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Kの水葬  作者: 未設定
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1

 彼には元々精神薄弱の気があった。


 その時、私は医者の後ろについて歩いていた。

 古い木製の扉が並ぶ廊下には、私と医者のほかに人はいない。この入院棟は今、彼以外の患者はいないそうだ。冬木立をすり抜けて差し込む光は、冷えて淀んだ空気にうすぼんやりと溶けている。

 隅に埃が溜まる廊下は清潔とは言い難く、古びた建物特有の匂いも相まって陰鬱さを感じさせた。ここが戦前サナトリウムであったことも関係するのかも知れなかった。梁や桟の隙間にこびりついた死の臭いは、年月を経たところでそう簡単には取れないのだろう。

「川崎さんでしたか。彼とはどういった関係で?」

「高校の同輩です。私が上京してからは疎遠になっていましたが」

 医者の質問に私は適当に答えた。この医者は内科医だそうだが、地域に一つしかない医院という実情から外科的なこともこなすという。しかし、話題に上がっている彼については専門外と言えるだろう。

 一年前、正確には一年と三ヶ月前に失踪した彼が発見されたのは、約二週間ほど前のことだ。聞いた話によれば、時代錯誤な服装でここの近くの浜辺に倒れていたらしい。神隠しだとどこぞの三流ゴシップ雑誌が書き立てていたのを見せられたが、そんなオカルティックな理由で人が消えるわけがない。問題は彼の頭にあった。

「彼の様子はどうなのでしょうか」

 私の問いかけに振り返るでもなく、医者は忌々しそうに頭を振った。

「発見当時は首の圧迫痕と、体のあちらこちらに痣やら切り傷やらがありました。今は傷こそ残っておりますが元気なものです。……精神の方は専門ではありませんので詳しいことは分かりませんが、健忘と、妄執に取りつかれているといったところでしょうか。中塚の奥さんは極力家の近くに留めたいようですが、私としてはさっさと専用の病院に移って頂きたいところですがな」

 数秒黙った後、他の患者の精神安定上よろしくない、と慌てて付け足した。私が口を挟む間もなく気を取り直すように一つ咳をして、医者は振り返る。

「あなたも思い直すべきではないですかな。暴れ出したことはこの二週間一度もありませんでしたが、もしもの時は対応し切れませんぞ」

「そういうわけにもいきません。せめて顔だけでも確認しないと」

 医者は私をちらと見た。そして見せつけるように鼻から息を強くつき、無言で端の扉の鍵を開けた。会釈して医者を追い越し、部屋番号の剥げた扉を叩いた。やや間があって中から返事がした。一年前を最後に聞くこともなかった声だ。思わず、心臓が氷を当てられたように跳ねる。

 煤けた真鍮の取っ手を握り、捻った。悲鳴にも似た音を立てて開く扉の先に彼はいた。

 久しぶりに見る彼は、特段変わった風はなかった。冷え切った病室の中、綿入れ半纏を肩に掛けベッドの上で体を起こしていた。髪や髭は最低限整えてあり、骨張りやつれていたが顔つきは穏やかだった。まるで唯の病人にしか思われなかった。だからこそ、首にうっすらと残った指の跡や、顔や手の甲に浮いた痣や切り傷が目立った。

「はじめまして」

 彼は、私の顔を見て、間違いなくそう言った。私は怯えて暴れる心臓をなだめて、挨拶を返した。それは精神力のいる作業だった。

「あなたも私の話を聞きにいらっしゃったのでしょうか」

 気づかれた様子もなく、彼は静かに尋ねた。私は「いや」と曖昧な否定を返してベッドの脇に置かれた丸椅子に腰を下ろした。立て付けの悪い窓から隙間風が吹き込み、血の上った頬を冷やす。

 話、というのは恐らく医者が言っていた妄執のことだろう。一年間何をしていたのかという問題を月の裏側にでも置いてきたような態度を見ていると、心臓のあたりにあった緊張が解けていく。代わりに顔を覗かせたのは怒りだった。失踪直前に何をしたのかさえ忘れたのか、と怒鳴りつけてしまいたかったが、そんなことをしたところで今の彼には何も響かないのだろう。

「……聞こうじゃないか。お前がいったい今まで何をしていたのか」

「分かりました。ではお話ししましょう」

 そう言うと、彼はすらすらと話し始めた。

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