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私は公衆電話から吐き出されたテレフォンカードを再度差し込み、手帳を見ながら慎重に番号を押していった。
彼の家の近くで公衆電話が見つからず、結局駅まで来る羽目になった。相変わらず閑散としていて、弱った地虫が一匹這っているほかに動くものは見当たらない。
数度のコールの後、受話器を取るノイズの後に北村の声が聞こえた。
『はい、北村です』
「川崎です。健一さんから電話番号を聞いて掛けている」
『……川崎さん? 一体どうしたのですか』
北村は少し息が切れているようだった。私は電話ボックスの天井を見た。顔が見えないから電話は苦手だ。
「いくつか直に会って話したいことがある。今から訪ねても大丈夫だろうか」
沈黙が降りる。長く空いた間に何かやらかしただろうかと不安に思ったが、北村は何事もなかったように喋り出した。
『奇遇……と言いたいところですが、夜まで待っていただけませんか?』
予想外の返事に私は眉をひそめた。夜まで待っていたらどこぞの駅で夜を明かすことになる。
「電車の都合があるから遅くまではいられないんだ。それに奇遇?」
答える北村の声は妙に弾んでいた。どこか不安になるような、中身のない明るさとでもいうのだろうか。
『ええ。川崎さんに話したいことがあったので、ちょうどいいかなって。電車は大丈夫、私の方で宿を手配しますから』
「宿……まあ、明日は別に用事もないが」
『ならいいでしょう? 料金は私が全部持ちますから』
私は考え込んでから肯定を返した。泊まる料金をあちらで負担してくれるならまあいいか、という知られたら電話を切られそうな考えからであった。
宿の住所を聞き、復唱しながら手帳に書き込む。目印も聞いたからたどり着けるだろう。
『それじゃあ、八時に迎えに行きます』
「分かった」
受話器を元に戻し、テレフォンカードを財布にしまった。電話ボックスから出る私の目の前で、乗る予定だった電車が音を立てて出発した。
宿に荷物を預け、私は約束通り玄関の外で彼女を待っていた。
私はコートのポケットに入れた手を出し、息を吐きかけた。かじかんで、痒いような熱いような刺激が神経を通っていった。
昼の曇天が嘘のように、澄んだ夜空にはぽっかりと満月が浮いていた。青く浮かび上がった道路は電気いらずで歩けそうなほど明るい。
宿の中で待たないのは、フロントからの視線に耐えられなかったからである。よく考えてみれば、彼のことがこの狭い街で話題にならないはずがないのだ。その許嫁である北村の紹介で宿泊する若い男という立場は、話題を更に盛り上げるのに十分すぎるだろう。客商売であるから無礼なことは聞いてこないが、ちらちらと見られて気にしないでいられるほど今は余裕がなかった。
北村が来たのは約束の時間の十分前だった。彼女が持っている懐中電灯の黄色い明かりが足下だけを浮かび上がらせ、かろうじて見えていた景色は暗く沈む。
「お待たせしましたか」
「いや」
寒さで声が多少震えたが、北村は気づかなかったようだった。私はいくらか安堵して北村に話しかけた。
「それで、用というのは」
「その前に、着いてきてほしい場所があります」
北村は宿に背を向けた。私は釈然としないながらも後を追う。
通る道にはほとんど街灯がなかった。時折、青い闇の中で点滅しているのを見かけるくらいだ。私は寒さに耐えながら懐中電灯の光を追いかけた。北村は無言だった。硬い靴音と僅かな息づかいだけが聞こえた。
やがて潮騒の音が近づいた。北村の後に続いて黒い影となった林を抜けると、眼下に満月に照らされた海が広がっているのが見えた。どうやら海水浴場近くの崖らしい。砂利が革靴の下で鳴った。
「どうしてこんなところまで……」
問いには答えず、北村は突然懐中電灯を消した。月明かりは明るいが、懐中電灯に慣れた目にはほとんど何も見えない。さすがに私は声を荒げた。
「北村さん。一体なんだというんだ。あと電気は消さないでくれ」
月を背にぼうと立つ北村は黒い影にしか見えない。その影から細い声が発せられる。
「ごめんなさい。でも、少しだけ我慢してください」
「なにを……」
「一年前どうしてあの人がいなくなったのかについて、あなたには話しておきたかったのです。でも他人に聞かれたくなかったから、ここを選びました」
一際強い陸風が木立をざわめかせた。体を強ばらせた私とは対照的に、北村は微動だにしなかった。
「あの人が失踪した日の夜、父があの人を家に呼びました。その頃父は病床にふせ、余命幾ばくもない状態でした。死ぬ前に籍を入れていまいたかった父は、私に既成事実を作らせて彼がこの街から逃げられなくするつもりでした。でも、彼は直前で逃げました」
彼女の話はただおぞましく、絶句するほかになかった。私の常識に親が性交渉を強制するなんていう文言は存在しない。そして家というものがどうしてそこまで重要なのか、私には理解できない。
何も見えない。その中で北村は乾いた声でしゃべり続ける。
「私は必死で後を追いました。そしてここで追いつきました。でも、彼は私の事なんて邪魔にしか思っていなかったのでしょうね。お前が好きなのは孝大だろう、やめてくれ、もう構うなって、言われました」
淡々と呟かれた言葉に、場違いにも胸が鈍く痛んだ。
「でもそんなこと許されないでしょう? だから必死に追いかけて捕まえて……気づいたら動かなくなっていました」
風が轟々と鳴る中で、北村の声だけがはっきりと聞こえた。
「私が、絞め殺した」
私は開いた口を閉じ、そして何か言おうとして再度開く。冗談だとしても悪質だ。少し落ち着いた方がいい。しかし何も吐き出されることはなかった。
「あの時は殺したと思って逃げ帰ったけど、多分気を失ってただけだったんでしょう。それからあなたも知っている通り、あの人は行ってしまいました。……海の底の国に行ってきたというのもあながち間違いではないのかも知れませんね。だって、絞め殺そうとした痕がまだ残っているんですもの」
海の底の国? 疑問を挟む余地もなく、北村は言葉を続けた。表情は見えなかった。
「すべて、私のせいです。……私の話はこれだけです。川崎さん」
すべて、私のせい。そのフレーズが頭の中で鐘のうなりのように繰り返される。
目が醒めたように答えが分かった。
何を間違えたのかさえ当時は分からなかった。しかし今なら分かる。私は部外者ではない。それどころか元凶の一翼を担っている。
自然と心は落ち着いていた。いや、落ち着いているのではなく、ただ混乱の極みを経て平坦になってしまっただけかも知れない。どちらにしろ構わない。私がやれることは一つしかないのだ。
「弥生さん」
そう呼ぶと、何故か北村は怯えたように肩を強ばらせた。
「俺は……」
息を深く吸い、そして腹の底から吐き出した。しかと北村の目を見つめ、はやりそうになる口をゆっくりと動かした。
「弥生さんのせいだなんて思わない。思いたくない」
北村は無言だった。
「あいつがああなったことについて、あなたに責任を押しつけて、なかったことにはしたくない。だから、どうか、そんなに自分を責めないでください」
風が止む。私がもう一度同じことを言おうとした時、北村は顔を上げた。
「――あなたは、いつもそうね。勝手なことばかり言って、でもそれが……もう、終わった話ね」
そこにいたのは高校時代の彼女だった。どこか影があり、物静かだが、その目には抑えきれない激情が秘められている。だが、それは目の錯覚だと疑うほど早く消えてしまった。
「馬鹿みたいな打算なんてするんじゃなかった。……いいえ、心のどこかでは期待していたのかも知れない」
「弥生さ――」
「ありがとう、孝大さん。でも、私は……」
また強い風が吹いた。何かを言いかけたまま、北村はあおられてバランスを崩した。たたらを踏んだ足が崖からはみ出して、そのまま転落していく。
突然のことに目を見開いて、しかしどこか安心したような顔だった。
声にならない悲鳴を上げて私は手を伸ばした。コートから伸びた細く華奢で、そして冷え切った手首を握りしめる。
がくんと体中に衝撃が走る。腕の間接が悲鳴を上げた。中途半端な姿勢で崖に這い蹲ったせいで自身の体も落ちかけている。体力不足の体では姿勢を安定させることも北村を引き上げることもできない。北村の靴が片方脱げて、真っ黒な海の中に消えていく。
「ぐ、う……」
私は崖際に爪を立てた。しかし無情にも体は段々と前へ落ちていく。
北村は呆然として、それから泣きそうな顔で首を振った。
「孝大さん、なんで……」
その言葉を聞いてかっと頭に血が昇った。
「勝手なことをいうのはどっちだ。あんたは俺を、二の舞にするつもりか」
言い切った途端爪が割れた。
「ずっと好きだったんだよ。目の前で死なれたら、俺はどうすればいいんだよ!」
にじんだ血が激痛に縮こまる手を滑らせ、支えを失った体が一気にずり落ちる。足が宙に浮き、頭を下にして暗い海に落ちる。
北村を引き寄せて頭を抱え、観念して目を閉じたその時、懐かしい声が聞こえた気がした。
「弥生さん、孝大!」
直後、背中全体が海面に叩きつけられた。激しい着水音のすぐ後に凍るような冷たさが全身を包んだ。
私は崖に駆け寄り、覗き込みました。二人の姿はどこにもありません。ただ水面に白い泡が浮かんでいるだけです。とっさに海水浴場の方から下に回ろうとして、白っぽい影が水面すれすれを通ったような気がして海に視線を戻しました。
波が盛り上がったかと思うと、二人の顔が海の中から浮かび上がりました。気絶しているらしくどちらも身動きしません。そのまま、静かに海岸の方へ運ばれて行きます。私は我に返り、膝のゴミを払って海岸へ走りました。
私が到着したときには、二人は既に気がついて、海水を吐きだしているところでした。その後ろで二人を運んだ彼女が、会釈をするように頭を垂れました。
それは図鑑に載っているような、首の長い竜でした。まるで幼いころ図鑑で見たプレシオサウルスのような長い首をこちらに向け、凪いだ海のような理性ある瞳でじっとこちらを見ていました。
「玖珠古……」
叫んだつもりでしたが、掠れた声は風に吹き消されてしまいました。孝大が私を睨みつけましたが、気にする余裕もなく、私は二人の横を通り過ぎました。
しかし私の手が届く場所へ行く前に、竜はふっと目を逸らすと、静かに海の中へと消えて行きました。




