ある人の面影
「イクサーン王家には王が代々引き継いで来た宝剣がある。闇の魔法使い復活に備え作られたそれは国の象徴だ。よって本来は王太子である私が引き継ぐべきものであったのだが、闇の魔法使いが復活してそうもいかなくなった。何せ私には剣を使いこなすだけの能力が備わっていなかったし、宝剣の持主たる陛下は当時病の床であったからな。陛下は闇の魔法使いを封じる役目をレオンに託した。王の証たる宝剣を得たのはレオンだが、そのレオンが謀反でも起こさぬ限り次の王は私と決まっている。こういった例は過去にも幾度かあり王以外の者が宝剣を引き継いだ場合、その者は王家を退き伴侶を得ず子も成さずに生涯を終える。レオンも慣例に習い全てを放棄した。私が病弱であったばかりに背負うべき大事な役目をレオン一人が背負わされたという訳だ。」
ちゃんとお話できるじゃないですか―――と心で呟き、イオはファウルから膝の上で綺麗に揃えた手に視線を落とした。
今まで何の気なしにしていた光景に隠れていた事実。
魔物に傷を負わせるにはただの剣では不可能で、魔力を込めた聖剣と呼ばれる剣が用いられる。カーリィーンではそれで生計を立てて来たのでイオもその重要性は良く理解していた。聖剣も込める魔力によって強度が異なり、稼ぎからしてイオが紡ぐ剣はお粗末だったと予想される。イオが紡ぐ様な剣が闇の魔法使いに通じる訳などなく、相応の相手には相応の剣が必要になるのは少し考えれば解る事だ。闇の魔法使い復活を予見し作られたイクサーンの宝剣は、レオンが常に側に置く羽の様に軽いあの剣に違いない。
直接向き合うのだ、伝説の恐怖たる存在と。かつて闇の魔法使いを封印したイクサーン初代王の血を引くレオンが命をかける役目を強いられた。
葛藤は無かったのか。ない筈がない。今を生きる人間の誰もが目にした事ない恐怖に立ち向かうべく剣を手にした筈だ。生半可な意志では不可能に違いなかった。
それなのに初めて目にしたレオンは恐れなど見せない威風堂々とした青年だった。経歴は雲の上の人の様だが現実に接するとちゃんとした一人の人間で、普通に喜怒哀楽がある。初めに感じた威圧感も今では形を顰め、イオの個人的所用に付き合ってくれたりもする穏やかな人物だった。
「如何に出来た人間であっても支えは必要だ。それをそなたに頼みたい。」
もしもイオとレオンがそのような関係になったとしても、レオンの後見を受けているイオが権力に捕らわれた貴族に利用されるよな事にはならないだろう。しかも異国の親もいない娘、口出しする邪魔な存在は誰もいないというのは、どんなに邪険に扱われても文句が言えないという事だ。
「お言葉ですが、その様な事は本人に任せるのが一番なのではないでしょうか。」
イオに声をかけたのはレオンの側にたまたまいた目ぼしい娘だから。王族を退いたとはいえ彼の周囲は高貴な人々で溢れている。そんな中に湧いた黒い染み、それがイオだ。
けれどイオが己を否定してもファウルはそうではない。
「我が弟は意外に奥手なのだよ。」
ふっと笑うファウルは掴み所がなかった。本気で弟を案じているのか、イオを取り調べ、返答次第によっては容赦しないつもりでいるのか。
「婚約者までいらしたのに?」
「取り決めであって本人の意思など存在しない。」
「でも、心を通わせていたかもしれませんよ。」
「私には妃はいるが子がまだでね。弟との婚約破棄と同時に私の側妃候補として自ら名乗りを上げる様な娘をあれが気に入っていたとは思えぬ。」
すっと目を細めたファウル自身も彼女を気に入っていないようだ。これは詮索しない方が賢明なのだろう。
「わたしではご期待に添えません。」
「何故だ、悪い話ではあるまい。日陰の身とはいえそなたの様な娘には身に余る栄誉だ。」
意外そうに瞳を瞬かせたファウルにイオはきっぱりと言い放った。
「わたしはこの国で普通の幸せを手に入れるって決めたんです。殿下のお話をお受けするのは意志に反します。」
「あれは手折った娘を不幸にするような男ではないぞ?」
「わたしにその意思がない限り幸せにはなれません。」
「欲深いな。」
背を反らし腕を組んだファウルに睨まれる。不敬で罰を受けるだろうかと一瞬だけくじけそうになったが、すぐにそれでも構わないと持ち直した。
イオ一人なら目の前のファウルに恐れをなし直ぐ様降参しただろう。けれど今のイオはあきらめる訳にはいかない理由があるのだ。
「私が口出しせねばあれの物になったか?」
「恐れ多いことです。」
ファウルはイオを睨んだまま考える様に指に顎を乗せた。
「では―――そなたと共に国境を越えた二人の身の安全と引き換えと言えば?」
「やめてっ!」
アルフェオンとイグジュアート。二人の笑顔が脳裏を横切り、手出ししないでと頭に血が上る。二人はイオが得た安息の場所だ。傷付けさせるわけにはいかない。
声を上げ立ち上がり目の前のテーブルを叩きつけるとパンっと乾いた音が弾けた。
テーブルを叩く音ではない。空気が弾けたような異質な音。それとともに風が舞いイオの銀色に輝く髪がゆらりと巻き上げられ、目の前には塵が降り注ぎ、塵の向こうでは驚いたファウルが目を見開いて固まっていた。
イオは驚くファウルを前にはっと我に返った。
同じ生まれでもレオンと違い、絶対に声を荒げていい様な相手ではない。王になる為に生まれた生粋の王族だ。帯剣してはいないが即うち首で間違いないだろう。
「えっと…あのっ、申し訳…ありません―――」
揺らいでいた髪が落ちてするりと背を撫でる。逆鱗を覚悟して俯けば白い二つの丘が目に入った。
人間驚き過ぎると訳が分からなくなるらしい。
え、これ何? と二つの丘を掌で包めば柔かな感触に首を傾げた。そしてじわじわとそれが己の胸の膨らみであると認識した後、どうして胸が曝されているのだろうと考え付く前に大きく息を吸った所で口を塞がれる。
「叫ぶな、人が来る。恥を曝すのはそなたぞ?」
ゆっくりと言い聞かされ、目を泳がせながら幾度か頷いた。念を押したファウルが慎重に手を離すと、寝台から上掛けを剥いで裸のイオに巻きつけてくれる。
何がどうなったのか全く分からないイオは、裸を曝した羞恥と訳が分からぬ恐怖に蒼白となる。ファウルはそんなイオを慰める様に肩を叩くと、ゆっくりと寝台へと誘った。
頭からすっぽりと上掛けを被ったイオは誘導されるまま寝台に腰を下ろす。隣に座ったファウルが上掛けの上からイオの頭を労う様に撫でつけた。
「そなたを怒らせると面白い事になるのだな。」
「―――!」
打ち首と覚悟したが、ファウルの声に怒りは無い。それよりも呆れと笑いを含んだような優しいもので、それが余計に羞恥を誘った。
「少しばかり言い過ぎた。許せ。」
ぽんぽんと子供をあやす様に優しく頭に触れられ、恥ずかしさや何やらが一気に押し寄せ涙が溢れた。それでもファウルの言葉に何とかこたえようとするが声が出せず、こくこくと壊れた人形の様に幾度も頷いた。
アルフェオンとイグジュアートの命を曝すような言葉を言われ、感情が高ぶったせいで起きた魔法の暴発だ。良かったこの程度で。被害を受けたのが自分だけで良かったとイオが心の底からほっとしていると、「それにしても」とファウルが喉の奥で笑いながら言葉を発した。
「綺麗な体をしておったな。あれには勿体ない。」
「いやぁぁぁぁぁっ!」
上掛けの中でくぐもった悲鳴を上げるイオに、ファウルは愉快だと声を出して笑っていた。
*****
魔法の暴発で衣を木っ端微塵に粉砕させたイオは、仕方なくぶかぶかのシャツを一枚纏っている。人を呼んでまともな衣服を用意して欲しいというのが一番の望みだったが、服を着せたら逃げられると笑顔で言い放つファウルに逆らう事など出来やしない。
王太子ともあろう者が若い娘にあらぬ服装を強いるなど城の誰かが知れば盛大に眉を顰め、再教育が必要だと言いだす者も現れるかも知れない珍事だ。
けれどイオは王太子に逆らえないし、権力者特有の傍若無人な行動の一つだと仕方なく受け入れている。無知を利用されているとも気付かずに。
もう暫く付き合えというファウルに頷くと、寝室のさらに奥にある薄暗い部屋へと案内された。
ぶかぶかのシャツ一枚。年頃の乙女としては嫁に行けないくらい恥ずかしいが、嫁の貰い手がある訳でもなく羞恥の相手は一国の王太子一人、歳は二十九でお妃さまもいらっしゃる。事故で肌を曝したが対応が紳士的だったせいもあり、裸の女など見飽きているだろうと開き直って裸足のまま後ろをついて歩いた。
案内された部屋は薄暗く埃っぽい。王太子の寝室に隣接する空間としては些か異質な雰囲気と脂臭い独特な臭いが漂っていた。
臭いの原因はすぐに露見する。部屋中にはいくつもの絵画と絵の具が所狭しと散乱…整頓ではなくまさに散乱していたのだ。足元に気をつけなければ硬い額縁に躓くか絵具を踏んで潰してしまうだろう。
「私にとっての楽園だ。」
「楽園?」
ゴミ溜めの間違いではないだろうか。明らかに数年、かなりの期間一度も生理整頓されていない様子が一目でわかる。掃除された気配もない。
イオは薄暗い部屋の様子を窺いながら、王太子という重責に身を置くファウルに取っては唯一の心休める場所なのだろうと理解した。そうでなければ女官や侍女やらが溢れるほどいる城で、王太子の部屋の一部が掃除されていないなんて事態にはならないだろう。きっと他人の入室を拒んでいるのだ。
でもそんな場所にどうして自分が入れたのだろうと首を傾げていると、丸椅子の上に積まれた絵の具で汚れた布をどけたファウルに座るよう命じられる。
「絵を描くのがご趣味ですか?」
「今は修復の方に興味があってね。幼い頃は学問とこれだけが私の世界であった。」
「体は、その……ずっと悪いままなのですか?」
深入りは良くない様に思えたが、幼い子供の世界が勉強と絵を描くだけだったなんて。ふいに寂しさを覚え、丸椅子に座りながら質問してしまった。けれどファウルは意にも介さず、イオの目の前に腰を下ろすと画架に乗せた画布を新しい物へと差し替えた。
「生活には何ら問題ない。幼少期の一時的な物であったのだろうな。それでも万一の為にレオンには王族として籍を置き続けて欲しかった。」
王家の事情は知らないがファウルの言葉からすると、イクサーンの王子として生まれたのはファウルとレオンの二人だけだったのだろう。体の弱いファウルに子がいないなら尚更、レオンが王族から籍を抜くのには心配の声も上がった筈だ。けれどその声を上げる間も与えぬ事情が持ち上がってしまったのだ。
イオはともかく、庶民の間でも家の存続に男子は重要な役割を求められる。王家ともなれば尚更だろうと考えに耽っていると、ファウルが画布に手を滑らせていた。
「あの、いったい何を?」
「そなたを描いておるのだ。」
「わたしをですか?」
「裸婦も良かったが、衣服の下で泳ぐようにしている様に刺激されてな。妃ではこうはいかぬ。」
「そ……そうですか。」
「嫌がらぬのだな。」
画布の向こうから碧い瞳が鋭く光ってイオを射ぬいた。複雑な気分になり視線を反らし、壁に飾られた絵に興味を示す振りをする。
「手打ちになるよりましですから。」
「そのような非道はせん。」
話しながらも迷いなく動く腕の様子に捕われる。イオが余所見をしても文句一つ言わない所を見ると、非道はしないという言葉は信用に値する様だ。
「これも全て殿下が?」
特に深い興味もなくあたりを見渡していたが、手を伸ばせば届く位置にある絵に目が止まった。額縁に収められずに立て置かれた絵は真新しい印象で女性の全身像が描かれている。
「ああそれは違う。二年ほど前に見つかった隠し部屋にあった物の一つで、最近修復を終えたばかりだ。」
イオが丸椅子に座った状態で身を屈めてもファウルは文句も言わず画布に木炭を滑らせていた。本当に自分を描いているのだろうかと訝しみながら目を落とした絵は真新しいが、周囲にある物は埃を被った様に茶色く変色し所々が剥げ落ちて黴まで生えている。
「触れても構いませんか?」
「構わぬ。高名な絵師が描いたものでもない。」
「へぇ……あれ、この人、目が?」
ファウルの了解を得て画布の角に手を置き光に照らすと、描かれた女性の瞳は右が青、左が赤という変わった配色の作品だった。
「それはイクサーン二代目国王の妃だ。」
「左右で異なる瞳の色を?」
「その様に記録されているし、修復前の絵具もそう配色されていたので間違いあるまい。」
「へぇ、不思議。綺麗な人ですね。」
左右で異なる瞳の色をもつなど聞いた事もないが、ファウルによって修復を受けた彼女はとても綺麗な人だった。こんな人ならアルフェオンの隣に並んでも見劣りしないんだろうなぁとぼんやりと想像を巡らせる。
「その二、三後ろを見てみろ。そう、それだ。」
言われるまま画布に手を伸ばすとまったく修復されれていない絵が出て来た。
絵の具は剥げ落ち色がくすんでしまっているが、画布いっぱいに描かれた人の顔。黒い髪に銀で描かれた瞳の人物画にイオははっと目を見開き息を飲んだ。
「どうだ、美しかろう。闇の魔法使いを封印した四人の一人、魔法使いフィルネスだ。」
「魔法使い―――」
呟きながらじっと絵の中の人を見詰める。
髪も瞳の色も恐らく年頃も異なるだろう。けれど絵の中の人物はイオの良く知る人にそっくりだったのだ。いや、そっくりともいえない。きっと彼が成長した暁にはこうなるのではないかと、まるで未来を予想して描いたような絵画だった。
いや、違う。イグジュアートならもっと男性的になるだろう。絵の中の人は何処をどう見ても女性だ。絵は霞んでいるがそれでも見惚れてしまう程かなりの美貌の持ち主。絶世の美女といっても過言ではない。こんな人が世界を救った魔法使い? 冗談だろうと見惚れるイオの様子をファウルが満足げに見つめていた。




