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Kの水葬  作者: 未設定
6/8

独白-2

 …………

 手厚い看護のおかげか、私の体調は日を追うごとによくなってゆきました。体のあちらこちらにできた傷や痣こそすぐに消えはしませんでしたが、それ以外の、たとえば軋んでいた骨などは、数日後にはほとんど分からない程度に快復しておりました。

 そうすると、だんだんとじっと布団の中で寝ていることが耐えられなくなっていきました。まず玖珠古に手伝いを申し出ましたが断られ、同様のことを言って玉輝姫には笑われました。しかし私が諦めきれずに粘ると、玉輝姫から社の周辺を散歩でもしてはどうかと提案を受けました。

「あなた様は病み上がりでございましょう。それに客人に雑事をさせるなど、とんでもないことにございます。散歩でもなさって、落ちた体力を取り戻されてはいかがか?」

 その時の呆れたような玉輝姫の顔は忘れられません。

 早速私は次の日から散策に出かけました。社の裏にある森と借りている部屋の付近にある崖は危険だから近寄らないようにと言い含められていましたので、海岸に沿ってうろうろとしていました。

 落ち着いて観察すると、ここはまるで楽園のように美しい場所でした。鮮やかにはまなすが咲き、ごみ一つ落ちていない砂の中で時折桜色や薄黄色の貝殻がきらきらと輝いていました。海岸と森の間はなだらかな丘になっており、柔らかな草が風に揺れていました。昼寝をするのにちょうどいい木陰を見つけ、そこにごろりと転がりました。

 しばらくそこで寝ていたのだと思われます。ふと目を覚ますと、見覚えのない単衣が私の体にかかっていました。状況がつかめず寝たままあたりを見回すと、隣で静かに座っていた玖珠古と目が合いました。

「お目覚めになられましたか?」

 私は頷いて、礼を言いました。

「玖珠古さんはどうしてここに」

「……中塚様がこちらにいらっしゃるのを拝見し、風邪を召されないようにと思い、勝手ながらこれを」

「浩二と呼び捨てにしてもらって構いませんよ」

 どうにも敬語がむず痒くなり、失礼だとは知りつつ私は途中で玖珠古の言葉を遮りました。玖珠古は表情こそあまり変わりませんでしたが、年相応にむっとした様子でした。

「そのようなことはできかねます」

「命を助けてもらった挙げ句、こんな丁重にもてなされたら立つ瀬がないんですよ。それに、ぼくは敬語を使ってもらえるような人間ではありません」

 むすっとした表情のまましばらく悩んでいましたが、玖珠古は俯いてぽつりとこぼしました。

「……どうしてそのようなことをおっしゃるのです」

「そんなこととは?」

「わたくしは端女にすぎません。主である玉輝姫様を差し置きお客人を呼び捨てるなんて、恐れ多いことにございます。なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか」

「……さあ。でも憧れていたんです。ずっと」

 私は視線を空に移しました。日が傾いてきたのか、黄色みがかった雲が風に千切られて消えていきました。

 考えないようにしたところで、そんなことは無理なのだと、私はこの数日で思い知っていたのです。

「無い物ねだりだったんでしょうけど、それでも信じて賭けずにはいられなかったんですよ」

 玖珠古を見やると、得心がいかないような顔をしていました。私たちの間を風が吹き抜けました。どこか顔を赤くした玖珠古が、私の冷たくなった手を握りました。

「……浩二、さま。そろそろお帰りになってください。まだ冷えますから」

 恐らくそれが玖珠古のできる限りの妥協だったのでしょう。私はなんだか微笑ましい気持ちになりました。



 それから、私はだんだんと玖珠古と仲良くなっていきました。

 最初こそ抵抗があったのか、名前で呼ぶのも躊躇っていた玖珠古でしたが、そのうちに屈託なく話しかけてくるようになりました。

 とはいえ、私と玖珠古が顔を合わせるのは朝夕二回の食事の時くらいでした。掃除をしている最中の彼女を見かけることはありましたが、そういう時は話しかける訳にもいきません。また、この前の教訓を生かして私は体に掛けるものを持参してから昼寝をするようになりましたので、そこでも玖珠古に会うことはありませんでした。

「浩二様は、帰りたいと思われることはないのですか?」

 いつだったか、玖珠古はこころなしか緊張した面もちで私に尋ねたことがありました。私は特に考える必要もなく、ごちそうさまと箸を置いてから答えました。

「これだけ手厚い対応をしていただいているのに、恩も返さずに帰るなんてことはできません。もう調子もほとんど良くなったし、何か仕事をさせてくれればいいのですけどねえ」

 そう遠回しに仕事をくれと頼みましたが、玖珠古からの返事はやはりつれないものでした。

「とはいっても、それではぼくはどうやって恩を返せばいいんですか」

「返す必要などございません。浩二様は客人です。客人というものはふんぞり返ってあれこれと命令してくださればいいのです」

「なかなか無茶なことを言いますね。でもそれなら、ぼくはふんぞり返って仕事をくれと一人シュプレヒコールしますよ」

「しゅ……」

 玖珠古はシュプレヒコールについては分からないようでしたが、意味は通じたようでした。

「浩二様は意地の悪いお人です。もし仕事をお任せしようものならわたくしが玉輝姫様に叱られます」

 目元をほんのりと赤く染めて文句を言う玖珠古に、私は両手を上げました。彼女は打ち解けてからは、少しずつ感情を見せてくれるようになりました。

「まあまあ。でも、どこぞの太郎のように亀を助けたわけでもないのに、こうやって歓待される一方というのは心が痛みます。玖珠古さんだって掃除にしろ食事の用意にしろ男手があった方が楽でしょう」

 それは本心でした。玉輝姫の態度など、色々と気になる部分はありますが、それでも私を助けてくれたことに変わりはないのです。

「お気遣いにはおよびません。わたくし、これでも力仕事の方が得意です」

 私は思わずまじまじと玖珠古を見つめました。袂から覗く腕は白く華奢で、細い指は水仕事もしたことがないような繊細さがありました。これで力仕事をしているとは信じられない話ですが、かといってこの社には玖珠古以外の働き手がいないのですから本当なのでしょう。

「薪割りとか……も、ですか?」

「はい。お恥ずかしい話ですが、実は掃除とか、そういった細々したことよりも力を使う仕事の方が得意なんです」

 何度も言うようですが、この社に住んでいるのは私を除き二人だけです。

 どういう反応を返すのが適切か分からず、私はあいまいに笑ってごまかしました。



 その日の夜。私は尿意を覚えて布団から這い出ました。

 戸を開けると、ちょうど月が正面に見えました。昼間の暖かさとは打って変わった冷え冷えとした陸風に身をすくませながら、昼のうちに教わった道を通り、便所に向かいました。

 用を足し、部屋に戻る途中のことでした。冷えた空気に乗って、女性の言い争うような声が聞こえました。

 何事かと思い、声を頼りに廊下を進みました。蛇のように曲がる角を一つ一つ確認して歩いていると、袋小路にある部屋の戸から薄ぼんやりとした明かりが、大きくなった罵声と一緒に漏れておりました。

「この役立たず、どうして言うことが聞けないんだ!」

 戸の隙間から覗き込もうとした途端、ひどいだみ声が飛び出しました。どうやら口げんかではなく、一方的に怒鳴りつけているようでした。

「あんなものさっさとやっちまえばいいんだよ、そうすりゃもうここから出ていけなくなる。逃げ出したらどうするんだい、お前が責任を取るって言うのかい!」

 玖珠古とは比べることもできないような下品で醜悪な言葉に、私は顔をしかめました。そして、顔を隙間に近づけました。

 どうやら上座と下座は、それぞれ私から見て左右に座っており、姿を見ることは叶ませんでした。しかし、ゆらゆらと壁に映る影は、どう目を凝らしても人には見えませんでした。上座で怒鳴り散らしているのは鮫でしょうか。板間に座り込んでいる様子はどこか滑稽でしたが、鋭い牙と、鋭角な鼻先が今にも下座の相手を食い殺さんばかりに揺らめいていました。

 私は声もなく、その光景を見ていることしかできませんでした。

「いいね、あれがまだ本調子じゃないうちに済ませるか、足でもなんでも折っちまえ。どうせ逃げられないとはいえ抵抗でもされたら骨だ」

 その時、鮫の顔がこちらを見ました。

 気づかれた。私の心臓は驚くほど大きな音を立てました。

 逃げようとしても体は石になったように動きません。音を立ててゆっくりと開く戸を前に、私は気を失いました。



 はっ、と目を覚ますと、そこは私に割り当てられた部屋でした。戸の隙間から、朝日が昇る前の青い光が射し込んでいました。

 しんと静かな中、耳の中で血液がめまぐるしく動いている音がしました。心臓が落ち着いてから、私は体を起こしました。

「ひどい夢だ」

 そう口に出さなければやっていられませんでした。袖で汗を拭い、玖珠古が来るまでじっと体を固めていました。



 しかしどうしたことか、それから玖珠古は急によそよそしくなってしまったのです。

 何か話しかけても最低限の受け答えしか帰ってこず、表情も初めて会ったとき以上に硬くなっていました。

 朝食が済み、私はどうしようかと思案しながら布団の上で横になっておりました。

 玖珠古が不快になるようなことをしてしまったという覚えはありませんでしたが、そういうことはえてして自覚がないものです。

 だからといって玉輝姫を頼ることは、最初から選択肢にありませんでした。いつも笑みを絶やさない彼女をどこか胡散臭く感じていたからです。

「……ええい!」

 いくら考えても答えは出ません。

 玖珠古本人に聞くのもためらわれて、その日は悶々と過ごしました。



 夜。といってもまだ夕方の気配が残っている時間のことでしたが。

 さて寝ようと行灯の火を消そうとしたとき、廊下が軋む音がしました。玖珠古や玉輝姫が寝起きをしている場所はこことは正反対の位置でしたから、二人のどちらかが用事でもあるのかと私は居住まいを正しました。

 やがて足音が木戸の前で止まり、玖珠古の声がしました。私は少なからずほっとして返事を返しました。

 入ってきた玖珠古は珍しく髪を下ろしていました。俯いて表情は分かりません。

「こんな時間にどうかしたのですか?」

 問いかけると、悲壮な決意さえ滲ませて玖珠古は顔を上げました。

「お情けを頂戴したく存じます」

「……はい?」

 予想外の言葉に私は呆け、次いで素っ頓狂な声を上げました。

「情けって……意味分かって言ってるんですか!?」

 私は本を読むのは好きでしたから、その言葉が何を指しているのかも知っていました。そして目の前の、年端も行かない少女の口から出てきていいものではないことも分かっていました。

「はい」

 そう言う玖珠古の目と同じものを、私は過去見たことがありました。

「なにを……どうしてそんなことを突然言い出すんですか」

「浩二様のことをお慕い申し上げております」

 言葉とは反対に、すぐにでも泣き出しそうに目を潤ませています。

 その時、直感が働きました。

「……玉輝姫ですか」

 私は呻きました。

「玉輝姫の差し金ですか」

 生真面目な玖珠古がそんなことを言い出すなら、それには理由があるはずです。

 案の定、玖珠古は目に見えて動揺しました。

「ち、違います。わたくしは……わたくしが」

 途端、玖珠古は身を翻して部屋から走り出しました。

 私は呆気にとられましたが、すぐに我に返り彼女を追いかけました。



 裾の長い衣装を着ているというのに、玖珠古は私が追いつけないほどの早さで走っていました。痛むわき腹を押さえながら追いついたのは、入らないように厳命されていた森の中でした。玖珠古が木の根に足を取られ、転んだのです。

「玖珠古さん!」

「止めてください!」

 玖珠古は叫び、差し出した私の手を振り払いました。彼女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていました。

「どうして、浩二様は優しくするのです。あんなこと言ったのに、わたくしにはそんな資格ないのに」

 玖珠古は手で顔を覆いました。細く枯れた声には嗚咽が混じっていました。

「わたくしは嫌です。ずっと一緒にいたいけど、浩二様に嫌われたくない」

 私はそっと腕を回し、玖珠古を抱きしめました。図らずも自分の口の近くに来た玖珠古の耳にささやきました。

「――ぼくは玖珠古さんを嫌ったりしませんよ」

 玖珠古が何を恐れ何を危惧しているかなど部外者の私には分かりません。しかし、それでも理解できることが一つだけありました。

 泥だらけの顔を拭ってやり、笑いかけてやりました。玖珠古の目から再度涙がこぼれます。

「どうしてあなたを嫌いになるものですか」

 私は嫌われてはいないのだ。彼女自身からの言葉として受け取ることができて、ひどく安心しました。そして、いつの間にかこの美しくも華奢な少女が私の心の大部分を占めていたことを自覚しました。

 玖珠古の震えは少しずつ治まり、やがて彼女は泣き止みました。



 私は腕をゆるめ、玖珠古の赤く腫れた目を覗き込みました。

「……帰ったところで、ぼくには何もないのです。それならここにずっといたい」

「いけません。どうしてそんなことをおっしゃるのです。早く戻らないと、戻れなくなってしまいます」

 どういうことなのか尋ねると、玖珠古はためらうように視線を下に落としました。

「ここと瑞穂の国では時の流れが違うのです。どのくらいの差があるのか、詳しいことはわたくしも存じ上げません。でも、あまり長く滞在されていたために故郷の知人が全てみまかられていた方もいると聞きます。一刻も早くお帰りになってください」

 この突拍子がない話には、私も目を丸くしました。しかし、玖珠古の表情は真剣そのものでした。

「ちょっと待ってください。なぜそんなことを今更。玉輝姫はなにも言っていなかったでしょう」

「海のかなたから流れ着いたものは神の使いであり、厚くもてなせば富を授けてくれるという信仰があります。ここも昔はもっと豪奢な場所だったそうですが、今は端女もわたくし一人。玉輝姫は浩二様を引き留めることでたつのみやの再興を図っておられるのです」

 にわかには信じがたい話ばかりでしたが、否定や疑問は後回しにして要点だけを確認しました。

「とにかく、玉輝姫は何かしらの縁起を担ぐためにぼくを引き留めたいということですね?」

 玖珠古は頷きました。

「ですが……どうしても帰らねばなりませんか」

「何をおっしゃいます」

 玖珠古は非難するような目を向けてきました。喉を押さえ、私は静かに首を振ります。

「ぼくは自分の不注意と思い上がりによって大切にしていたものをいっぺんに失いました。向こうに帰ったところで、何が残っていますか。彼らに合わせる顔もない」

「そんなこと……」

 玖珠古は目を伏せ、それから決意を秘めた表情で私を見ました。

「どうしても、帰らねばなりません。たとえ辛くとも、あなたはあなたの生きるべき場所で生きて」

 そう言って私の頬に手を添える玖珠古に、私は何も言うことができませんでした。

 玉輝姫に呼び出されたのは、次の日の晩のことでした。



 用があるから社に来てくれとの玉輝姫の伝言を持ってきた玖珠古はひどく不安そうな顔をしておりました。私は心配はいらないと笑ってみせましたが、それでも玖珠古は落ち着かない様子でした。

 社のある浜辺に着いた時、満月は南中を少し過ぎたところにありました。社は冷えた月光に照らされて、まるで怪物のように亡と建っていました。中に入ると玉輝姫はあの時のように鏡を背にして座っていました。光源はろうそくの頼りない光のみで、玉輝姫の顔の半分だけが橙に照らされておりました。

 私がいつぞやのように玉輝姫と向き合って座るのを確認してから、玉輝姫は入り口に控える玖珠古に厳しく言い放ちました。

「お下がりなさい。そして、朝が来るまで支度部屋でじっとしていなさい」

「それでは、中塚様がお部屋に戻られる際はどうなさるのですか」

 私は背中越しに玖珠古の言葉を聞きました。玖珠古と玉輝姫の会話は数回耳にすることがありましたが、玖珠古が口答えをするのは初めてでした。

「玖珠古。いいから、お下がりなさい」

 玉輝姫の有無を言わさぬ命令に、背後でためらいがちに足音が遠ざかって行きました。

「さて、中塚様。あの子が口を割ったようですね」

 ろうそくの淡い光に赤く光る唇からまず飛び出したのは、非難するような言葉でした。

「何のことでしょう」

「とぼけなくても結構。知られてしまったなら仕方がありませぬ」

 沈黙が降りました。海鳴りにまぎれ、ろうが燃える雑音が聞こえました。

「……浦島子のことは瑞穂の国にも伝わっているはずでしたね。中塚様もご存じでしょう」

 再び口を開いた玉輝姫は、淡々とした表情で私を見ました。私も視線を合わせたまま、答えました。

「浦島太郎のことですか。話の筋ならだいたい覚えていますが」

「なら話は早い。お分かりになるでしょう。ここが一体なんであるか」

 しばらく考え込んで、まさかと思いました。到底信じられる話ではありませんでした。

「……にわかには信じがたい話ですが」

 遠回しに否定しましたが、玉輝姫は眉一つ動かしませんでした。

「中塚様はお帰りになるつもりなどないのでしょう」

「なぜそう思いますか。……向こうには許婚を待たせております」

 心の中で謝罪しながら、私は玉輝姫から視線を外しませんでした。玖珠古には帰りたくないと言いながら、玉輝姫にそう決めつけられるのは非常に心外だったのです。

 玉輝姫はしかし、にたりと笑いました。

「あら、ご冗談を」

「何を」

「そのようにくびり殺されかけても、まだ帰る場所がありますか?」

 気がつくと、私は床に組み敷かれていました。息がかかるほど近くに玉輝姫の顔があります。

 私は必死で抵抗しますが、細い腕は見た目に反し岩か何かのようにびくともしません。

「苦界に戻ることなどありませぬ」

 赤く腫れた唇が首筋の痣に触れました。死肉で撫でられているようなおぞましさに目を閉じ歯を食いしばって悲鳴をこらえました。

「それとも、古の栄華を取り戻したいと願うのは悪徳でありましょうか」

 どうでもいいからそんなものに私を巻き込むな。そう悪態をつきたくとも、恐怖に歪む口からは喘ぐような荒い息が発されるばかりでした。

 しかし、それもすぐに終わりを迎えました。

「浩二様!」

 闖入者の声に玉輝姫の力がゆるみました。その機を逃さず私は振り払いました。どういうわけか玉輝姫の体はあっけなく転がりました。私の手首は暗がりでも分かるほどくっきりと色が変わっておりました。

「玖珠古、逆らうか!」

 ひどい嗄れ声が玉輝姫の口から飛び出しました。その声は、いつぞやの夢で聞いた怪物と同じでした。そしてどこから取り出したのか、濡れたように光る懐剣で玖珠古に切りかかったのです。私は飛び起き、玉輝姫を後ろから羽交い締めにしました。ですがまるで勝負になりませんでした。わたしは振り回され弾き飛ばされ、壁に背中をしたたかに打ち付けました。玉輝姫は勢いもそのままに玖珠古に再度懐剣を向け、そのままもみ合いになりました。

 私は背中の痛みに咳込みながら部屋を見回しました。このままでは玖珠古が危ないと、それだけしか頭にありませんでした。そして這い蹲って奥へ進み、安置されていた鏡を両手で掴むと、玉輝姫の脳天めがけて振り下ろしました。

 嫌な手応えが鏡越しに伝わりました。玉輝姫はぐう、とうめいたかと思うと、力なく倒れました。二人の手のひらから飛んだ懐剣は床に転がり、鏡は私の手の中で鈍く光を反射しておりました。

 私はその場に膝を折りました。背中が呼吸のたびに疼きました。玖珠古もへたりとその場に座り込みました。潮騒に混じり、互いの荒くなった呼吸の音だけが社の中で響いていました。

 私が震えながらも手を玉輝姫の鼻へ近づけると、生暖かい空気が微かに、しかし規則正しく行き来していました。張りつめていた息を緩め、握りっぱなしであった鏡を床に放り出しました。玖珠古も、私の態度を見て玉輝姫の無事を知ったようでした。

「玖珠古さん、怪我は」

「わたくしは少し切っただけで……」

 頬から血を流しながら、玖珠古は視線を床に落としました。

「……もう、時間がありません。これ以上ここにいたら、浩二様にどんな危害があるか分かりません」

「玖珠古さんはどうするのですか。このままここにいたら、あなただって無事では済まないでしょう」

 主人である玉輝姫に楯突き、あげくに客人を逃がしたとなれば、相応の罰が与えられるに違いありません。しかし玖珠古は首を横に振り、微かに笑顔を浮かべました。

「お気になさらないでください。ここにいる端女はわたくし一人だけ。玉輝姫様もそこまで無体なことはなさらないでしょう」

「しかし……」

 私の口を、玖珠古の華奢な手が塞ぎました。

「ここがわたくしの生きる場所です。わたくしはわたくしの生きる場所で生きてゆきます。だから……浩二様も」

 それから先は嗚咽にまぎれ、聞き取ることができませんでした。



 そして、私は帰ってきたのです。

 この首の痣についてですか? 確かに混乱させたかも知れません。ええ、私が海に身を投げる前にできたものです。ある人物の名誉のために語り出しについては多少の脚色をしています。散歩中に海に落ちたというのも嘘になります。……いえ、私が海に身を投げたのは、私の不徳ゆえのことです。あの人は、何も悪くないのです。

 ……ええ、記憶喪失は嘘です。ここの医者は精神についてなど小指の先ほども知らないことは分かっていましたから。嘘を吐いたのは、私が弱いからです。いったいどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。特に、彼には。

 玖珠古の言っていたことは、私にとっては本当でした。あの場所で過ごしたのは二週間と数日でした。でも帰ってきたら一年と何ヶ月か経っていました。父は死んだそうです。あの人の父親も。兄は一度留年して、彼はまじめに進級してるとか。何も覚えていないとうそぶく私に、母が全て教えてくれました。私は取り残されました。そして、あの人も私のせいで取り残されてしまいました。私はそれを償わなければならない。

 あなたもここで聞いたことは忘れなさい。私もあなたがここに来たことはまた忘れたことにする。だから……そんなに自分を責めないでいいんだ――弥生さん。

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