美貌の魔法使い
イクサーンの王太子ファウルは暇さえあればとある一室にこもりきりになる。寝室からしか入れない小さな部屋にはここ数年掃除婦すら入室しておらず、乱雑で足の踏み場もない程汚れていたが、ここは誰にも汚されない絵具の臭いに犯された彼だけの憩いの場だ。
その憩いの場でファウルは一心不乱に筆を動かしていた。昨日から降り始めた雨も一時は大ぶりとなったが、夜明けに近付くにつれ雨音は消えてしまっていた。その間一晩中ファウルはそれに向き合ったままだ。
向き合う絵画はファウルの作ではない。何百年も昔に描かれた肖像画で、裏に刻まれた言葉から肖像画の主は闇の魔法使いを封印した魔法使いであり、後にこのイクサーンにおいて賢者と呼ばれる魔法使いフィルネスであると予想されている。絵具は剥げ落ち黴にやられてはいたが、それでもなお美しい輝きを放つ絵の主は、一目見るや己の醜さに絶望へと追いやられるとまで伝え残る程の美貌の主らしい。
表向きは男性であったと伝えられているが、絵の修復を始めてよりファウルはフィルネスが女性であったのではないかと考えている。
最初に筆を乗せてわかったのは、己の力量ではその美を再現できないという現実だ。よって修復にはただの絵具ではなく、昔同様に高価な宝石を削り煌めきをちりばめた。それでも違うと感じ幾度となく絵具を剥いで修正を試みる。絵の修復が出来上がれば偶然出会ったあの娘、イオを招きレオンで遊んでやろうと楽しみにしていたのだが―――修復を進めるうちに現れる美貌の主に心奪われ、ファウルは年甲斐もなく恋を始めていた。
本物の銀を油に溶き筆に乗せ、色あせた肖像画の瞳に色を添えた時だ。何の前触れもなく突然目の前がバリっと音を立て、修復途中の肖像画を突き破り人間の左手が現れたのだ。
「―――っ!!?」
悲鳴を上げる間もなかった。
修復途中の肖像画から飛び出した白い手。突然の恐怖体験だが流石に思考がついて行かず、ファウルは椅子から転げ落ちながらも左手には絵具を乗せた板、右手には筆を持ったまま碧い瞳を大きく見開き言葉を失う。近衛も入れないファウルの楽園で身を守る術は己だけ。けれどファウルは命の危険よりもただただ驚きで唖然と肖像画から突き出た人の手を見詰めるばかりで。
ファウルの見詰める前で肖像画から突き出た手が更にもう一本増えた。バリバリと古い布が弾ける音とともに肖像画の中から無理矢理何かが這い出て来る。
白い手が二本、それから漆黒の頭。黒い衣に身を包んだ大きな何か―――人間がまるで画から生まれ出る様に這い出して来たのだ。
何の手品だ?!
見事に這い出した肉体は生きた人の形をしていた。
漆黒の長い髪が繊細な指先で綺麗に整えられると、腰を抜かしていたファウルは更に驚愕で目を見開かされることになる。
黒い衣を纏い目の前に立つのは完璧な…そんな言葉では到底片付けられない、完璧で完全な美貌と輝きを放つ女神が立ち塞がっていたのだ。
漆黒の髪が縁取るのは艶やかな象牙色の肌で、切れ長で銀色の瞳は本物の銀も色あせる輝きを放っている。女性的で在りながら男性的にもとれる容姿は完璧な左右対称で歪み一つなく、絶世の美という言葉すら恥じらい逃げて行くのではないかという恐ろしくも人間離れした美貌。
この顔をファウルは何処かで見た気がした。そう、たった今まで修復に勤しんでいた魔法使いの肖像画でだ。けれどファウルが恋心すら抱いた肖像画など全てが偽りであったかに目の前の人は光り輝いていて。
女神降臨―――恍惚と見上げる先にある美の女神にファウルは感嘆の息を落とした。
ファウルの落とした溜息に気付いたのか、女神の輝く銀色の視線が僕へと注がれる。
眼差しを受け幸福感に包まれたファウルは死ねと言われても悔いはないとすら感じ、女神が薄く色付いた唇を開く様を恍惚と見上げていると―――
「飯。」
「…………は?」
女神にしては男性的な低い声色と言葉に、ファウルは碧い瞳を瞬かせ、そんなファウルに女神が盛大に眉を顰め不機嫌さを露わにした。
「は? じゃねぇようすのろ。飯だ飯。俺ぁ腹減ってんだ、さっさと飯持ってこい!」
「たっ、只今っ!」
怒鳴りつけられた一国の王太子は手にしていた板と筆を放り投げ、一目散に楽園を後にし女神の命令に忠実に従う。
ファウルは王族専用の料理人が集う厨房を生まれて初めて自らの足で目指した。
*****
女神も羨むきめ細やかで艶やかな象牙色の肌に傷一つない繊細な指先。ほんのりと色付く唇。
傷一つない繊細な指で脂ぎった肉を両手に握り、ほんのりと色付く唇で豪快にかぶり付く。きめ細やかで艶やかな肌には食べこぼしの油やカスが飛んで、それが乱暴に袖で拭われた。
煌めくオーラを纏い女神の容姿に似合わぬ、粗暴な態度に言葉使い。皿に注がれたスープは鍋ごと要求され、細腕の何処にそんな力があるのか知れないが鍋ごと抱えてじか飲みだ。
城に仕える料理人を叩き起こし、腕によりをかけて作らせた繊細で色鮮やかな料理の数々が、女神によってまるで飢えた山賊か浮浪者であるかに消費されて行く。
場を仕切る王太子ファウルを筆頭に女官、さらには給仕たちは唖然と女神が豪快に貪る様を見ているだけで。王太子の命令で設えられた場であるが故に誰一人として疑問を口にする事も出来ず、ただ女神が荒々しく料理を口にしていく様を唖然と見ているしかなかった。
「悪かぁねぇなぁ。」
骨をしゃぶる女神の言葉に、席を同じくしながらも唖然と見ているだけだったファウルが我に返ってようやく言葉を挟んだ。
「私はイクサーンの王太子ファウル、あなたの名を伺っても宜しいか?」
「別にいいがよ―――」
言いながら女神は目の前の皿をファウルに突き出した。
「同じもんくれ。」
「―――同じものを。」
いったいどれだけ食べるんだ。黒いローブの中は異空間かと問いただしたくなる気持ちを抑え給仕に命じると、ファウルは目の前の女神に名を促した。
「わかってんだろ、俺が誰だか。」
「あなたご自身からお伺いしたいのです。」
ファウルの言葉に女神はニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「フィルネス。魔法使いだが、てめぇらは賢者って呼んでたな。」
やはりそうかとファウルの瞳が喜びに輝いた。
突然あらわれた異質な存在、しかもファウルが修復する肖像画を突き破って現れた怪しいだけの人間に警戒心がなかった訳ではない。けれど現在世界が置かれている状況を思えば、無きにしも非ずと警戒も薄く目の前の人物を受け入れてしまっていた。
「結界の中で朽ち果てる予定だったってのに、手前が結界を解きやがるから予定が狂っちまったじゃねぇか。大した魔力も持たねぇ癖に、血筋は侮れねぇな。」
まったく余計なことをしやがってとフィルネスが毒を吐きながら扉を見やると、閉じられていた扉が開かれ、国王ハイベルとイクサーン一の結界師であるモーリスが姿を現した。
座っていたファウルが腰を上げ王に首を垂れるが、ハイベルはファウルの無事だけを確認すると早足でフィルネスへと歩み寄り対峙した。
「一国の王が立ち聞きとは、随分とお上品な事で。」
「何時より気付いておられた。」
「最初っからに決まってんだろ、馬鹿じゃね?」
誰に向かって言ってるんだと皮肉に笑うフィルネスを前にハイベルは一人で立つ。モーリスには自分ではなく王太子であるファウルを守らせていた。
「貴方が闇の魔法使いを封印し偉大なる魔法使いである証拠はおありか?」
「城まるごと木っ端みじんにすりゃ信じるか?」
ハイベルを立たせ自分は椅子に座り、踏ん反り返った状態で見上げる銀色の瞳は輝いているが純粋ではない。危険な色を孕んだ鋭い視線をハイベルは怯まず受け止めた。
何百年も昔、闇の魔法使いを封印した四人の一人フィルネス。
老いを知らず、光り輝く美貌を永遠のものとして繋ぎ止める術を持って永久にイクサーンを守り続ける。彼の存在は闇の魔法使いが封印を破った際の一つの希望でもあった。だからこそ目に映る現実はこのさいどうでもいい。アスギルと対峙した時同様に感じる直感から、美しいながらも粗悪な色を纏う魔法使いが偽物ではないとハイベルには解っていた。
「貴方の出現は闇の魔法使い復活が事実であるとの証明か?」
ハイベルの問いにフィルネスの顔からほんの一瞬だけ皮肉が消える。
「あいつ暴れてんのかよ?」
「封印の剣が朽ち、結界が効力を失った。結界の地からは魔力の気配が失われている。どうすべきなのか教えを請いたい。」
ふぅ~ん…と、フィルネスは繊細な指先を顎に置き何事か思案する様に視線を動かす。部屋の人間にではなく、ここではない何処かにといった風情はフィルネスの美貌を神々しくすら見せた。
だからなのだろう。次に発したフィルネスの言葉に誰も反応できない。
「滅べよ。」
絶世の美貌に浮かべる微笑みは悪魔の輝きだった。微笑みの中には憎しみさえ伺え、命を賭して戦った伝説の英雄たちの一人であるとは到底信じられない助言の言葉。
「前回はあいつとの約束で手を出したが、元々は魔法使いを弄んだ人間の自業自得だ。今回もあいつが壊れるんだとしたら滅びは必然。悪あがきはやめて大人しく滅んでしまえ。」
世界が滅ぶのだとしたら悪いのはお前達だと銀色の瞳を細めたフィルネスの前に、これまで黙って様子を窺っていたモーリスが進み出て膝をついた。
「フィルネス殿。お初にお目にかかります、結界師のモーリスに御座います。」
「結界師―――ああ、まだ迫害されてるのか。」
フィルネスより返された迫害の意味を大きく取ったモーリスは一瞬言葉を詰まらせた。それを擁護するかにファウルがモーリスに続いて前に出る。
「呼び名はイクサーン建国の名残、我が国において魔法使いは貴重な存在とし大切にされています。」
闇の魔法使いが世界を崩壊に導き、人知を超える力を持った魔法使いは恐れられ迫害の対象となった。魔法使いが存在しなければ魔物から身を守るのに必要な聖剣を紡げなくなると解っていても、多くの命を奪う魔法は人々の心に恐れを刻み続ける。それは幾百の時を経ても変わらず心に残され、異国では今も弾圧に近い扱いを受けている魔法使いも存在する。
「我が国、か。」
けして魔法使いを迫害している国ではないと繕うファウルを、フィルネスは小馬鹿にしたように嫌味たらしく鼻で笑った。
「その割には魔力の気配が少ねぇが……まぁいい。で、モーリス。てめぇは結界師の地位を得る代わりに人柱として魔物と対峙させられ、体に醜い痕を刻まれようとも幸せに暮らせているのか。」
知らない筈だ。けれどまるで全てを知っていながらわざと傷を抉る様かに、フィルネスはそれはそれは愉快そうにモーリスに尋ねた。
モーリスの怪我の理由を知る者達は皆が息をのむ。今の有り様からは想像できない程に温かい家庭を築いていたモーリス。その彼から愛しい人を奪った存在は魔物だが、彼らを魔物に対峙させたのは結界師という職業だ。
今も昔も変わらない、魔法使いの行くべき道は自ずと示されている。
「我が幸福は国家の繁栄であり、私個人においての望みは他にはありません。それよりも偉大なる魔法使いフィルネス殿、私は知りたい。貴方が滅べと言われる世界が闇の魔法使いに何をしたのかを。」
周囲の抱く緊張を余所に、モーリスは己の望むがまま欲求を晴らさんとフィルネスを見上げた。生に執着も未練もない、ただ知りたいと願うのは闇の魔法使いの真実。命があるから生きているだけの日々に舞い込んだ厄介事が、まさかこの様な形となってモーリスの興味をそそるとは当人すら思いもしなかった。
「最初の犠牲はルー帝国十八代皇帝で間違いないのでしょうか。闇の魔法使いは皇帝のいかなる難問も受け入れ、ルー帝国三代の治世に関わった。その彼が何故、皇帝を手にかけたのか。皇帝はいったい彼に何をしたのでしょう。」
若い頃は魔力の枯渇を招くせいで諦めた禁書の解読。この歳、この時だからこそ命を惜しまず読め、気付く事実がある。
「そして世界を救った貴方がこの世に滅べと豪語し、匙を投げ、姿を消した原因が我々にあるというなら、我々はそこから学ばなければなりません。」
禁書に突然現れた異質な文面。歴史を語るのが主な頁にたった一枚、美しい文字で綴られた人間味あふれる言葉がモーリスを捕らえてやまない。
「てめぇ如き魔力であれが読めたのか?」
意外そうに瞳を煌めかせたフィルネスに、モーリスは否と正直に首を振った。
「私では足元にも及びません。が、今の世にも魔力だけなら逸材とも呼べる優れた者が。」
才能は全くないが魔力だけなら桁外れの娘がいる。けれどあくまでも魔力だけで、闇の魔法使いと対峙させる能力は皆無だと暗に伝えた。
自分の力ではないと正直に話すモーリスにフィルネスは、「ふぅん」と気のない返事を返しながら綺麗な指先で己の唇を辿る。銀色の視線は真っ直ぐにモーリスだけを捕らえていた。




