終
若いというのはそれだけで価値があるのかも知れない。
私もまだ若造である。しかしティーンエイジャーのような純粋で無鉄砲な若さはもうない。自分でも気づかない内に、高校のゴミ箱に残飯と一緒に捨ててしまったのだろう。
そう思っていたのだが。
「自首するつもりだったんです」
北村は俯いたまま呟いた。
私たちは駅の待合室に並んで座り、電車を待っていた。朝は駅員がいるそうだが、この時間帯は無人で切符は電車の中で買うしかない。中途半端な田舎の駅である。
「昨日言ったとおり、私は浩二の首を絞めました。殺そうと思ってやったんです。あの日の時点で、結局死んではいませんでしたけど、それでも殺意を持って行ったのですから、警察に行くべきだと思って、その日のうちに父が死んで、それどころではなくなったのですが」
彼が記憶喪失だというのは真っ赤な嘘だ、ということは北村から聞いた。どうして偽っていたかの理由も、納得できないながら理解した。演技が下手くそにもほどがあると思った。貸した本の中身を覚えていないのだろうか。いや、もしかしたらそれすらわざとだったのかもしれない。気づいてほしかったのかもしれない。誰も彼も、物語の登場人物のように清廉潔白ではいられない。
「それからずっとなあなあになってて。浩二が帰ってきたのを機会に警察に行こうと思ったのですが、浩二本人に止めろと言われました。どうやって説明するつもりだとも。行方不明については私は関わっていませんし、証拠は……もうありませんから」
それはそうだろう。一年前に付けた傷、それも痣程度のものが残っているはずもない。今残っているものについては別の面倒事でついたのだろう。
「この一年間、あいつはどこで何をしていたんだ。……いや、言いにくいならいいんだが」
付け足した遅すぎる気遣いに、北村は首を振る。それでも逡巡した後、言いにくそうに呟いた。
「……二人の女性と暮らしていたそうです」
「……あいつは…………」
顔をしかめた私を見て、北村はあわてたように話題を変えた。
「それにしても……本当に大丈夫ですか?」
質問に私は盛大なくしゃみで答えた。譲ってもらったマスクをずらして鼻をかみ、くずかごに放り投げた。力の入らない肩で投げた割にちり紙はきれいな放物線を描いて飛び、軽い音を立ててゴミのてっぺんに陣取った。
「帰るだけだから何とかなる。いざとなったら実家に寄る」
ぐずぐずの鼻声でそう言っても北村は不安そうだった。解熱剤を飲んだとはいえ、三十八度の熱を出したせいで信用されていないらしい。余談だが砂まみれの服の代わりに北村の父親の遺品を借りている。サイズが少し大きいが、非常にありがたい。
「北村さんこそ大丈夫か。顔が真っ赤だ」
「これくらいの風邪、寝ていれば治ります。川崎さんは肩だって痛めてるし、指の怪我も腫れているから……」
言葉は彼女自身のくしゃみによって強制的に切られてしまった。ちり紙を差し出すと、彼女は無言で鼻をかむ。律儀にも席を立ちくずかごに捨てにいく姿は見て分かるほどふらついており、どう考えても「これくらい」とは言い難い状態だ。
季節はずれのダイブの代償は高くついた。潮の流れか海水浴場にたどり着けたのは幸いだったが、それからは地獄を見たらしい。と、言うもの私は直後に気を失ってしまったのである。
いつの間にか浜に打ち上げられた私は必死になって海水を吐いていた。隣ではそれほど海水を飲まずに済んだらしい北村が、寒さに震えながら咳をしている。喉と爪が割れた指先が燃え上がるように熱い。ひたすらせき込んで人心地つける。そして、顔を上げた。
目の前に息を切らした浩二がいた。その目は私たちを通り越して海原を見ている。わななく唇が音もなく動いて、私たちの横を素通りする
私はもう一度盛大にむせかえってからよろよろと振り返った。黒い海は崖から落ちる前と何も変わらない。波打ち際で砕けた波が月の光を反射している。浩二が膝をついて、顔を手で覆う。嗚咽を漏らさないように泣いていた。
何かが頭の中で切れた気がした。
びしょ濡れのコートをどうにか脱ぎ捨て、凍ったように動かない体を叱咤して私は浩二の側に寄った。そして肩に手を置くと、泣きながらも怪訝な顔でこちらを見上げるその横っ面を殴り飛ばした。
殴られた浩二はあっけに取られたように私を見た。北村も何事かとこちらを眺めている。私は何も言わなかった。寒さか無茶な姿勢が祟ったのか、膝が面白いほど笑う。その場に転がって、ひどい頭痛を訴える頭を抱えようとし、思い出したように肩の間接が直接やすりで削られたような痛みを発した。割れた爪の間に砂が入り込み、忘れるなと言わんばかりに無駄に存在を主張する。海風が吹くたびに痛いのか寒いのかよく分からなくなり、気がつくと夜明け前で、知らない部屋で布団の上に寝かされていたのである。
北村もほとんど気を失い掛けていたところを、浩二が頑張って北村の家まで運んだのだそうだ。たまたま北村の家が海水浴場の近くにあったことが不幸中の幸いだったのだろう。私が目覚めたときには浩二はもういなかった。脱走がばれるとまずいからと、私と北村がある程度落ち着いたのを見届けて医院に戻ったのだという。
正直なところ、彼と会わないで済んだのはありがたかった。一年前のことを完璧に許せたわけではなく(彼の行動や日記、海に落ちる前に北村が言っていたことを照らし合わせれば、私自身も原因の一つではあるのだが、それとこれとは話が別だ)、日記を覗き見た罪悪感もないわけではない。
「これからどうするんだ」
間を繋げるための問いかけに、北村は小さなくしゃみをしてから答えた。
「全く決めてません。でも婚約は解消することになると思います。川崎さんが気絶されている間に少し話し合ったのですけど、彼自身がけじめをつけたいと言っていましたから」
あれだけ執着していたのが嘘のように明るい声だった。思わず顔を見ると、声とは裏腹に泣きそうな表情をしていた。
「いいのか?」
「もう、いいんです」
私は声をかけようとして、適切な言葉を見つけられずに視線を靴の先へ落とした。
目を閉じ、そうか、とだけ返事をした。
目を開けると、林の隙間から真っ青に晴れた冬の青空が見えました。
昨日の曇り空は夜の内にすっかり消え、澄みすぎて暗く感じるほど濃い空の青が、黒い海の上に浮かんでいました。風は強く、枯れた松の葉が砂埃とともに煽られて飛んでいきました。ドアには鍵を掛けられているため出入りは壊れた窓からしかなく、この数日で足の裏に怪我が増えていました。
私は手の中のビンを握り直し、昨日二人が落ちた崖の上に立ちました。まだ新しい血の跡は孝大が踏ん張っていた時にでも出来たのでしょうか。そんなことを考えて、彼とは結局ろくに会話しなかったことに気づきました。殴られた頬は色が変わっただけでしたが、まだじくじくと痛むような気がしました。
最後に、ビンの口がしっかり締まっていることを確かめました。強壮剤のものしか手に入りませんでしたが、贅沢は言っていられません。茶色いガラスの向こうに折り畳んだ紙が透けています。
一度深呼吸して、私はそのビンを力の限り投げました。ビンは放物線を描き、音を立てて海の中に落ちました。
体の芯まで冷えてしまうくらいその場で海を眺めた後、私は鼻をすすりながら背を向け、医院への道を歩いて行きました。
腕時計を見て、まだ時間に多少の余裕があることを確かめてから私は振り返った。無人の改札越しに北村が立って見送ってくれていた。熱を帯びて赤く潤んだ目が、不思議そうに私を見た。
「忘れ物ですか?」
「いや。聞き忘れたことがあるんだ」
身構える北村に私は手を振った。それほど深刻な話題でもない。
「……また会いに来てもいいか」
言いきってからえらく直球だと気づいた。しかし、もうどうにもならない。
案の定北村の顔は呆け、それから赤くなる。
「それは……その、川崎さんはどうして……」
――どうして私なんかに構うんですか。
尻すぼみになる語尾を何とか捉え、そして私は笑った。
「落ちた時に言った通りだ。昔みたいに戻ることはできないかもしれないが。……すまない、未練がましくて」
「いえ、そんな……でも私なんか」
そこに轟音を響かせて電車がプラットホームに滑り込んだ。慌てて荷物を背負い直し、私は北村に会釈して小走りでドアまで近づく。
「孝大さん!」
乗り込んでから、私は北村へ向かって笑いかけた。
「春になったら、また来ます」
北村は泣きそうな顔で、静かに頷いた。
電車の中で、私は座席にもたれて窓の外を眺めていた。乗客は私のほかに数人で、ボックス席を一人で占領していても十分すぎるゆとりがあった。乗り換えの駅までしばらくある。鞄に入っている文庫を読む気にもなれず、ひたすら海を眺めていた。いくら海のある県に住んでいようが、内陸暮らしだとそれほど馴染みはない。
冬の太陽を照り返す海を見ながら、二人の顔を思い浮かべた。
私が来なくても結末は変わらなかったのではないか。その考えが頭の中を繰り返し占領する。熱に浮かされてどうしてもネガティブなことしか思い浮かばない。そして、健一氏にはなんて報告しようと悩む。面倒だから本人に訊けとでも言っておこうかと適当に流して、再度海を見る。
黒い中にも空の青さがにじむ海の上に、ふと目を凝らす。沖の方に何か大きな影が見えたような気がした。船ではない。しかしさざ波に反射した光が私の目を眩ませ、その間にその影はどこかへ消えてしまった。
それきり、馴染みのない海はタイミング悪く突入したトンネルの向こうに消えていった。




