好きな人
君が好きなんだ―――
思いがけない言葉に頭は真っ白になり、イオはぽかんとレオンを見上げていた。そんなイオにレオンは苦く笑うとようやく手を離す。
「告白したからとてどうなるものでもない。君の心が他に向いているのも承知している。だから伝えるつもりはなかった。」
俯いたレオンの表情は苦しそうでイオの知るいつもの彼ではない。そもそもいつものレオンならこんな事はしなかった筈だと冷静になるにつれ思考が戻って来た。
「好きってどう―――」
偽りの告白だとは思わない。けれど好きだからどうするのかと問いかけてイオは口を噤んだ。
初めての告白は想いを寄せる人からのものだった。イオの生活した場所では告白と結婚は一つの意味として括りつけられるし、好きになった人からの告白も結婚の申し込みと同時であった。事情があって受けられなかったけれど、あの時に受けた告白の先には明確な答えがあったのだ。けれどレオンから受けた告白の先にあるものが何なのかイオには上手く掴めない。
レオンの告白を真っ直ぐに受け止めるならイオはどうするべきなのだろう。以前に王太子が語った様に女として男を慰める立場を求められているのか、レオンがとってしまった行動への咄嗟の言い訳なのか。距離に慣れてしまっていたがきっとイオにも隙があったに違いない。これまで紳士的だったレオンが急に態度を変え、庶民だからとか異国の後腐れない娘だからという理由で暴挙に出る筈がないのだ。
この後どうするべきかと俯くレオンを見詰める。伝えるつもりがなかったというなら今の今までイオとは深い関係を望んでいたのではないのだろう。伝えるつもりのなかった想いを引き出したのは此方にも罪があるに違いない。一度出してしまった言葉は戻らないのだから受け取る他ないだろう。
イオは身を守る様に握り締めた上着をさらにぎゅっと強く握ってからゆっくりと息を吐いた。
「想いを、ありがとうございます。」
本気の想いなら真っ向から拒絶されるのは辛いものだ。イオの言葉にレオンが驚いた様に顔を上げ視線を合わせた。
「でも、お応えする事はできません。」
「ああ、そうだな。わかっている。」
再度俯いたレオンにつられる様にイオも下を向いた。
「ただ、解って欲しい。今のは君への好意から出てしまった行動であって、けして弄ぼうなどという卑しい思いがあった訳ではないのだ。」
許される訳ではないのだがと声を失って行くレオンにイオの方が心苦しくなってしまった。
カーリィーンで受け取りたかった想いと、イクサーンでは受け取れない想い。嫌いなわけじゃない、レオンの事は好きだが感情の向かう先が違うのだ。
「わかりました。詫びは、ちゃんと受け入れます。」
形だけではなく、心からレオンの言葉を受け入れ応える。イオも繋がらない想いの辛さは解っているつもりだ。だったら受け入れてみろと言われるかもしれないが、本気の想いに不確かな感情で応じるのはあまりにも失礼だ。
「本当にすまなかった。どうかしていたんだ―――」
魔力に惑わされたのか濡れた色香に惹かれたのかすら判別できない。気付いたら白いうなじに唇を寄せ、唇まで奪ってしまっていた。我に返ったのはイオが逃げ出した瞬間だ。あのまま逃がしてはこれからの関係をも駄目にしてしまうと必死で繋ぎ止めたが、振り返れば酷い有様だったとレオンは深い後悔に苛まれていた。
こうして思いをぶつけても先へは進めない。全力でぶつかれば手に入れられるかもしれないが、今のレオンの立ち位置ではイオを世間に公表する事も出来ないのだ。将来の約束すらきちんとしてやれない、妻という地位も与えてやれない所か、家族になり子供を持つ事すら許されない。お互いが愛し合っているならそれでいいかもしれないが、イオが想う相手は自分でないのは百も承知で。幸せにすると約束出来ない我が身が憎らしかった。
「そういう日もありますよ。」
努めて明るく振舞うイオにレオンは助けられる。怖かっただろうに、許しを齎すイオにレオンは更に惹きつけられた。
「二度はないと誓うから―――ここから逃げないで欲しい。」
屋敷を出たいと言いだすんじゃないかという不安が押し寄せた。念を押しておかねば明日にもエディウに相談するに違いない。そうしてエディウは最善の策を講じ、レオンを納得させイオを屋敷から連れ出すのだろう。監視さえ滞らなければこの屋敷に拘る必要もないのだ。
「レオン様も、ここが誰の御屋敷か忘れないで下さいね。」
後ろめたさから足が遠退くのを心配すれば、レオンはイオの気使いに苦笑いを浮かべつつ顔を上げた。
「そうだな。だが私はすこし頭を冷やすよ。」
「わたしなんかにそこまでお気使いされる必要はありませんよ。」
「君は、なんかという言葉で卑下される様な娘ではない。」
「それは―――ありがとうございます。」
卑下し続けるのもレオンに失礼だろう。本当に好きだといってくれるのなら、その好きがどの程度であれ認めてくれたのだと感謝しようと、イオはぎこちなくも作り物でない微笑みを零した。
「初めてのキスがレオン様だなんてわたしは果報者です。自慢して回ろうかしら?」
「イオ、君は―――」
ここで関係を崩してしまいたくないのはイオも同じだ。
冗談めかして肩をすくめたイオに救われる感じでレオンも笑みを漏らした。
「その年で初めてだったか。」
初めてと聞いて申し訳ないという後悔と嬉しいという感情が入り乱れるレオンの気持ちには気付かず、イオは眉間に皺を刻んでわざとらしく睨みつける。
「その年でって失礼な。自慢じゃありませんが結婚を申し込まれた事だってあるんですからね。」
意外な言葉にレオンは思わず目を見開いた。
「結婚する予定…の男がいたのか?」
カーリィーンで、それともこのイクサーンでと驚くレオンにイオは苦い笑いを漏らす。
「住んでいたのが小さな村の外れでしたから、婚期を迎えた男性は年頃の娘に手当たり次第に声をかけるものなんです。もちろんわたしは声をかけて貰っても、魔法使いであることが知られるのが怖くて結婚なんて考えられませんでしたよ。」
魔法使いである事が知れれば密告されるか、共に秘密を持ってくれたとしても何処で露見してしまうか解らない。その時家族となった男がどうなるか。結婚の申し込みをしてくれた男が想う人であった分、絶対にその申し出を受ける事は出来なかった。
「その男が好きだったのか?」
「そうですね、好きでした。」
十歳年上の大きな樵の男を思い出し、懐かしいと笑顔が零れる。
あんなに好きで切なかったのに、今となっては思い出の片隅へと追いやってしまっている己の軽薄さにあきれるが、それでも淡い恋の思い出だ。突然姿を消したイオを心配してくれただろうが、国境を越えた今は状況を伝える手段もない。村に帰るどころか二度とカーリィーンの地を踏めないイオにとって、イクサーンが第二の故郷となるのだ。ゲオルグには思いを寄せる娘が沢山いた。今頃はその中の一人と夫婦になっているかもしれないと、それを望んでイオは彼を懐かしむ。
「レオン様には婚約者がいらしたそうですね。」
「殿下よりお聞きになったのか。私の場合は利害関係の一致で取り決められていたものだ。君達のように純粋に愛情のある婚約ではなかった。」
愛のない証明とばかりに元婚約者は王太子の側妃候補として自ら名乗りを上げているが、そんな話をイオの耳に入れるべきではないなと口を結ぶ。実際にイオは王太子から聞かされて知っていたので、それ以上レオンの婚約者については触れないでおこうと決めた。
「やだな、わたしは婚約してませんってば。好きってだけで結婚できるものじゃないんです。」
「そうだな。運命とは残酷なものだ。」
残酷―――か。
もしイオが魔法使いでなければカーリィーンの小さな村で隠れ住むように生きるのではなく、堂々と表を歩きまわり、好意を受け青春を謳歌し、ゲオルグと結婚して幸せな家庭を築けていたのかもしれない。けれどイオは己を悲観して『もしも』という偽りの世界に足を踏み入れ酔いしれる様な娘ではなかった。
「残酷だなんて、わたしは幸せですよ。ここに来てからは信じられない様な生活を与えてもらえていますし、素敵な家族も得られました。全ての過去がここに繋がる為に準備されていたのなら迷わず今を選びます。」
レオンは幸せを築く手助けをしてくれている一人でもある。様々な事情が絡み合ってイクサーン王家が描く損得で培われた現状であっても、レオンがイオ達を守ってくれているのは偽りない事実だ。暗にそれをにおわすとレオンは瞳を瞬かせた後でゆっくりと息を吐いた。
「君は本当に素敵な女性だ。」
「なっ、何を言いだすんですか?」
イオの頬に一瞬で朱が走る。異性に目の前でこんな風に褒められるのは初めてでおろおろとうろたえていると、ちょうどそこへ見回りを終えたエディウが顔をのぞかせた。
「そんな所に蹲って、お二人とも何をされているのですか?」
エディウの灰色の瞳が二人を見下ろした後でゆっくりと部屋の様子を窺う。その様に平静を取り戻したイオはお茶を入れるのを忘れていたと慌てて立ち上がり、机に膝をぶつけて痛みに声を失い再度床に蹲った。
「何をやってらっしゃるんですか―――レオン様も。」
大丈夫かとイオを見下ろしたエディウは、視線をそのままレオンに移し目を細くして軽く睨みつけた。レオンは蹲ったイオを案じて手を伸ばしかけたが、触れられるのは嫌だろうかと躊躇していた所をエディウに悟られ、しまったとばかりに顔を顰める。
レオンの代わりにエディウが膝をつくと、イオは涙目で大丈夫だと粗相を恥じて痛みを我慢しながら立ち上がった。
「すぐにお茶を。」
「折角ですが必要ありません。仕事を残してきておりますのでこれにて失礼致します。」
そうですかとイオがレオンを振り返るとレオンも慌てて頷いた。仕事は何時も幾らでも山の様にあるのだ。
見送り際にすまなかったと目礼するレオンにイオは頭を下げる。レオンが先に出てエディウが扉を閉じるといういつもの光景を見送っていたイオに、エディウが扉を閉じ際に動きを止めた。
「暫くは髪を下ろして生活されるのがよいと思われます。」
「え?」
何を突然と首を傾けたイオに、次は扉を閉じながらエディウが言葉を投げかけた。
「うなじに痕がついています。」
「―――!」
息をのむと同時に扉が閉じられた。
顔を真っ赤にしたイオは暫くその場を動けなかったが、レオンに吸いつかれたうなじを押さえて部屋に駆け込んで鏡を覗き込む。後ろなのでもう一枚鏡を合わせてうかがうと、赤い虫さされの様な痕がくっきりと刻まれていた。
「どうしよう―――」
力を失いへなへなと座り込む。今日明日で消える様な物なのだろうか。経験も知識もないのでいつ消えるかは解らないが、この痣が意味する所は経験のないイオにだってすぐに理解出来た。
誤解を生む―――アルフェオンには知られたくないと血の気が引いた。勘違いされたらどうしよう。アルフェオンなら気付いても何も言わない。違うのに、そんなんじゃないのに釈明する機会も与えられないだろうと思うと胸が締め付けられた。




