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Kの水葬  作者: 未設定
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3

 私が彼の発見を知ったのは、彼の兄の中塚健一氏が一報を寄越したからである。

 健一氏は高校、大学と私の先輩を務めている人物だ。高校では同じ部活で、彼と知り合う前から交流があった。しかし豪放磊落な健一氏と物静かで気の弱い彼が一歳違いの兄弟だとは今でも信じがたい話である。顔も体格も似ているところを探す方が難しく、同姓の赤の他人と言われたら大半の人は納得するだろう。唯一の共通点は、互いを嫌っている点だろうか。それでも仲はそれほど悪いようには見えなかった。喧嘩するほど云々というが、そんな程度である。

 私は諸事情から高校二年生の冬に彼との縁を切ったが、健一氏とは付き合いを継続していた。それも私が知らずに同じ大学の同じ学部に進学したせいで留年した健一氏とはち合わせたというつまらない理由からである。健一氏も一連の話は知っていたらしく気まずい再会となったが、今ではそれなりに会って話す程度になっている。

 その健一氏だが、実家に関しては反吐が出るほど憎いらしい。継ぐ気はさらさらなく、その上実家のことが話題になるだけでジンマシンが体いっぱいに広がり呼吸困難に陥るのだと酒の席でいつも宣っている。そんな家への重度アレルギー持ちの健一氏だが、弟の様子は気になったらしい。そこで私に頭を下げて拝み倒してきた。私が今更彼と顔を合わせる気などないと断ると、にやりと笑いながら声をひそめてこう言った。

「お前も恨みや鬱憤を晴らすちょうどいい機会じゃないか。今あいつはなんにも覚えていないそうだから、もちろんお前を見ても逃げない。そこを一発殴っちまえ。なに、あそこの医院のじじいは精神についてなんか小指の先ほども知らないから、暴れたから抵抗したと言えば無罪放免だ」

 ひどい兄貴である。



 彼の家は海沿いの小高い丘にある。高校時代、数度遊びに来たことがあるが、そのたびに彼が「最悪な立地だ」とこぼしていたのを思い出す。

 健一氏からついでに実家に挨拶もしてきてくれと言われたとき、一歳年上と言うだけで先輩面をする三回生二年の男の首を絞めたくなったのは言うまでもない。母親は詳しいことを全く知らないからと言われたところで、彼の家は私にとっても鬼門である。この場にいるのは折れたからにほかならない。おごると偽られた焼き肉の代金は、一般家庭出身の私の財布には多すぎた。

 やっと見えた中塚家の門はまるで寺か何かといったような構えである。塀にポツリと埋まった呼び鈴を鳴らす前に、ふと思い立って振り返る。曇天の下、賑わいが見えない小さな商店街の終点では海水浴場がつまらそうな顔をしてあくびをしていた。彼がいる医院はその近くの崖際にあったが、林が邪魔をして商店街にすぐ行けるような車道は通じていないようだ。港があるはずの方向は木が生い茂っていて見えなかった。東京の狂乱なぞ関係ないというように、この街は十年前と同じ姿を留めているのだろう。

 こう寂しく見えるのは、季節が冬だからであろうか。頭を振り、呼び鈴のボタンを押した。

 予想していたよりずっと老いた彼の母親は、私の来訪を疲れた笑顔で迎えた。立派な門には不釣り合いな表情だった。

「久しぶり、川崎君。遠いところからわざわざ……」

 おばさんはそそくさと、くぐり戸越しに手招きした。

 中は相変わらず広い。小さな家ならもう一軒建ちそうな広さの庭には白い玉砂利が敷き詰められ、常緑の植木も形良く手入れされている。団地で育った自分にはまず家の前にこれだけ広い庭があるということが信じられない話だが、昔私の家に遊びに来た彼はあのスペースに家族四人が暮らしていることの方が信じられないと言っていた。

 ――どうしても思い出す。

 足を伸ばして寝られそうな広さの玄関で靴を脱ぎ、案内された客間のソファに浅く腰掛けた。横に置いた風呂敷包みは渡すタイミングを逃したものだ。この部屋も廊下も、どういうことか昔に比べ煤けた雰囲気が強くなっていた。

 最後に遊びに来たのは三年前か。私はそこで北村と彼の関係を知ったのだ。初恋の相手と親友が許婚同士など、いったい誰が想像するだろうか。後で健一氏に聞いた話によれば、あの場に居合わせた二人も全く予想していなかったらしい。それが我々のこじれた関係に対してか、それともその場で発覚したことに対してなのかは聞いていない。

 私は首を振った。もう過ぎ去った過去で、思い出すべきではない。思い出したくもない。

 ドアが開き、おばさんが盆を持って入ってきた。

「ごめんなさい、お待たせして」

「お気遣いなく。これ、よろしければ」

「あら、こっちこそそんな気を使わなくていいのに」

 テーブルの上に緑茶が並べられたのを確認して、菓子折りを渡す。おばさんは一度退室してから、クッキーを載せた皿を持って戻ってきた。老いたとはいえ、仕草の一つ一つから育ちの良さを感じさせた。

 おばさんは菓子と茶碗を交互に見て首を傾げた。

「ちょっとちぐはぐかしら。ごめんなさいね、どうにも勝手が分からなくて」

「いえ。……あの、お手伝いの方は」

 昔は丸い顔の家政婦がいたはずだ。おばさんは皿をテーブルに置いて、私の対面に座る。

「ええ。主人が亡くなってからすぐ、萩原さんが辞めてしまったの。今は週に何回か来てくれる人に頼んでるのよ」

 頬に手を当てため息をつく。私は緑茶で口を潤しながら、こう流されると人の死というのも現実味のない話になるのだと思った。

「おじさん、亡くなられた、んですか」

「今年の九月はじめにね。……そうね、川崎君は東京にいたものね。主人もかわいがってたもの、知らせれば良かったわね」

 実を言えば、団地暮らしというただそれだけで初対面の私を貧乏人扱いしてきたこの家の父親にはいい印象がない。かわいがってたと言われても心当たりもない。ついでに、葬式に出る義理もない。ただ、当時健一氏は帰省すらしていなかったはずだ。親の死に目にも帰らなかったのだろうか。

 そんな私の心中を知らず、おばさんは視線を窓の外へ向けた。

「でもね、私は良かったと思っているのよ。主人は浩二の姿を見ずに死ねたんだもの」

 その言葉には悲しみの他に、哀れみと羨みが混じっているように聞こえた。あんなことになった息子の帰りを素直に喜ぶことはできない。ある意味で、彼女はほとんどを失ったと言えるのかもしれない。残っているのは、この家だけだ。

 時代に取り残されている。私はそう思った。北村も、この家も。私には家の重さなど欠片も分からない。どうしてそこまで固執するのか、理解できない。

「ねえ、川崎君」

 呼びかけられて、我に返る。おばさんは茶碗を茶托の上に戻した。

「浩二の部屋に、たくさん本があるの。あの子ももう駄目なようだから、全部処分しなければいけないんだけど……もし欲しい本があったら持っていってくれないかしら」

 私は逡巡してから頷いた。確か、高校時代に貸したきりになっている本が数冊あったはずである。

 席を立つおばさんについて行く。案内された部屋は、壁一面に本棚が並んでいた。

「終わったら声をかけてちょうだい。客間にいるから」

 そう言って出て行くおばさんを見送る。それからぐるりと部屋を見回して、私は深くため息をついた。貧乏人のつもりはないが、親の財力が違うと無駄遣いできる額も違うらしい。びっちりと詰め込まれた本棚の中にはハードカバーから文庫から、様々なサイズの本が揃っていた。冊数は余裕で四桁に届くだろう。サイズごと作者別に整理されているのだけが救いと言えた。しかし、地団駄を踏みたくなるほどうらやましい光景である。

 私は早速文庫コーナーから高校時代に貸しっぱなしになっていたものを抜き出した。横溝正史と松本清張が一冊ずつ。夢野久作も貸した覚えがあるが、表紙が表紙ゆえにあの上品な婦人に見られたら誤解されかねない。しかしこれだけあるなら買えばいいものを。私も彼から借りっぱなしの本が両手足の指ほどあるからそれ以上は言えないが。

 学習机の上を借り、一旦抜き出した本を積む。問題はここからである。

 下手に高価な本を持ち出せば不審がられるかもしれない。かといって、二束三文で買えるものばかりを持ち出してもいざというとき懐の足しにならない。自分が興味のあるもの。そして、高値で売れそうなマニアックな本。この二つに分け、それぞれ数冊ずつ貰っていくことにした。

 この時私は全ての因縁を忘れ、盗みきれない財宝を前にした盗人の心理になっていた。

 後者の観点では、文庫は必要ない。しかし前者としては、東京で借りている寝床のスペース上、サイズは小さい方がいい。なら、まず自分用に数冊。

 とはいえ、特に興味をそそられるものもない。芥川龍之介の全集は非常に魅力的だが、これを持ち帰るのは無理である。

「……ん?」

 その全集が並んでいるところに、不自然な出っ張りがあった。出っ張りと言うには凹凸が少なすぎるかもしれない。

 該当部分の本を引き抜く。そこにあったのは大学ノートだった。B5サイズのものを半分に裁断したもので、表紙には六桁の数字だけが記されている。私は考え無しにページをめくった。


『今日も孝大と弥生さんが談笑しているのを図書館で見た。孝大といると、弥生さんは自分が見たことがないような笑顔を浮かべている。なぜ、あれほど楽しそうに笑えるのだろうか。私といるときは義務のように作り笑いを浮かべているのに。』


 私は目を見開いた。

 一体いつのことだ。北村と談笑したのなんてもうずっと昔の話だ。そしてそれを彼に見られていたというのか。

 表紙の数字を確認する。前半四桁が西暦だとすると、ちょうど高校に通っていたころのことになる。

 これは彼の日記、なのだろうか。金はあるのだからもう少しどうにかなるだろう、と冗談を頭の中で繰り返して心臓を落ち着けた。過ぎたことだ。しかし、動揺は隠しきれない。

 見られていたのか。よりによって彼に。

 震える手でもう一度ノートを開く。少し行きすぎたのか、日付は数日進んでいた。


『ようやく落ち着いてものを考えられるまでになった。

 孝大は弥生さんが私の許婚だと知らないはずだ。そして、弥生さんも彼が私の友人だとは知らないはずである。私は彼のことを話したことはない。

 確かに互いの学校は近い。だが、それぞれ何百人いる生徒の中で、私の親友と許婚が親しくなるなど、一体誰が考える?

 とにかく、破いてしまった彼の本を弁償しなければ。何をするのもそれからだ。』


『私は孝大が憎い。なぜ私と親しくなったのだと文句を言いたい。そして、許婚を誑かした悪役として恨むには人が良すぎることを嘆きたい。

 今日は弥生さんと帰りの電車が同じになってしまった。いつもなら彼女は一本早いはずだ。そして、どこか上の空で窓の外を見ていた。

 彼女にとって私は邪魔者だろう。私は彼女を女性として愛してはいないのだから。』


『私は彼女を愛していない。しかし、孝大は彼女に少なくない好意を抱いている。私が弥生さんの立場であっても好意がある人を選ぶだろう。

 自覚をしてしまえば後は簡単だ。私は彼女を愛していない。私は彼女を愛していない。だが許婚という親が勝手に決めた時代錯誤の決まりのせいで、我々に選択肢はない。』


『私と弥生さんの関係が孝大にばれた 兄が父を毛嫌いしている理由もよく分かった


 彼が私の立場であったら良かったのだ そうすれば弥生さんも愛する人と一緒になれたろう』


『孝大が私に絶縁してくれと懇願してきた。

 顔を合わせるのさえ辛いと言っていた。弥生さんとも、また。

 どうしてこんなことになったのだろうか。』


『どうして彼女と結婚しなければならないのだろう。

 彼女のことは嫌いではない。だがそれは幼なじみとしての好意であり、彼女と結婚し末永く暮らすことなど考えられないことだ。それを納得できるだけの理由もない。私のためにも彼女のためにもならない。

 時代遅れにもほどがある。

 親を説き伏せて大学進学の許可を取った。経済など興味はないが、とにかくここから逃げなければならない。』


 私は本棚に寄りかかり、目を閉じた。

 もう、過ぎた話だ。もうあの頃の気持ちも思い出せないほど昔の話だ。そう自分に偽り、私は静かに目を開いた。

 誰の過失でもないことは明らかなことだ。日曜日のことだったと思う。たまたま私がこの家に来ている時に、北村が何かの用事で現れて、はち合わせた。三人が三人とも呆然としている中で、事情も何も知らない彼の父親が誇らしげに北村のことを彼の許嫁だと紹介したのだ。

 先程知った事実を付け足せば、彼はすべてを知っていた。しかしそれだけで彼の責任だと言い切れるだろうか。

 あの時のことだけで彼を憎むほど私はもう子供ではない。仕方ないことだったのだ。初恋がくすぶっているように、あの時の全身の皮膚を剥かれたような痛みもまだ覚えている。しかし私は非力な部外者に過ぎず、何が出来るわけでもなかった。それは健一氏にも言われたことだ。

 だが。

 私はノートを放り出した。絨毯の上を滑って対面の壁にぶつかり、止まる。

 一年前の一件を省みて彼を許せるほど大人でもない。あれは私と北村に対する最大の侮辱だ。



 その時はちょうど盆休みだった。里帰りしていた私宛に彼から電話があり、久しぶりに会わないかと持ちかけてきたのだ。無論、最初私は断った。しかしどうしても話さなければならないことがあると押し切られ、しぶしぶと承諾した。健一氏とは関係の修復ができていたのもあるだろう。当時には既に、彼らのことはしょうがないのだと自分を表向き納得させていたから、純粋な気まずさと僅かな懐かしさがあった。

 実家近所の喫茶店で待ち合わせをし、しばらくぶりに見た彼はどこかあか抜けていた。訊けば、地元の大学に通っているとのことだった。高校卒業を機に籍を入れる予定だったが、将来のことを考えて進学したのだという。

 やはりと言うべきか気まずさが勝り、さっさと用事を済ませようと私は彼を促した。しかし彼は口ごもった。言わないなら帰るぞと脅しをかけて、やっと話し出した。

 何でも、夏の初めに北村の父親が倒れたのだという。余命幾ばくもないと医者に診断され、跡目を滞りなく彼に継がせるために大学を辞めた上での一刻も早い入籍を望んでいるらしい。余談だが、私はこの時初めて許婚云々の内情を知った。結局部外者でしかなかったのだと、一抹の寂しさと自分の無知さへの苛立ちがもやもやと沸き上がっていた。

 まぎらわすために、結婚式には呼ばなくていいと皮肉を返した。彼は空になったコーヒーカップを口に運び、何故か私が北村についてどう思っているかを尋ねてきたのだ。

 何を言っているのかと胡乱に思っていると、あろうことか彼は遠回しに駆け落ちを進めてきた。北村の許婚が、北村との駆け落ちを手伝うといってきたのである。

 今でこそ日記の内容から彼の言わんとしていたことが分かる。しかし、当時の私が感じたのはあまりにも不真面目な彼の態度への怒りであった。

 私はこいつが大学を辞めたくない一心でこんなふざけたことを言っているのだと思った。そのために昔の純情を利用しようとしているのだと、腸が煮えくり返りそうなほどの激怒を覚えた。

 一つ二つ暴言を吐き捨て、私は自分の勘定だけを済ませて店を出た。そして近くの公衆電話に籠もり、財布から小銭がなくなるまで健一氏にお前の弟はどうなっているのだと延々と愚痴を聞かせ続けた。健一氏もこれには憤っていた。今度説教しておくと鼻息荒く宣言されたが、三日後に掛かってきた電話越しの声は憔悴していた。

 彼が失踪したのだという報を、私は怒りを抱えたまま聞いたのである。


 実を言えば、私は彼がこの一年間どこかで遊んでいたのだろうと思っている。あの痣や怪我もどうせろくでもないことに巻き込まれてできたに決まっている。その考えは今更覆らない。だが、この日記で分かったこともある。

 動揺はすでに収まり、代わりに息をするのさえ億劫になるほどの倦怠感が全身を包む。

 悪いことをしたとは思わないが、罪悪感があるのも確かだ。

 彼は北村を愛していないというよりは、結婚して一生この街に縛り付けられるのが嫌だったのではないだろうか。大学進学は手段でしかなく、ただこの家から逃げ出したかったのだろう。昔、健一氏が酒の席でぼやいていたのを思い出す。

「別に俺じゃなくてもいいんだ。中塚の長男だったら誰でもいいんだ。そんなもんなんだよ、結局。どうせろくでもないしがらみしかないんだから、あんな土地さっさと売っぱらっちまいてえなあ」

 これも私には理解しがたい話であった。だが、言わんとするところは家を継ぐ云々よりは分かり易い。それと同じ事を、彼も感じていたのだろうか。彼は許婚を、北村を愛してなどいなかった。彼の愛する人と結ばれた方が幸せだとの考えに、私は共感する。共感するが、同意はしない。そして彼がすべて忘れた以上、もはや真相は誰にも分からない。

 だが北村はどうだろうか。理由は分からないが彼女は許婚に執着している。同時に病院で会った時の怯えたような目を思い出した。昔からどこか陰のあるひとではあったが、あそこまで追いつめられたような性格ではなかったはずだ。

 私はしばらく考え込み、そして頭を振った。

 腕時計に目を落とす。そろそろ出発しないと電車に間に合わない。深く息を吐いてからノートと本を元のように戻した。もともと自分の物であった二冊の文庫だけ持ち、部屋を後にした。



「本当にそれだけでいいの? 遠慮しなくてもいいのよ」

「いえ。お気遣いありがとうございます」

 私は靴を履き、中塚のおばさんに会釈した。荷物が増えると大変だからと誤魔化して戸に手を掛ける。思い出したようにおばさんはそうそう、と話し出した。

「そういえば、あなたは弥生さんと知り合いだったわよね? ほら、北村の。海岸沿いに住んでるんだけど」

 手が止まる。この人はあの顛末を知らないはずだ。不意打ちを食らった私は心を静めつつ答えた。

「ええ。互いに顔を知っている程度の間柄ですが」

「もし良かったら顔を見せてあげてくれないかしら。 あの子、ずいぶん困ってるみたいだから」

「……どういうことでしょうか」

 おばさんは頬に手を当てた。

「浩二がああなったのは自分のせいだって思い詰めてるみたいなのよ。知り合いが顔を見せれば、少しは気持ちも楽になるんじゃないかしら」

「……そう、ですか」

 目の前の婦人に、既に会ったとは言えなかった。会って、どうにもならなかったのだと伝えられなかった。おばさんは半ば独り言のように言葉を続ける。

「一年前から、ううん、もっと前からかしら、とにかくずっとなのよ。北村の家を守ることに躍起になっててねえ。あの子、昔はそんなことなかったのに。……とにかくね、時間があったらでいいの。弥生さんに会ってあげて」

 私は曖昧に頷いて中塚家を出た。

 鈍色の空には微かな隙間ができ、暗い青空が覗いていた。息を吐くたびに白く散らされ、みるみるうちに指先から熱が消えていく。

 私は腕時計を見た。乗る予定の電車の後にはもう一本余裕がある。しかしそれすら逃せば、東京のアパートに着くのは明日の朝になるだろう。

 目を閉じれば、まぶたの裏にあの怯えた目が浮かび上がる。そして、今は遠くなってしまった図書館でのひとときも。

「……弥生、さん」

 せめて笑っていて欲しかった。

 彼がああなった以上ほとんど望みのない話であることは分かっている。日記によって彼の苦悩も知った。全てを忘れて妄想を抱いて生きる方が彼にとっては幸せだろう。だがそれに寄り添う北村は?

 私はもう一度腕時計を見た。そして、坂道を急ぎ足で下っていった。公衆電話を探して、まず健一氏に北村の電話番号を聞かなければならない。

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