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心の鎖  作者: momo
七章 眠れる冬
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死の淵



 イオの事だから予定時刻より早く来ているだろうと見越し、アルフェオンは急ぎ待ち合わせの場所へと向かった。目的の橋が見え、イオらしき女性が目に映ると同時にその前に陣取る二人の娘の姿が目に映る。それが何者か悟った瞬間アルフェオンは走り出し、それとほぼ同時に悲鳴が上がった。


 レティシアがイオを橋から突き落とす光景がゆっくりと目に焼きつけられる。間に合わないと悟り土手を走ったが土色にうねる濁流に呑まれたイオの体が何処にあるのか見当もつかなかった。


 「あそこだっ!」

 

 声に導かれ走ると川岸近くに流れる白い手が僅かに覗く。迷わず飛び込み流れを利用して近付き水の中から顔だけ引き上げたが共に流された。


 流れと氷の様に冷たい水が全身を突き刺し感覚を奪う。岸に戻るのは難しいがやらねば命がないとイオを引き摺り懸命に泳げば、腰にロープを巻いた男が二人を助けに飛び込む様が視界に入った。

 いつもイオを遠巻きに護衛してくれている王の近衛だ。駆けつけてきた街を警護する騎士すらも冬の川に飛び込めず見守る中、自らの命をかけて水に飛び込んでくれた彼に感謝し、アルフェオンの方からも意識のないイオを抱いたまま懸命に水を掻いて手を伸ばした。

 

 ようやく陸に引き揚げられると我が身に構う間もなくイオを横たえ様子を窺った。指はかじかんで使い物にならならず、誰かが手を伸ばしてイオの首に触れ「脈がない」と叫ぶ。と同時にアルフェオンとイオを迎えに飛び込んでくれた近衛がイオの胸を強く押し、アルフェオンもつられる様にイオの顎を持ち上げ気道を確保すると人工呼吸を試みた。


 街の警護に当たる騎士らが駆け付け、ずぶ濡れ凍える三人に毛布をかけてくれるが、鼓動を回復させようとする動きですぐにずり落ちてしまう。アルフェオンはイオの口を塞ぎ息を吹き込みながら既に生きた心地などなく、寒さもすら感じなくなってしまっていた。


 二人がかりで心肺蘇生を続けるとイオの胸が嫌な音を立て、塞いでいた口から汚泥が大量に溢れだす。アルフェオンが口元に、近衛が胸元にと互いが耳を寄せ、同時に「戻った!」と声を上げた。


 息を吹き返してくれたイオに泣きそうになるが、今はまだそれ所ではない。誰かがすぐ側に騎士の詰所があるのでと声を上げた時には、アルフェオンはイオを毛布で包み抱きあげていた。

 息を吹き返しても顔色は蒼白で唇は紫色だ。この後もどうなるか解らない、しかも額は大きくぱっくりと割れ真っ赤な血が止め処なく流れ出ていた。頭を打ったのであればあまり動かせない。極力振動を与えないよう慎重に素早く足を動かす。


 街を警護する騎士らが詰める建物の休憩所には何人かの騎士がいて暖炉の火が赤々と燃えていた。すぐに状況を察した彼らはアルフェオン達に場所を譲り、必要な物を頼む前に差し出してくれる。


 「まずは濡れた服を脱がせないと。」


 冷静な様でいて動転しているアルフェオンに近衛がイオの額を手当てしながら声をかけ、イオを知らない騎士らはさっと部屋を出て行く。ここで初めてアルフェオンは彼に名を問うた。


 本来なら名を明かせない筈だとアルフェオンにも解っている。申し訳ないと断わりを口にしかけた近衛は一瞬迷い、口を噤んでからラウルと名乗った。彼に大切な人の命を救われたのは二度目だ。感謝のあまり言葉もなく頭を下げれば鋏を渡される。


 「外套は分厚いので無理だが他は切った方が早い。私は後ろを向いているから君がやってくれ。」


 ラウルはイオの毛布を剥ぐと濡れて扱い難くなった防寒具をアルフェオンと共に剥ぎ取り、濡れた体を拭く為の乾いた布を差し出して二人に背を向けた。それからアルフェオンがイオの肌に張り付く衣に鋏を入れて脱がせるが、背中に大きな打撲痕を発見し顔を顰める。心肺蘇生で出来た痣ではない、何かがぶつかったのか体の中の心配も増えた。


 背中を優しく拭ってから、少しでも体を温めてやりたくて毛布をかけた状態で濡れた肌を拭いてやる。医者でも父親でも兄弟でもないのに未婚女性の肌を露出させ目に止めるなどとは言っていられなかった。このままでは間違いなく死んでしまうのだ。生きてさえいてくれたら恨み事はいくらでも聞ける。


 アルフェオンとラウルの方もびしょ濡れのままで、暖炉の火があっても凍死寸前だ。借りた衣に手早く着替えるとアルフェオンは背中に気をつけてやりながらイオを腕に抱き、暖炉の前に陣取って手当てしても出血が止まらない額を強く押さえた。


 「血が止まらないし、背中にも大きな痣がある。」

 「そっちの方が致命傷になるかもしれないな。急ぎモーリス殿を連れて戻るから止血を怠るな。」


 流木にやられたのか最初に額を手当てした状態では骨まで達している様に思えた。傷だけで頭の方が無事ならいいがと願いつつ背中の痣も気になる。ラウルは二人を残し素早く温かい部屋を出てモーリスを呼びに向かった。





 *****


 見回りに出ていたクライスが詰所に戻ると何やら騒がしく、火の焚かれた休憩室は立ち入り禁止にされていた。

 側にいた同僚をつかまえ話を聞くと、娘が橋から突き落とされ意識不明で手当てしている最中だと言う。

 娘を川へ突き落としたのは若い貴族の娘でそちらは取調室に監禁状態。女同士の恨みつらみかと何となしに考えを巡らせていると休憩室の扉が開かれ、頭から雫を滴らせた男が一人出て来た。その様子から雨と雪解け水で増水した川に飛び込んだのだと窺える。顔色が悪く凍えているようだが意識や動きはしっかりしているようだ。余程鍛えているのだろうと感心していると男がクライスを捕らえ、ふいと視線を反らしてからクライスの上司に向かって口を開いた。


 「タンブレン、馬を借りるぞ。」

 「医者なら呼びに向かわせたぞ。」

 「医者では無理だ、モーリス殿を連れて戻る。」

 「モーリスだって?!」


 中年のタンブレンからすると若造の類に入るであろう男…ラウルと二人は知り合いの様だ。気になるのは二人が対等の口を聞いている事と、ラウルの声色。クライスには聞き覚えのある忌々しい声、間違いなくイオの後をつけているのを邪魔してくれた輩の声だった。


 「モーリスって言えばあのモーリス殿だろ。隠居した偏屈がお前の言う事なんか聞いてくれるのか?」


 イクサーン一の結界師として名を馳せる国王の右腕。隠居し屋敷に篭っている彼は偏屈で近寄りがたい人物としても有名だった。そして何より彼ほどの結界師を動かせる人間はそうはいない。


 「連れて来るから彼女を頼む。」

 「まぁいいが―――ああラウル、栗毛を使え、足が速い!」


 タンブレンは外套と皮の手袋を投げて渡しながらラウルに向かって叫ぶように声を上げた。クライスは消えたラウルの背中を見送ると、あの男が大事にする娘がいったい誰なのかと興味を抱き、湯の張った桶を持って閉じられた休憩室に入ろうとした同僚からそれを奪うように受け取ると、扉を叩いてからそっと押し開けた。


 中にいたのは女ではなく見覚えのある男だった。レティシアの件で突如現れ、これが事実だと勝手に話を押しつけに来たアルフェオンだ。騎士団長と懇意にしており、そのレオンと同格に剣を扱える数少ない存在の男である。


 「湯を持ってきてくれたのか。」


 暖炉の前に陣取るアルフェオンが身じろぎ、腕に抱く存在がクライスの目前に曝された。顔色が悪く唇は紫色に変色している。どうやら冷たい濁流にのまれたのは彼女の様だと悟り、自業自得という言葉が脳裏を過った。


 一瞬迷ったがここで引くわけにはいかない。騎士として私情を挟んで負傷者に対応するなどもっての外と、悪しき思考を払拭し、毛布で厳重に包まれたイオの足元に湯の張った桶を置いた。


 「足を温めたいんで触れても?」

 「ありがとう、頼むよ。」


 意識のないイオには問えないのでアルフェオンに了承を取り、毛布を捲って足を曝した。桶を移動して青白い足先に触れると想像以上に冷たくて驚かされる。


 「どうしてこんな事に?」

 「私の詰めが甘かったのだろうな。」


 アルフェオンは悲痛な表情でイオを見つめる。額には怪我をしているらしく大きな手で押さえられている当て布が赤く染まっていた。


 「まさかレティシア殿の手の者がとか言うんじゃないよな?」


 若い貴族の娘がイオを橋から突き落としたと聞いた。嫌な予感がして問えば、アルフェオンは無言を貫く。


 「俺に遠慮はいらない。何があったんだ?」

 「見たものが全てとは限らないが、レティシア嬢がイオを突き落としたのは事実だ。」


 取調室に捕らわれているのはレティシアなのか。今頃恐ろしさに肩を震わせ泣いているに違いないと心配しつつ蒼白なままのイオを見つめた。


 「大丈夫なのか、まるで―――」


 死人の様だと言いかけ言葉を飲み込むがアルフェオンには察しがついたのだろう。顔を悲痛に歪め俯いた。


 「短い時間だが呼吸と鼓動が止まり意識も戻らない。出血も多いが―――モーリス殿が来てくれれば何とかなる。」


 アルフェオンは自ら状況を語るのを止めた。鍛えている人間ならともかくイオは普通の娘だ。魔力が大量にあってもそれが肉体に作用する訳ではない。できるならアスギルを呼びたいが、アルフェオンが呼びかけても聞こえる筈もなく。せめて一時だけでも目を覚ましイオがアスギルの名を紡いでくれたならと、アルフェオンは悲壮感ただよう己を諌める為に唇を噛んだ。


 果たしてモーリス程の結界師がただの娘の為に動いてくれるのだろうかとクライスは疑問に感じた。レティシアの言う様にイオが騎士団長や王太子の情婦であるなら可能性もあるだろうが、意識のないイオを抱くアルフェオンがそれは全て出鱈目だとクライスたちに諭して回ったのである。それこそが偽りなのかと考えを巡らすが、今にも命の炎が消えてしまいそうな娘を前に考える様なことではない。


 クライスは冷えて来た湯を取りかえるとの口実をつけ一旦部屋を出ると、一人で震えているだろう愛しい人を慰める為に取調室へと向かった。


 硬い木の椅子に腰を下ろしたレティシアは、取り調べに当たるタンブレンを前に扇を握り締め震えていた。責任者自らが取り調べの席についているのはレティシアが貴族の娘だからだろう。タンブレン自身は爵位をもちはしないが子爵家の出身である。可哀想にとクライスが同情の気持ちで声をかけようとした時レティシアから発せられたのは、クライスが知る可愛らしい高音で無邪気さを漂わせる声色ではなく、目の前の男を小馬鹿にした低音で蔑みの念が込められた言葉だった。


 「男爵家の令嬢をこの様な密室に監禁してただで済むと思っているの。今すぐ開放しなさい。」

 「そうおっしゃられましてもライズ男爵令嬢。あなたがご婦人を橋から川へ突き落すのを多くの人間が目撃しているのです。突き落とされたご婦人は意識がない。このまま命を失う様な事態に陥ればあなたは殺人罪に問われるのですよ。」


 解っているのかと部下にはついぞ見せない丁寧さで語るタンブレンをレティシアは鼻で笑い捨てた。


 「あの娘はわたしに無礼を働いたのよ。貴族が庶民を殺めても罪に問われやしないわ。」


 明るく可憐でたおやかなレティシアからは想像もつかない物騒な言葉が次々と発せられ、クライスはただ驚きでレティシアの背中を、ふわふわと柔かい薄茶色の髪を見つめているしか出来なかった。

 

 「う~ん、それですがね。彼女は本当にただの庶民の娘なのですか?」

 「異国の卑しい難民よ。わたしとは生まれも育ちもまったく異なりますの。あなたも子爵家の流れを汲むのであればお解りになるでしょう?」


 馬鹿なのと蔑む薄茶色の瞳に見つめられ、タンブレンは苦笑いを浮かべながらレティシアの背後に立つクライスに視線を移した。釣られて振り返ったレティシアは冷たく細めた瞳を見開き、零れんばかりの笑みを浮かべる。


 「まぁクライス、わたしを助けに来て下さったのね!」


 まるで二人の人間が一つの入れ物に入り込んでいるようだ。

 クライスは可愛らしい声で甘え縋るレティシアを唖然と迎え入れた。


 

 




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