりにも救いが無かったことに対する悔しさで胸がいっぱいだった。
彼女は本当に、何も遺せなかったのだろうか。
彼女が生まれたことには、何も意味が無かったのだろうか。
彼女は……『死んだ』のだろうか。
「……違う、彼女は『生きた』んだ」
そう言いたくて、僕は必死で考える。
間違いないのだろうか?
彼女は本当に、何も遺していないのだろうか?
僕が知っている彼女のことなんて、本当に些細なことしかない。
大して長くなかった、彼女の人生。
僕が知っているのは、その中でもほんの一握りしかないのだ。
たったそれだけの中から。
果たして彼女が生まれた意味など見出せるのだろうか。
そこまで考えてしまった時。
無理だ。
心が、折れた気がした。
彼女が生まれたことに、意味なんか見出せない。
そう、思ってしまった。
否定したくても、それを否定できる要素が見つからない。
それでも、見つけるんだ……どこかで無駄だ、と思いながらも頭を回転させていると。
僕の携帯が、再び着信音を奏でた。
電話を掛けてきたのは、昨年度のクラスメートだった。
「僕だ」
苛立った気持ちをなるべく抑えて、電話に出る。
用件は、今から遊びにいかないかという誘いだった。
ごめん、今はそんな気になれない。そう言って、誘いを断る。
クラスメートは、じゃあまた今度誘うよとだけ言って電話を切ってくれた。
そして、通話が終わった、その瞬間。
気付いた。
「そうか……」
僕は思わず、呟いた。
そうだ。
彼女の『生』は、無駄なんかじゃなかった。
僕は、彼女に会ってから変わったんだ。
今考えてみると、僕は心の奥では勘付いていたのではないかと思う。
自分が、本当に求めていたことに。
平凡で無難な人生こそが至高だなんて……嘘だ。
そんなの、退屈だった日々を正当化するための、ただの言い訳でしかなかった。
僕が本当に求めていたのは、退屈じゃない日々だったんだ。
だから。僕はあの時、彼女に声を掛けたんだ。
何かきっかけになるんじゃないか、そう思って。
そして今、僕はクラスメートたちと充実した春休みを過ごしている。
これは彼女が、僕に教えてくれたことだった。
彼女は僕に見せてくれたのだ、彼女の生涯を懸けて。
生きる、ということを。
そう、彼女は『死んだ』わけじゃなかった。
彼女の存在は、僕という人間の一生に大きな影響を与えたのだ。
だから、僕は言える。
彼女は『生きた』。
花火のように。
たとえ短くても、その時を強く美しく輝けばいい、ということを。
彼女は、僕の胸に遺してくれたのだ。
――Fin.
最後まで読んでくださって、ありがとうございました!
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