辛い現実
縋り付いたクライスが自分を抱きしめ返して来ないのに異変を感じたレティシアは、彼の胸に埋めた顔を上げ涙を湛えた瞳で首を傾げてみせた。まるでどうしたのとでも問うかに。
「お前の知り合いかクライス?」
「ええ、まぁ。」
なんと答えて良いか解らずただ自分に縋り付くレティシアを見下ろし、彼女の肩を優しく掴んで引き離すと腰を屈めて同じ目線に立った。
「彼女を突き落としたというのは本当なのか?」
多くの人間が目撃している事実を問いなおせば、レティシアはみるみる蒼白になりぽろぽろと涙を流した。
「故意ではないわ、偶然なのよ。彼女がわたしを逆恨みして暴力を揮おうとして来たから咄嗟に……」
庶民を殺しても罪に問われないと語ったレティシアの声が頭から離れない。信じたくないが、今まさに己の耳で聞いたのだ。けれど目の前のレティシアからはそんな女狐の片鱗すらも窺えず、涙を流す様が偽りであるとは到底思えなかった。クライスの何処かでは、これまで己の信じたものが偽りでなければという願いがあったからそう見えてしまうのかもしれない。
「何故彼女は君に暴力など?」
「追い出されたのよ。騎士団長や王太子殿下に捨てられて頭に来たに違いないわ。」
レティシアの向こうでは額に手を当て天を仰ぐタンブレンの姿が目に映った。痛すぎて何も言えないとでも表現しているのだろう。
「レティシア嬢、君は―――」
保護してやらねば今にも折れてしまいそうな弱々しい表情。手が届かないとわかっていても憧れから恋心を抱いた女性の力になってやりたい。けれど目の前で起きる光景がクライスに冷静さを取り戻させていくのだ。
「君の為にもこれ以上は殿下や団長の名を出すべきではない。」
レオンは継承権を放棄しても王の血筋であるのには変わりがないのだ。この場には騎士団長を理想とし崇拝する輩も少なくない。騎士が多く集う場所でレオンの不名誉に関わる様な言葉は慎むべき事柄である。
「クライス、まさかあなたまで絆されたの?」
「そんな訳では……」
「それじゃあ今すぐここからわたしを出して下さるのでしょう?」
瞳いっぱいに涙を湛えた目で見上げられ助けを求められるが、クライスでは頷く事が出来なかった。たとえ相手が貴族のご令嬢であっても取り調べは行われる。レティシアの言った様に貴族が庶民を殺しても揉み消され罪に問われないのもよくある事実だが、イオを取り巻く環境がそうさせないであろう事をクライスも薄々感じ取っていた。
「俺では無理だ。」
クライスが首を振るとレティシアの瞳がすっと細められ、一歩後ろに後退して睨みつけられる。レティシアと呼びかけ手を伸ばせば手の甲を扇で弾かれた。
「薄汚い手で触らないで役立たず。もとはと言えばお前が愚図だからいけないのよ。卑しい身分のお前ならあの女を暗闇にでも引き込んで辱めるくらいしてくれるだろうと期待したのに、とんだ誤算だったわ。」
「レティシア嬢?」
「もういいわ。あの女もお前もそしてあなたも、父が迎えに来たら重い罰を下すようお願いするから。」
近寄るなと薄汚い物でも見るかに醜く歪んだ表情で睨まれたクライスは、鈍器で頭を強く殴られた錯覚に陥った。この時ようやく己の間違いに気付かされたのである。
「ま、そうなるのを期待して御父君を待たれるがいいさ。」
だから貴族娘は嫌いなんだと、首を振りながら職場放棄をしたタンブレンについてクライスも取調室を出た。残された平民出身の騎士らがレティシアの相手をするのだろうが口を聞いてはもらえないだろう。
「ところであのお嬢さんは?」
レティシアの豹変に唖然としていたクライスだったが、イオの様子を問われ現実に引き戻される。
「まるで死んでいるようでした。」
「心臓が止まったらしいからな。まぁあいつが本当に国一番の結界師を連れて来れるなら何とかなるだろう。」
「あいつとは……彼は何者です?」
馬を借りると言って出て行った男の素性を尋ねると、タンブレンは迷いもなく口にした。
「陛下の近衛だ。」
「陛下の、近衛?」
何故国王を守るべき近衛があの娘を守っていたのだとクライスは眉を顰めた。王の近衛に守られる様な娘に手をかけたとなれば、父親が来れば良い様に計らってくれるというレティシアの目論見は確実に阻まれるだろう。その疑問はタンブレンも同じだったらしく逆に質問して来る。
「あの娘はいったい何者だ?」
「宿舎の、騎士団宿舎で侍女をしている娘です。」
ただの娘の筈なのだが、どうしてその娘に王の近衛がつき、モーリスという王の右腕でもある結界師が呼ばれようとしているのか。まさか落とし種という言葉が脳裏を過ったが、イオは魔法使いを迫害するカーリィーンからの難民であった筈。そんは訳がある筈もない。
クライスは真相が知りたくてもう一度お湯を準備すると、それを手にイオが篭る部屋を目指した。
*****
宣言通りラウルはモーリスを連れて舞い戻った。
モーリスが到着するより先に駆けつけてくれた医者は、モーリス程の結界師が来るならと余計な手当てはせず、額の傷の止血と刺さったままになっている木片を丁寧に取り除く処置を施してくれていた。
イオの額を見たモーリスは顔を顰めたが無言で傷に手を翳し、柔かな光を発しながら額の傷を手当てしていく。傷は深かったが暫くすると塞がり、やがて綺麗に何事もなかったかに傷一つない額へと戻った。それから頬にあった傷に触れ同様に手当てするとアルフェオンに視線を向ける。
「他に大きな傷は?」
「背中に―――」
アルフェオンが抱いたイオの体をそっと起こして毛布を捲ると、濃い紫に変色した背中の痣が曝される。足元にいたクライスとラウルからは見えなかったが、医者がこれは酷いと憐れむかに呟きながら背骨をゆっくり押して触診を始めた。
「折れてはいないようですな。呼吸も整っておるし肺も大丈夫でしょう。」
医者の言葉を確かめる様にモーリスが親指をイオの背骨に這わせる。それに合わせて鬱血痕も消えて行った。それから改めて頭部を丁寧に確認してからイオを横たえる許可を下す。アルフェオンはラウルが床に敷いてくれた毛布の上にイオを横たえた。
相変わらず顔色は悪く唇は紫のままだ。モーリスは横たえられたイオの毛布を剥ぐと胸部と腹部を診察し、あらたに治癒魔法を施す。鼓動を回復させる時に肋骨が折れていたのだ。
クライスが丁寧に足先を温めてくれてはいたが、表面は温もりを取り戻しても体の芯からの冷えは体温を取り戻すのが難しい。モーリスが根気よくイオの体を魔法で温めて続けてくれたが、半時ほどすると手を離して大きく息を吐きだした。
「モーリス殿?」
アルフェオンが説明を求めると疲れた顔でモーリスが頭を振る。
「肺と心臓は心配ないが頭を強く打ったのだろう。目覚めるまで何とも言えん。」
呼吸が止まっていたのは僅かな時間だが、それでも体にかかる負担は相当なものだ。負担のせいで意識が戻らないだけなら大した心配はないが、頭を打ったせいで昏睡しているのなら極めて危険ともいえた。
モーリスがラウルをちらりと見やると、ラウルは一礼して部屋を出て行く。恐らくハイベルの元へ報告に向かったのだろう。そうなればハイベルよりレオンへ命令が下りここにやって来るに違いない。モーリスよりもすぐれた魔法使いを二人知っている。レオンが来て知恵を出し合えばアスギルか、もしくはフィルネスを呼びだす事が叶うかもしれない。
フィルネスがイオを助けてくれる確証はないが、彼にとってもイオの存在は貴重な筈だ。きっと助けてくれる。それにイグジュアートもいる。イオと同じ血を引く彼ならアスギルを呼べるかもしれない。アルフェオンは自分ではどうしようもできない状況に己を呪うが、可能性は全て試すべきだ。
けれど意識のないイオをこの場に残して行くのは不安だった。モーリスがいても、目を離した隙に何かが起きるのだけは嫌だったのだ。暫し思案し、親しくもないがイオの足を温め続けてくれるクライスにイグジュアートを連れて来てくれないかと頼むと、彼は快く受けてくれ床を立った。
イオの意識が戻らず何の反応もない中、時間だけが過ぎ去る。その間アルフェオンはずっと己を責めていた。
こんな事になった原因は自分にある。己の置かれた立場は理解していたが、自分に言い寄ってきた男爵家の令嬢がイオを逆恨みするとは想像していなかった。けれど細心の注意を払っていればこういう事も有り得ると予想は出来た筈なのだ。
レティシアの被る仮面には最初から気付いていたのになんたる失態。しかもイオを街に誘ったのもアルフェオンだ。あとほんの数秒早く待ち合わせの場についていたならこんな事態にはならなかった筈なのにと、後悔ばかりがアルフェオンを責め立てる。
暫くしてイグジュアートが駆けつけ、イオの姿を見るなり飛びつかん勢いで駆けこんで来たのでアルフェオンが受け止めた。頭を打っているからと病状を説明している途中で真っ青になったイグジュアートがアルフェオンを振り切り、イオに縋り付いて大粒の涙を流す。
「誰が、いったい誰がイオをこんな目にっ。誰がイオを極寒の川に突き落としたりしたんだ!」
怒りに燃える碧眼がアルフェオンを、モーリスを、側にいた医者とクライスを睨みつけるが誰も答えられないでいると、外が騒がしくなり聞き慣れない男の声がレティシアの名を呼んでいるのが耳に入った。ルルがライズ男爵を呼びに走ったのだろう。対応にあたるタンブレンの声が漏れ聞こえ、話の内容から状況を察したイグジュアートは「あの女っ」と毒を吐いて部屋を飛び出した。
武器は持っていない。けれど人を殺めかねない勢いのイグジュアートをアルフェオンが追う。拳を握り締めレティシアを捜すイグジュアートを側にいた騎士が諌めるが、身軽にかわされ、無理に掴んだ者は相手の力を利用した体術で転がされていた。そんなイグジュアートがレティシアに辿り着く前にアルフェオンは彼を拘束する。
「落ち着けイグジュアート、彼女を殴っても解決にはならない。」
「どうだっていい、離せアルフェオン。お前だって許せない筈だろ!」
「一番許せないのはイオを守り切れなかった私自身だ。」
「お前じゃない、あの女のせいだっ!」
興奮したイグジュアートをアルフェオンは壁に追い詰め自由を奪った。レティシアへの恨みを叫ばせる為に呼んだのではない。
「アスギルを、イグジュアートにならアスギルが呼べるんじゃないかと思って呼んだんだ!」
「俺に呼べるのか?! アスギルっ、アスギル聞こえてるんなら姿を見せろよ!」
アルフェオンに押さえつけられたままイグジュアートは叫ぶ。
「聞こえてんだろ、俺を何度も助けてくれたくせに。今度はお前の大事なイオが大変なんだ。姿を見せろよっ!」
アスギルの名を叫びながら床に蹲ったイグジュアートの前でアルフェオンは顔を掌で隠した。
いくら名を叫んでも希望は姿を見せない。アルフェオン達が羽蜥蜴と対峙し死を覚悟したあの時の様にどうして姿を現してくれないのか。
願いは届かない。
辛い現実に嗚咽を漏らしたイグジュアートをアルフェオンは抱え、意識を失ったままのイオの側へと戻って行った。




