独白-1
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ではお話しましょうか。
しかし、私の口から語れる事は多くありません。あの時のことは、私の心を離さず絡めとりながら、その実まったく近づく事を許さないのです。阿片の虜となった者は無気力となりますが、今の私はまさにそれでしょう。
私はその時海沿いの崖の上にいました。その日は満月で、岩の表面の凹凸まで見てとれるほどでした。海は穏やかで、月の光を砕いたような白波が泡を立てて打ち寄せていました。寝付かれないときは、よくその辺りを散歩して眠気を誘うのです。
しかしその時、私は足を滑らせて崖下に落ちてしまいました。あっと声を上げる暇もなく海に転落し、耳の脇で泡の音がうるさかったことだけは良く覚えております。そして気づいた時には、私は見覚えのない部屋の中にいたのです。
油が焼ける臭いがしました。部屋の隅でちろちろと赤い光が揺らめいて、天井の木目を照らしていました。六畳ほどの部屋には行灯のような明かりと布団以外なく、私はその上に寝かされておりました。眼を動かしても、窓がないせいで今が昼なのか夜なのかさえ分かりません。体のあちらこちらが痛み、熱を持っていました。そして、ひどく喉が乾いていました。
意識がはっきりとした後も、私は布団の中でじっとしていました。油の焼ける慣れない匂いと嗅ぎ慣れた海沿いの腐臭が鼻孔を突きました。ここがどこであるのか、皆目見当もつきませんでした。ただ私の細く乾いた息の音だけが、妙な残響を伴って部屋に満ちていました。
どれほどの時間が経ったでしょうか。だんだんと近づいてくる足音に、目を開けて身を固くしていると、足下の方にある板戸が開きました。
入ってきたのは、古風な衣装に身を包んだ少女でした。年の頃は十四、五くらいでしょうか。小さな炎の暗い明かりの中でも、美しい顔立ちをしているのが分かりました。たすきで長い袖をまとめ、細い手には桶を持っていました。
少女は桶を私の頭の近くに置きました。そして私の顔を覗き込みました。額に当てられた手のひらは冷たく、熱がこもった頭に心地よくありました。
「お目覚めになられましたか」
銀の鈴を転がしたような、涼やかで優しい声でした。私は喋るのも億劫で、頷いて答えを返しました。少女は手を離すと、代わりに畳んで水気を絞った布を載せました。そしてもう一枚、今度はたっぷりと水気を含んだ布を私の口に当てました。
「今しばらくお休みくださいませ」
そう言われた途端、とろとろと心地の良い眠気がふっと襲いかかりました。次に目を覚ました時に少女の姿はなく、板戸のわずかな隙間から朝の光が射し込んでいました。
私は上体を起こしました。体のどこかを動かす度に、まるで悲鳴を上げるように骨や筋肉が軋みました。布団の上に落ちた布を掴み、冷えた板敷きの床を這うように進み、戸を開けました。
欄干の向こう側に広がっていたのは海でした。とろりとした紺碧の海がどこまでも続いていたのです。私は廊下に這い出て欄干のすぐ下を覗き込みました。断崖絶壁が十数メートルも続き、尖った岩が波間を割って突きだしておりました。ふと自分の体を見下ろし、そこで模様のない単衣の着物を着ていることに初めて気づきました。
波の砕ける音を聞きながら、私はその景色をしばらく眺めておりました。見とれていたと言うより、呆然としていたと言った方が正しいでしょう。ここがどこであるのか、全く見当がつきませんでした。少なくとも、私がいつも歩いていた海岸の近くに、このような場所はありません。
その時、ぎしりと床板が鳴りました。そちらを見やると、昨日部屋で私の看病をしてくれていた少女が、しずしずと歩いてきておりました。
明るい場所で見る少女は、やはりひどく美しいことが分かりました。水晶のような、侵しがたい清純で硬質な美しさでした。朝の光に照らされ、頬の柔らかな産毛や、けぶるような長いまつげが輝いておりました。唇とまなじりに差した紅が、年相応に残る幼さの中に、どこか蠱惑的な色香を漂わせておりました。
少女は私をしかと見つめ、その花のような唇を開きました。
「お体の具合はいかがでしょうか」
少女に見とれていた私は我に返り、まだ体の節々が痛むことを正直に答えました。
「とはいえ動けないほどではありません。それより、ここはどこです?」
「ここはたつのみやにございます。あなた様が東の海岸に倒れておりましたところをわたくしが見つけ、僭越ながら手当をさせていただきました」
たつのみやがこの建物の名前でしょうか。それについて再度尋ねると、少女は肯定の返事を返しました。
「まだご静養なさっていてください。今、朝餉をお持ちいたします」
一礼して背を向ける少女に、私は慌てながら最も気になっていた問いを投げかけました。
「待ってください。君の名前は?」
少女はゆっくりと振り返りました。少し驚いたように目を瞬かせ、それから上品に一礼しました。
「玖珠古、と申します」
くすこ。私は噛みしめるように口の中で繰り返しました。
玖珠古の用意した食事はずいぶん質素なものでした。
薄いかゆに、漬け物だけの朝食。それでも腹に石でも詰めたような私の体調には少し堪えました。手当をしてくれた上に食事まで用意してくれた心遣いは非常に嬉しいものでしたから、ゆっくりと時間をかけて食べきりました。
食事を終え、食器を下げに退室した玖珠古を見送ってから、私は小さく悲鳴を上げながら布団の上に寝転がりました。まるで年寄りになったように体のあちらこちらが軋みました。
頭の中を占拠しているのは、一体ここはどこなのか、ということでした。玖珠古には聞きそびれましたが、服装も、部屋も、食器も、時代錯誤としかいいようがないほど昔のものでした。もしかしたらこれは何か私を驚かせるために用意された舞台のセットなのではないかとも思いましたが、私は別に有名人でもありませんし、なにより部屋に傷や劣化として刻まれた年月は、どう見ても再現されたものとは思えませんでした。
とはいえ言葉も通じましたし、恐らく家の近く、そうでなくても海外ではないことは確かだろうと思われました。
天井を眺めながら思案に耽っていると、床を伝わって遠くからの足音が聞こえました。恐らく玖珠古だろうと見当をつけ、私は体を起こしてはだけた襟を直しました。
想像通り、戸を開けたのは玖珠古でした。体の具合について一通りの受け答えをしてから、彼女は本題を切り出しました。
「我が主であり、この社の巫女にあらせられる玉輝姫さまが、あなた様のお話を伺いたいとのことです」
世話になった手前、断るわけにも行きません。本当は体の痛みもあって気が進みませんでしたが、玖珠古の手を借りてなんとか立ち上がると、布団を適当に直して部屋の外へ出ました。
玖珠古に案内されるままに長い通路や急な階段を下り、たどり着いたのは南の砂浜に建つ大きな社でした。装飾や塗装はほとんどなく、原始的で神秘的な雰囲気を漂わせていました。分厚い板葺きの屋根を支えるのは、一抱えはありそうな柱です。建物の半分ほどが海に突き出すかたちとなっており、正面にある階段は半ば水没しておりました。
玖珠古に促されて脇の通路から社の中に入ると、香の匂いに乗って奥の方から艶やかな女性の声がしました。
「ようこそ客人。わたくしが玉輝にございます」
暗がりに慣れてきた目をこらすと、外見に見合った広さの部屋の最奥に、小さな鏡を背にして女性が座っているのが見えました。
美しい女性でした。長い黒髪を結わずに流し、口とまなじりには玖珠古と同じように紅が差してありました。しかし彼女から受ける印象は、玖珠古とは全く違うものでした。玖珠古は水晶にたとえましたが、彼女は花、それもその身に毒を隠す鈴蘭や鳥兜のような艶めかしく恐ろしげな美しさでした。
私は何となく落ち着かない自分を宥めすかし、入り口から少し入った床の上に正座して挨拶を返しました。
「どうもご丁寧に。中塚浩二と申します」
「中塚様とお呼びしても?」
私が答える前に、玉輝姫は言葉を続けました。
「このたつのみやに客人など、いったい何時ぶりでございましょうか。中塚様はお怪我もなされていることですし、どうぞ時を忘れてゆっくりとご養生なさいまし」
玉輝姫は婉然と微笑みました。しかし私が感じたのは蛇に睨まれた蛙のような、身が竦むような感覚でした。
「あの、その前に一つ伺いたいことが」
「なんなりと」
「ここはどこでしょうか。どうも私は地理に疎いもので。気を失う前は実家近くの……●●県の海岸にいたはずなのですが」
玉輝姫はしばらく微笑んだまま微動だにしませんでした。そして、言い聞かせるように赤くぽってりとした唇をゆっくりと動かしました。
「ここはたつのみやにございますれば、そのような問いは野暮でありましょう。今はご養生なさいまし。過去の栄華を真似ることはできませぬが、たつのみやの名に誓って不自由はさせませぬ」
訳がわかりませんでしたが、とにかく怪我人なのだからじっとしてろという意味に取ることにしました。少し会話を挟んだ後に、今度はさりげなく場所についての質問をしましたが、玉輝姫は論点をずらして答えました。
今思えば、わざとだったのでしょう。




