血に染まる世界
閉じた瞼の向こうに赤い光が揺らめく。導かれる様に瞼を上げたイオは目にした光景を前にまどろみもなく、一気に覚醒し悲鳴を上げた。
見渡す限りの世界が炎に包まれている。逃げまどう人々、剣を向ける騎士。漆黒のローブに包まれた腕が空を掻く様に払われると、剣を手にした騎士らが後方へ大きく弾き飛ばされ動かなくなった。
「フィルネスっ!!」
過去に見た惨劇の場。これは魔法使いが立つ戦場だ。力のある魔法使いが一方的に弱者を排している光景を前にイオは声を上げ飛び出したが、一歩踏み出した場所で見えない壁に行く手を阻まれる。
見えない壁に激突し弾かれた体は大きく尻餅をついた。ぶつかったせいで鼻と額をしこたま打って酷く痛んだが、痛みに涙を滲ませながらも長い黒髪をなびかせる魔法使いの名を必死で叫ぶ。
「やめて、どうしちゃったの!?」
何故フィルネスがこんな事を。
事態が飲み込めないイオは行方を阻む透明な壁を殴りつけた。
「フィルネスっ!」
聞こえていないのか無視しているだけなのか。イオの目の前で悪事を働くフィルネスが獲物を狙って辺りを見回し、視界の端にイオを認めゆっくりと振り返った。
漆黒に縁取られた象牙色の肌に赤い唇が妖しく弧を描く。恐怖を抱かせる美貌は研ぎ澄まされ、銀色に輝く瞳は殺戮の歓喜にいっそう輝きを増していた。
焼け落ちる家屋に上がる悲鳴。それを背景にフィルネスが微笑みを湛えたままイオに迫る。阻む壁もするりと通り抜け、驚きといつも以上に研ぎ澄まされた美貌に対する恐怖で動けなくなったイオの腰に、フィルネスは両腕を回して優しく抱き寄せた。
「ようやくお目覚めか。しょんべん癖ぇ餓鬼は一度寝たらなかなか起きやしねぇ。てめぇが寝過ぎるからちょっとやり過ぎたかもなぁ。」
惨劇はイオのせいだと言わんばかりの口調には笑いが篭っている。聞きたい事は沢山あったが目の前の出来事に動転してイオは言葉を発せなかった。
「まぁいいか。あいつがやらかしたのはこんなもんじゃなかったし。」
喉を鳴らして楽しそうに呟くフィルネスに抱きすくめられ、イオは恐怖で小さく震えていた。
「さぁて、行こうか。お姫様奪還にどんだけ集まるか楽しみなこった。」
焼け落ちる街が歪んだと思ったら強烈な目眩がイオを襲い世界は暗転した。
赤い光景が一瞬で闇色に染まる。染まったかと思えば冷たい空気が肌を刺し、崩れ落ちた先で冷たい地面に蹲り嘔吐くが何も出て来ない。強烈な目眩で酔ってしまったようだが、蹲り嘔吐く最中を無理矢理立たされた。
口元を押さえ目を開けると薄暗い洞窟の様な場所だった。ぽたりと冷たい滴が零れ頬を濡らす。カチャリと金属が触れ合う音が反響し顔を上げると、数人の男がこちらの様子を窺っていた。
騎士…いや、兵士だろうか。城の門を守る衛兵たちに似た服を着ている。
「―――どこ?」
吐き気を堪えながら側の魔法使いに問うと洞窟に声が反響した。
「闇の魔法使いが封印されていた場所だ。」
「えっ?」
ぐるりと見渡せば巨大な鍾乳石の上には朽ちかけた二本の剣。風が吹けばぼろりと姿を消してしまいそうな錆びたそれはまるで長い時の流れを物語っているようだった。
「こんな場所にアス―――っ?!」
突然口を覆われ、後ろから腕を回され拘束された。魔法で拘束する術を持つフィルネスにしては妙な密着だ。しかもイオを拘束した途端、こちらの様子を窺っていた男達が一斉に剣を抜き身構えたではないか。
漆黒のローブに身を纏い絶世の美貌を怪しく輝かせ娘を拘束する。これじゃあまるで悪い魔法使いのようだ。突然現れたかと思うと口を塞がれ、命を奪われるのだと思ったがどうやら違ったらしい。けれどイオを連れ回していったい何をしているのか。破壊力満点の美貌をなるべく見ない様にしてフィルネスの様子をそっと窺うと、覗き見た事を後悔する様な表情で楽しそうに前を見据えていた。
「目障りだ。」
赤い唇から言葉が洩れると同時にイオの方は覆われていた口を開放される。イオから離れたフィルネスの腕からは綺麗な指先が前に差し出され、それだけなのに剣を抜いた男達から鮮血が溢れた。男達の切り刻まれた動脈からどくどくと流れる真っ赤な血にイオは声にならない悲鳴を上げ顔を背ける。無差別に繰り返される一方的な殺人。何故、どうしてと混乱した頭では何も考えられない。
両手で顔を覆い嗚咽が漏れるのを堪えた。腕の中に捕われているが存在を思い出されないよう、身を隠す様に嗚咽を堪える。横たわる血まみれの遺体を視界に入れるのが怖くて硬く目を閉ざすイオの頬を、冷たい指先が涙をすくう様に撫でつけた。光景に場違いな程優く触れられ、イオは首を横に振る。
「どうしてっ……」
フィルネスの何を知っている訳じゃない。けれどアスギルの記憶の中で知ったフィルネスは、ただ一人敵わぬ魔法使いに恋をするかに執着していた。認められたくて、弟子としてフィルネスを迎えておきながら教えるのが下手なアスギルを補うかに、アスギルの魔法を独学で学んで必死で追いかけていた。敵わない絶対的な存在に嫉妬心を剥き出しにしてもよさそうなのに、何故かそうではなかったフィルネス。アスギルの為に、アスギルの言葉をただひたすら追いかけて命を賭けた彼がどうしてこんな非道を行うのか。
「もしかして―――アスギルの為に?」
ふと行きついた先にほんの少しだけ湧いた可能性に震える声を漏らすと、冷たい指先が顔を覆っていたイオの手をそっと引き剥がして目を開けるよう促す。血の海を予想しながら逆らえずゆっくりと瞼を持ち上げると、見知った彼らが惨劇を前に唖然と立ち尽くしている姿が飛び込んできた。
*****
彼らが封印の地に集う数日前。
異変に気づきキクルから引き上げたアルフェオンとレオンが最初に目撃したのは、魔物に襲われたモーリス一行だった。
多くの被害を出しはしたが誰一人命を落とした者がいないのは、襲って来た魔物が新種の類であったからだろう。しかしながら純血種とされる闇の魔法使いが生み出した魔物が勢力を衰えたせいか、新種の活動が広がり、もともとの能力以上の力を発揮する新種が出て来るようになってしまっていた。モーリス達を襲った魔物も新種の割には恐ろしく凶暴で、新種を相手にしたにしては被害が大きく、戦闘に加え怪我を負った騎士らを手当てしたモーリスは疲労困憊でようやく立っているといった様子であった。
ちょうどそこに王よりの伝令が辿り着き、フィルネスがイオを攫ったとの情報を得た一行は一先ず城を目指した。深夜に王の前に膝をつき詳しく話を聞く途中にも次々と新たな情報が齎される。それは全て闇の魔法使いが街を焼いたという知らせばかりで、幻ではなく命からがら逃れた騎士の報告も交えられていた。
レオンには一つ一つの街に出向き確認している暇はない。そちらはエディウに指示を任せ、原因に最も近いと思われる情報に目を向ける。キクルにあった痕跡、それだけでフィルネスが首謀者であると疑うには十分だった。
それにしても何故イオが攫われる必要があったのかが解らない。フィルネスは世界を闇から救った崇められるべき魔法使いだ。それが何故と誰の内にも疑問が宿る。アスギルをおびき出している様にはとても思えなかった。それともアスギルの命令で動いているのだろうか。
呼ばれたのは誰か。
ハイベルは王太子ファウルを城に残し封印の地に向かう。とうに失っている筈だった命、恐らく呼ばれたのは自分ではないと思いながらもイクサーンの王として無視はできない。当然王の右腕モーリスもハイベルに従う。完全でない体調などどうでもいいと、命を惜しむ素振りは全くなかった。
それに続くのは宝剣を受け継ぐ騎士団長レオン。腰に抱く宝剣は初代国王にフィルネスが託した物だと伝えられている。いつか復活するであろう闇の魔法使いを再度封印する為に作られた宝剣は、今回誰を封印の対象とするのだろう。
彼らに続くのは生きて戻れないのを覚悟した近衛や精鋭たち。その中にはアルフェオンとイグジュアートも入っている。二人は世界の命運よりただひたすらイオの無事だけを祈り、二人にとってかけがえのない人を取り戻す為にレバノ山に入った。
導かれ訪れたレバノの封印。入口を守る衛兵は倒れ、脈を確認するがすでに事切れていた。そして一歩踏み込んだ先に散らばるのは赤く染まった幾多もの遺体。濡れた地面は彼らの流した血によるもので、むせるような血の臭いに顔を顰める。キクルで感じた幻は現実だったのだろうかと記憶が塗り替えられるほど、目の前に広がる光景はあまりにも衝撃だった。
味方ではなかったのか。少なくとも世界を闇に落とす為に現れた訳ではない筈。口と態度は悪いがこの様な非道を行う魔法使いではないと信じて―――信じたかったのかもしれない。
モーリスが敷く結界に守られながら中に進んで行く。血まみれの遺体が進む度に転がっていた。やがて闇の魔法使いを封印した場所まで行きつくと小さいが聞き慣れた声が反響してアルフェオンの耳に届き、現れた光景に誰もが足を止め唖然とする。
そこにいたのは美貌の魔法使い。けれどこれまで目にした彼が別人であったかのようにすら感じる、恐ろしいまでの美貌を湛えた彼は、赤い唇に弧を描き怪しい微笑みを浮かべていた。そしてその手に囲われるのは、惨劇から目を反らす様に手で顔を覆ったイオ。けれどその手を美貌の魔法使いがゆっくりと引き剥がした。
濡れた淡い紫の瞳。恐怖と戸惑いの色を乗せたその瞳は周囲の色に染まり赤く色付き、ほろりと一滴、涙を零した。




