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待合室は爺婆が占拠していた。
私は老人特有の臭いに閉口しながらテレビの前を横切る。時代劇のクライマックスシーンを邪魔をされた爺婆どもは汚物を見るような視線を向けてきたが、そんなものは無視だ。
受付の看護婦に会釈し、スリッパを脱いで履き替える。蜘蛛の巣がかかった古い靴べらを使う気にもなれず、仕方なく上がり口に腰を下ろした。
靴ひもを縛るために手を伸ばすと、服の袖から腕時計が覗いた。彼の病室にいたのは五分にも満たない時間だったらしい。さっさと切り上げた私に彼は何も言わなかった。ただ感情の読めない顔でじっと私を見ていた。
靴を履き終え、座ったままにコートのポケットから出した時刻表の写しに目を落とす。次の電車は二時間以上待たないと来ない。余裕と言えば聞こえはいいが、それまでやることがない。ここは辺鄙な海辺の片田舎で、こんな時勢でもコンビニエンスストアの一つもない。とにかく約束を取り付けてある彼の実家に挨拶でもしにいこうかと計画を立てると、真上から影が差した。
「川崎さん?」
驚きが混じった懐かしい声に顔を上げる。よそ行きの品のいい服を着た女性が硬い表情で私を見下ろしていた。化粧は薄く、髪も染めていない。東京の添加物だらけの女性に慣れた私の目に、それは新鮮に映った。
私は唾を飲み込んで彼女を見た。彼女と会うつもりはなかった。今となっては言い訳にもならない言葉が脳内を駆けめぐる。乾いた口をどうにか動かし、当たり障りのない言葉を探して、返す。返事とはこれほどまでに力のいる作業だっただろうか。
「久しぶり、北村さん」
北村弥生はぎこちなく頷いた。
医院の外にあったベンチに腰掛け、私と北村はぽつぽつと近況を交換した。寒さがコートをすり抜けて体温を奪っていくが、あの目玉がぎょろついた爺婆どもに囲まれて落ち着いた会話ができるとも思えない。
北村はこの街の地主の一人娘だという。彼女と知り合ったのも高校時代のことで、学校こそ違った(そもそも私と彼が通っていたのは男子校で、北村は女子校である)が、縁があって親しく話す程度の仲になっていた。あることを切っ掛けに交流は途絶えていたが。
「川崎さんも、あの人のお見舞い?」
「ああ。健一さんに頼まれた」
「……そう、ですか」
私はそつのない会話ができていることに安堵しつつ、心のどこかに鬱屈した何かが溜まっていくのを感じた。
彼女は私の初恋の相手であり、そしてあの彼の許婚でもある。一人娘であるせいで、代々の土地を継ぐには婿を取らなければならないのだそうだ。
「…………」
私が北村と知り合ったのは高校時代のことだ。出会いは彼女が取り落とした本を拾ったというベタなものだった。
私の口が上手く、彼女が大らかな人であればそれだけで親しくなったのかも知れない。だが現実には私は口下手で、彼女は警戒心の強い人だった。今は昔、どうして彼女が心を開いてくれたのか覚えていない。本の趣味はかぶっていなかった――私はいわゆる文学青年というやつだが、彼女は天体についての本を片っ端から借りていた――からなおさらだ。
とにかく、私と北村はいつの間にやら顔を合わせれば立ち止まって話す仲になった。そして、私の中でそれが友情から恋慕の情に変わるのに時間は掛からなかった。
北村は、弱いひとだ。本人はきっと認めようとしないだろう。情のこわい女性であることは間違いない。だがそれはガラスでできたナイフのような強さだ。どれだけ切れ味が良かろうと、衝撃によって砕けてしまう。
だから――いや、もう終わったことだ。もう、終わったことなのだ。
ほかの話題はすぐに途切れ、彼のことになっていた。北村は膝に視線を落とした。
「ここの先生はそういうことは専門じゃないから、どこか受け入れてくれる病院を探すべきだとおっしゃっていました。いつ何があるか分からないからだそうです」
北村の声に覇気はない。昔から明るい性格とは言い難い人ではあったが、こんなにぼそぼそとしたしゃべり方はしなかった。静かな激情を秘めていた目も今は赤く充血して、ひっきりなしに視線を動かしている。変わってしまった、というのが正直な感想だった。しかしそれでも高校時代の面影はあり、まるで知らない相手と親しく話しているような違和感があった。
「北村さんはどうするんだ。ああなってしまった以上、もう縁談もご破算だろう」
そもそも今時許嫁というのがおかしいのだ。当初は二人が高校を卒業したらという話だったのだからなお恐ろしい。確か、彼の大学進学で延期され、彼が失踪するほとんど直前に、急に籍を入れるという話になっていたはずだ。だが昔から頑固だった彼女は、私の悪い予想通りに首を横に振った。
「そういうわけにも行きません。私の家は母も父も亡くなって、どうにかしなければいけないことは分かっているけど、でもあの人を見捨てるわけには……」
「まだ先があるのに?……言っては悪いが、あんな狂人に人生を捧げるつもりか?」
「それは……はい。この一年間、なにがあったかは分からないけれど、それでも私はあの人の許嫁ですから」
私も彼女もしばらく無言だった。その間も冷えたベンチは無情に熱を奪っていく。吐く息は白く濁り、鈍色の空からいつ雪が降り出してもおかしくないだろう。
昔はこうやって並んで座っているだけでどこか心躍ったものだ。しかし鈍重になった今の心はむしろ苦痛を訴えてくる。絶縁した時のことを思い出したくないのが半分、もう半分は変わってしまった彼女をこれ以上見たくないというものだ。
長い沈黙を破り、先に再び口を開いたのは北村だった。
「でも……これで――」
「……北村さん?」
我に返ったように北村は白い顔で首を横に振った。
「ごめんなさい、何でもありません。ところで川崎さんはいつ帰られるんですか」
「彼の実家に挨拶したらすぐに。電車の本数が少ないし、泊まるほどの用事でもないから」
「……そうですか。私は、これで。さようなら」
北村は立ち上がり、バッグを肩に掛けた。軽い会釈をした後、医院の中へ消えていく。
私は腕時計を見た。あと一時間五十分、暇を潰さねばならない。




