ふれた唇
魔力の暴発は強い怒りや悲しみが招く場合が多いが、近しい関係にある存在の命を人質に取られたからといった程度でおこるものではなかった。
「やはりお前には魔力を使いこなす才能がないのだな。」
「―――申し訳ありません。」
本当に宝の持ち腐れだと溜息を落とすモーリスに、イオは口応え出来ずただ項垂れ詫びを述べるしか出来なかった。
火をつけたり明かりを灯したり水を湯に変えたりといった生活にも使える魔法はほぼ習得していたが、力の込め方をほんの少し間違えるだけで炎は大火に、水は沸騰した瞬間に水蒸気に変わってしまう。イオの場合魔法を使うより実際に労働で得た方が安心安全なのである。まったくもって宝の持ち腐れだ。
とにかく安全を確保した状態で経験を積み、魔力の暴発も自己管理できるようにして行くしかない。イオの休日はモーリスの屋敷で安全を確保してもらいながら基礎魔法の訓練につぎ込まれるに至った。
「この才能の欠片でも魔法の方に向いておればな。」
イオが作った昼食を食べながらモーリスが毎度呟く愚痴もお決まりの台詞である。モーリスは魔力の枯渇を招きイオの作った料理を食して以来、味付けがいたく気に入った様で訓練の際は必ずイオに昼食を作らせ、共に食事を取るようになっていた。禁書を解読しているせいで魔力の消費も大きくかなりの量を平らげてくれる。所作は綺麗だが悪態ばかりのモーリスがイオの作った料理を大量に消費してくれる様をイオは気に入っていた。
「わたし程度で喜んで下さるなんて、モーリスさんは今までいったいどんな食生活を送っていたんですか。」
世辞を述べる様な人格ではないので褒め言葉は非常に嬉しい。たとえそれが残念そうに呟かれるのであってもだ。
「いたって普通だ。贅沢な同居人らは不満を述べるのか?」
「贅沢じゃありません。まぁ確かに美味しいと言ってくれますが……」
アルフェオンとイグジュアートは勿論、時折食事を共にするレオンも美味しいと残さず食べてくれるが、彼らはたとえ不味くても文句を言わずに残さず食べてくれる様な人たちだ。
「お前の周りには舌の肥えた輩しかおらんからな。」
アルフェオンは公爵家、イグジュアートは魔法使いであるが故に秘され冷たい扱いを受けて来たが、二人とも専属の料理人が調理し高価な品物を口に運んでいただろう。レオンに至っては違える筈もなく、先日幸運にも王太子の寝室で口にした料理は素晴らしく美味しい物であった。
あれと自分の料理を比べたら……王太子の部屋で頂いた品と比べるなんて恐れ多くて出来やしない。やはりモーリスのべた褒めは嫌味なのだろうかと、イオは自分で作った料理を口に運んだ。
この日は昼食を終えたら早々に帰宅するようにと決められていた。いつもなら禁書の解読に付き合うのだが、今日からアルフェオンとイグジュアートが二晩不在になる。イオ一人だけが屋敷に残るのを心配する周囲によって午後からは何処にも出かけずに閉じこもっていろとお願いされているのだ。どこまで過保護なのかと思うが、近頃は医術の勉強が疎かになり気味だったのでちょうどよかった。城の図書室から借りた医学書に目を通し早々に返却しなければと思っていた所なのである。
禁書の解読も虫食いやらイオには難しい文字が多くてあまり役に立っていなかったが、魔力だけは嫌になるほど豊富にあるらしく、モーリスと肩を並べ同時に読み進めてもイオに変化はないのにモーリスは魔力が底をつきかけるなんて事もしばしばあった。
「これは夜の分ですから、あまり夢中にならずにちゃんと食事の時間も忘れないで下さいね。」
作り置きの品に蓋をしてモーリスを振り返ると既に禁書に没頭していた。あの日以来魔力の枯渇で意識を失ったりはしていないが、若くないのだからと口にはせずとも心配になる。万一動けなくなっても食べられるように料理の一部をモーリスの手の届く位置へ移動させると、イオは指導の礼を述べてモーリスの屋敷を後にした。
おどろおどろしい屋敷を出るとどこまでも澄んだ青い空が広がっている。初夏の訪れといってもいい陽気に額にじんわりと汗が滲んだ。
今日から二泊三日の予定で新米騎士を中心とした魔物討伐の訓練が行われるようになっており、新米騎士であるイグジュアートは当然参加、指導者であるアルフェオンもそれに同行し目的地を目指していた。
昨年までは一泊二日で予定が組まれていた討伐訓練だが、遠征地となっていたイクサーンの都を抱くように聳えるレバノ山では最近ではめっきり魔物の数が減少し、時折さほど害のない新種が目撃される程度になっていた。その為一行は足を伸ばし魔物の目撃情報がある更に遠くの森へと向かったのである。
イオは誰もいない屋敷に戻ると手始めに部屋の掃除をし、終えると居間で分厚い医学書を広げた。かなり時間をかけて読み耽ったそれは最終頁まであと少しだが、難解な専門用語が多くて苦戦を強いられていた。
日が暮れる前に休憩を兼ねて干していた洗濯物を取り込み、少し早いが簡単に夕食を取った。昼間は日差しが強くなってきたとはいえ夕方になると冷えて来る。開けていた窓をすべて閉めると湯を沸かして桶に張り入念に入浴を楽しんだ。いつもはイグジュアートやアルフェオンを気にして二人が帰る前に手早く済ませるか体を拭くだけなのだが、たまにこんな日があってもいいかと鼻歌まで生まれる。
濡れ髪を上げると、湯冷めしないよう夜着に動きやすいゆったりした上掛けを纏った。窓の外はすでに暗くカーテンを引いてからお茶を入れ寛ぐと、明かりの灯った居間で広げたままの医学書の前に再度腰を据え、解らない言葉を抜き出す作業を始める。
様々な病や症状、症例や人体と作りについて。人の体に関わると学ぶ量も膨大で日に何度も躓くが、途中で投げ出したいとは思えなかった。いつの日か必ず治癒魔法を身につける、それがイクサーンで生きて行く為にも必要なのだと大きな目標にもなっていたのだ。
勉強に集中していると何処かで規則正しい音がしている事に気づき、それが玄関の扉を叩く音だと解ると慌てて居間を出た。
「どなたですか?」
「私だ。」
「レオン様?」
こんな時間に誰だろうと滅多にない訪問者を不審に思いながら声をかけたが、屋敷の持ち主であるレオンだと解り慌てて鍵を外し扉を開くと、闇の中にレオンとエディウが立っていた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません。」
「こちらこそ、休んでいたのに起こしてしまったか。」
夜着に上着を纏った状態で対応したイオの様子に、レオンはしまったという表情をのぞかせた。
「まだまだ寝る予定ではありませんからお気になさらず。わたしの方こそこんな恰好でお迎えする羽目になって。」
「急に訪ねた私にも問題がある。一人にさせているとなると気になってな、一応屋敷内を見回っても?」
「勿論ですよ、お気使いありがとうございます。」
「では、私は外を見て参ります。」
イオが大きく扉を開くとエディウは一礼して闇に消えて行く。審問官の一件以来外の身回りが強化されているのはイオの預かり知らぬ所だが、気を利かせたのかエディウは主の側を離れた。イオとしては屋敷の主であるレオンがいかなる時間に訪れようとかまいはしない。レオンが屋敷の中を見て回る間にイオは二人の為にお茶の準備を始めた。
湯を沸かし茶器を持って居間に入ると、レオンが椅子に座ってメモに何やら書き込んでいる。横から覗き込めばイオが抜き出した言葉に訳をつけてくれているのだとわかった。
「どうもありがとうございます。」
レオンの側に膝をついて礼を述べつつ、机の上を片付けようと手を医学書に伸ばす。
「邪魔をするつもりはないのでそのままでいい。それより他に聞きたい事があれば答えるが?」
「本当ですか、でしたらこちらも―――」
そういって難解文字で一杯になったメモを抜き出し机に広げた。いつもはアルフェオンを頼っているが、今は不在だし、明後日疲れて帰って来て早々に質問はできない。答えが解るまでに暫く日が開くと思っていたイオからすればレオンの申し出はこの上なく有り難かった。
「これは瘤、これは骨の空洞、これとこれは綴りは違うがどちらも目眩を意味する単語だ。」
「瘤ってこう書くのでは?」
「それは古い文字で、この書が記された時代ではこう書くんだ。」
解らなかった答えがレオンの口から次々に紡ぎだされる。一気に問題が解決してイオは気分を高揚させ、お茶を入れるのも忘れてこれ幸いとばかりに様々な質問を繰り出した。
「レオン様には医学の心得が? 本当によくご存じですね。」
「読めはするが専門過ぎて単語の意味はわからない。」
「わたしなんて読めもしないし意味も解らないんですよ。あ~先は長いな。」
医学書を睨みながら頁を捲ると濡れ髪のひと房が零れ落ちそっと撫でつける。その仕草をすぐ側で見ていたレオンは後れ毛の掛かる白いうなじに惹きつけられた。
「あ、もしかしてこれとこれも同じ意味なので―――」
ふいに感じた柔かな感触にイオは目を見開く。茶色交じりの金髪が頬をくすぐり、レオンがうなじに顔を寄せているのだと気付いた。
え、なに? 吸いつかれていると悟った瞬間、ちりっとした痛みがうなじに走り、何をしているんだと振り向けばとても近い位置に碧い瞳があって息をのんだ。その距離の意味にイオが気付く前にレオンが更に距離を縮めると互いの唇がそっと触れ合う。
すこし渇いた自分のものではない感覚と温もりを唇に受け、頭の中が真っ白になる。短くはないが長くもない時間を置いてレオンが唇を離すとイオは淡い紫の瞳を瞬かせ、何が起きたのかを悟り踵を返した。
「待てっ!」
床から腰を上げ逃げ出すイオの腕をレオンが反射的に捉えると、イオは足をもつれさせ腕を掴まれたまま床に倒れ込む。
「はなしっ―――!」
「すまない、悪かった!」
レオンが逃げようともがくイオの両腕を取るとイオは逃げ出そうと必死に暴れて床を蹴り、レオンはつい仕出かしてしまった事態を収拾しようと暴れるイオを取り押さえる。
「本当にすまない、こんな事するつもりじゃなかったんだ!」
「やだはなしてっ!」
暴れるイオを抱え込み腕の中に閉じ込める。それが更なる恐怖を生むと解っていたが、このまま逃げられるのだけは避けたかったのだ。
「何もしない、これ以上なにもしないから話を聞いてくれ!」
動けないよう抱き込むとイオはレオンの胸の中でくぐもった声を漏らす。イオほどではないがレオンの方もいったい自分は何をしでかしたんだと混乱し、イオを無理矢理抱き締め必死に頭の中を整理していた。
うなじに吸いつかれたと気付けば唇を塞がれた。これの意味する事が何なのか、それよりもどうしてレオンがこんな事をと混乱し、身の危険を感じて逃げ出そうとしたイオだったが容易く捉えられてしまった。どうして、こんなの嘘だと拒絶するがレオンの腕に抱き込まれ、まったく身動きが取れない時点で夢でも何でもない現実なのだと突き付けられる。
足掻いても鍛え上げた男の腕はびくともしない。恐ろしくて逃げようとしていたが、それ以上動きを見せないレオンにイオは次第に冷静さを取り戻していく。
腕が緩んだら何時でも逃げ出せるように体勢を整え動きを止めると、暫くしてレオンから「すまない」と詫びの言葉が落とされた。
「放してください。」
「逃げずに話を聞いてくれないか?」
躊躇したがこくんと頷けば拘束していたレオンの腕が緩みゆっくりと開放されたが、レオンの腕はイオを掴んだままだった。
「本当にすまない。取り返しのつかない事をしたと十分承知している。どう詫びていいのか解らないが謝罪をさせてくれ。」
「はい、わかりました。謝罪を受け入れます。」
「イオ―――」
この場を切り抜けようとしたいがための許しにレオンは項垂れ唇を噛んだ。
もとの様な関係に戻れるだろうか。いっそ本心を吐露して気持ちをこちらに向けさせるのに全力を注ごうかとも考えたが、日陰の身しか与えてやれない現実に至り心に蓋をする。それにイオの気持ちが向く先はアルフェオンだと知っているのだ。イオの真っ直ぐな気持ちはこれまで微塵もレオンに恋慕する事はなかった。
何故この娘なのだろう。見た目も教養も何もかもイオよりはるかに優れた娘は貴族の中には数多く存在するし、平民の中にも明るく穏やかで面倒見が良く媚を売らない娘は数多といる筈だ。こういう出会いをしなければ気にも留めずにすれ違って終わった筈なのに、イオの魔力が解放されてよりどうしても気になって仕方がなかった。ついには捕らわれ後先考えず肌に唇を寄せてしまうに至り。
まったく自分は何をしているんだ。無意識とはいえとんでもな事をと硬く奥歯を噛みしめる。
言葉を失いじっと睨むように見つめて来るレオンを、何時しか顔を上げたイオも睨むように見上げていた。
「わたしは王太子様の命令に従うべきなのですか?」
「イオ!」
レオン自身がそう望むのであれば拒否はできない。そうなのかと挑むように見上げるイオにレオンはそうじゃないと声を上げた。
「じゃあどうしてこんな事―――軽い気持ちで誰にでもしていい訳じゃないでしょう?!」
「違う、私は―――君が好きなんだ。」
消え入る様に紡がれた告白にイオの瞳が見開かれる。
伝えるつもりのなかった想いを告白したレオンは、己の不甲斐なさに大きく息を吐き、悲痛に顔を歪めた。




