伸ばし損ねた腕
食事を終えたイグジュアートが眠りについたのを確認したイオはそっと部屋を後にし居間へと移る。自分の部屋に戻らなかったのは眠る二人に近過ぎると感じたからだ。話し声で起こしてしまっては申し訳ない。
テーブルの上には騎士が出してくれた菓子が残されたままになっていた。結局手を付けず仕舞いだったがイグジュアートと話をして落ち着いたせいか、甘い匂いに惹かれ一つ摘むとあまりの美味しさに驚いた。ハイベルが言った通り人気の菓子なのだろう。お世辞など述べる必要なく文句なしに美味しい。
二つ目に手をつけようとして思い止まる。こんなに美味しいのだから一人で食べてしまうのは勿体ない。他の皆にも食べさせてあげなくてはと手を引っ込め、椅子に座った状態で身を改めた。
先程は高貴な人たちに囲まれ酷く緊張したが、それとは違った緊張がイオを取り巻く。一つ咳ばらいをしてから目的を実行に移した。
「アスギル。」
両手をぎゅっと握り締め名を呼ぶ。幾度か瞬きをしてから首を回し周囲を窺ったが、部屋にいるのはイオ一人だった。
「あれ、おかしいな。必死さが足りないのかしら?」
昨夜は切羽詰まった状況で藁にも縋りたかった。何しろ人の命がかかっていたのだ。悪魔から自分の命と引き換えと囁かれても頷いた状況。
イオは立ち上がると両足を開いて腹にぐっと力を込める。
「ア―――」
「呼びましたか?」
「うわっ?!」
背後からの呼び掛けに驚き振り返ると、黒いローブを纏った男が紅玉の様に綺麗な赤い瞳でイオを見下ろしていた。
「ほっ…本当に、来た……」
解っていたけれどやはり驚かされるものだ。驚くイオにアスギルは少しばかり眉を顰め、イオはごまかす様に笑ってみせた。
「ありがとう来てくれて。それからね、昨日は本当にありがとう。イグジュアートも直接お礼が言いたいっていっているの。」
「取るに足らぬ行いに礼など不要ですよ。それに私も役に立てて嬉しく思っていますから。」
「アスギルからすれば簡単な事なのかもしれないけど、わたし達からすると奇跡の様な出来事だったわ。」
「望めば貴方にも出来得る事です。」
「そっ、それは―――っ。」
イオは言葉を詰まらせると瞳を忙しなく動かした。
「実は……わたしの場合は魔力はあるけど使いこなす能力が果てしなく残念な結果に―――」
「それは貴方が望まぬから内部に押し込められているだけです。封印された魔力とは異なり、心から魔法を使いこなしたいと望むのであればそれは自ずと解放されるでしょう。」
期待に背く様な感覚に襲われ俯くイオを気にも留めず、アスギルはさらりと言ってのける。魔法への恐れは生まれた頃より身についた習慣の様なもの。迫害される恐怖が容易く拭われるはずはない。けれど魔法が命を救う結果を齎すと知ったイオにはそう難しい事でもないとアスギルは諭した。
「魔法は常人にはない偉大な能力ゆえに羨望と恐怖を招く。それを操るものが魔法使い本人であるとは限りませんが、使い手自身が強い意志を持ってさえいれば間違った結果を生みはしない。ただ大事なものを盾に取られた時に破壊を選択するのは目に見えています。だからこそそれを上回る力を身につける必要があるし、力を持たない道を選ぶ事も許される。貴方にはどちらも選べる能力が備わっているのです。」
強大な力を手にすれば利用しようと目論む輩が出て来るだろう。全ての人々が良識ある考えの持ち主なら犯罪など起こらないのだ。しかし現実は異なる事を誰もが知っている。
「アスギルは誰かに利用された事があるの?」
「ありますよ。けれどそうさせたのは私の愚かさ故。私の責任です。」
少し寂しそうに微笑むアスギルにイオは切ない思いが込み上げた。
経験豊富だからこその教えなのだろう。大切なものを盾に取られて破壊を選択する。アスギルがそうしたのであれば彼を操る人物は神様にでもなれるのではないだろうか。そしてそれも力を持っていた己の責任だと言ってのけるアスギルの大きさにイオは胸を突かれるのだ。
「わたしはイグジュアートがあんな事になって力がない事をとても後悔したわ。でもあの時力を持っていたらわたしの手で審問官を殺していたかもしれない。汚い部分を他の人に押し付けるのは良くないって解っているけど、人を殺すのは怖いわ。」
こちらが命の危険に立たされ、相手を殺してしまったとして。そうしなければ自分が生きていられなかったとしても一つの命を自らの手で消した事実は永遠に残る。それに耐えられるだろうかとイオは考えた。自分が助かる為に殺した命を死ぬまで感じながら生きて行くのだろうか。それが殺めてしまった責めを受けるという事なのかも知れない。
「殺める事を恐れるなら捕縛する力を身につければよいだけです。罪は生きて償うべきと私は考えます。それに何も暴力に関してばかりが魔法ではない。救う力の意味を貴方は経験して知ったではありませんか。」
綻びを元に戻す様に繋ぎ合わせて行く感覚。驚いたがけして忌まわしく恐れを抱く感覚ではなかった。
「アスギルはわたしが魔法使いになるのを望んでる?」
誰もが操れる力ではない特殊な能力。恐れは昔ほど抱いていないが皆無ではない。それでもアスギルの穏やかに魔法を操る様を目撃すると、それ程悪い物ではないとの印象を受ける。それこそ治癒の力は医師しか頼りに出来ないカーリィーンで育ったイオにとって、興味を抱く代物だった。
「貴方の気持ちを考慮すれば勧めはしませんが、秘めた力が大き過ぎます。使いこなせなければいずれ厄介な状況に陥るのは目に見えている。その時に私が側にいてあげられるなら問題ないのですがその確証がない。」
「わたしの為にも、必要だって事ね。」
このままではなくもっと先に進むべきなのだ。高度で難しい勉強が必要になるとしても、基礎から確実に学んで魔法を使いこなせるようになる。そうなって初めてアスギルは安心して思う様に行動できるのだろう。その日こそがアスギルとの別れの日となるのかと予想し、イオは寂しさで胸が締まった。
「私は何時でも貴方の声を受け取ります。こうして名を呼んで頂ける限り、必ず貴方のもとへと駆けつけさせて頂きますよ。」
「ごめんアスギル。わたしって思った事が直ぐに顔に出るみたいで―――気にかけてくれて本当に感謝してるわ。あの日扉を開いて本当によかった。」
「それはこちらの台詞です。さて、そろそろお暇した方がよさそうだ。」
顔を上げて視界を窓へ向けたアスギルにイオははっとして慌てて引き止めた。つい話し込んでしまって呼んだ目的をすっかり忘れてしまっていたではないか。
「ごめんアスギル、実はちょっと頼み事されちゃってさ。」
「頼み事―――どういった要件で。」
少しばかり言い難くて下唇を噛む。けれどあまり引き止めても悪いと思い「よしっ」と気合を入れた。
「アスギルが前にわたしの事を頼んでいってくれた人がいるでしょ、その人がアスギルに会いたがっているの。嫌なら断るけどどうする?」
「では断って下さい。」
「いいの、断って?」
「会った方がよろしいですか。」
「ううん、アスギルがそう言うならそれでいい。」
笑顔で即答したアスギルにイオも頷くしかない。色々と世話になっているが、アスギルが望まないならイオからは何も言える言葉はなかった。
「ですがそれで相手が引きさがるとは思えませんから、一つ伝言を頼んでも宜しいですか?」
「勿論よ。」
放っておいてもよかったがそれで納得する相手ではないだろう。イオが乱されるのも面倒だと感じたアスギルはこれで済めばと伝言を残す。
「戦以外で必要な時は手を貸すと―――しかし出来るなら極力放っておいて欲しいとの勝手な願いを聞き届けられよ―――そう伝えて下さい。」
イオはアスギルの言葉を口の中で繰り返し「わかった」と二度頷いた。
「なんだか直ぐに呼び出し受けそうな伝言だけどいいの?」
「大丈夫ですよ。向こうは極力私と関わりたくないと思っていますから。」
「そうかしら……まぁいいわ。ちゃんと伝えるから。あ、それとっ!」
イオは手を打ち鳴らして随分前に頼まれた事を思い出した。
「わたしに魔法を教えてくれているモーリスさん、その人がアスギルの意見を求めたいらしいんだけど。」
見上げるイオにアスギルは頷いて先を促した。
「闇の魔法使いが世界を崩壊へ導いた原因をどう考えるかって。多くの意見を参考にしたいらしいんだけど―――アスギル?」
瞬く間にアスギルから表情が消えるのを目の当たりにし、イオは驚いて思わずアスギルの体に触れた。それにはっとしたアスギルは我に返ったようで、けれど明らかに作り笑いと解る笑みを浮かべる。
「ごめん、変な事聞いた。」
焦るイオにアスギルはゆっくりと頭を振って、今度こそ赤い目を細め穏やかな笑みを浮かべたが、瞳の奥では見ているこちらまでもが切なくなる程の寂しさを湛えていた。
まさかこんな表情をされるとは思っていなかっただけに驚き、このまま消えてしまうんじゃないかという思いからアスギルを掴む手に力を込める。
「すみません、少しばかり動揺してしまいました。」
「ごめんね、大丈夫?」
大丈夫だと頷いたアスギルの目は何時もと変わらない物に戻っていた。けれどイオは彼の中にある傷に触れてしまった気がして後悔の念を抱き、同時に不安に駆られる。そんなイオを安心させるようにアスギルが長い銀の髪を撫でつけた。
「それが正しいと思ったのですよ。愛しい人の未来を守る為にそれが何よりも正しいと思い込み狂ってしまった。いや―――狂う方が先だったのかもしれません。」
アスギルはイオの髪を撫でる手を止めるとそのまま胸の内に閉じ込めた。
「前にも言いましたが闇の魔法使いの事はもう心配ありません。貴方は安心して未来を生きて行きなさい。」
安心させるように背中を二度、優しく叩かれる。その後にふと温もりが消え、支えを失った体が倒れるのを防ぐ為に足が一歩前に出た。
「アスギル?」
消えてしまった人に伸ばしそこなった腕が空を切る。
待ってと幾度か名を呼んだが、この日アスギルがイオの前に再び姿を見せる事はなかった。




