魔法
床に横たわる少年の傍らに腰を下ろし毒消しを口に運ぶ。
意識のない少年は僅かな量ではあるが、少しずつ緑のトロリとした液体を体内に呑み込んで行った。
年の頃は十四、五歳といった所だろうか。柔らかな金色の髪に長い金のまつ毛が印象的な少年だったが、本来白いであろう肌の色は魔物の毒にやられ土気色に変色し始めていた。
ここまでくると回復は見込めまい。たった今医者を呼びに出て行った騎士が少年の何たるかは知らないが、恐らく死に目には間に合わないだろうと、イオは切ない思いで少年の唇に残った毒消しを指で拭った。
何とか助けてやりたい気持ちは強いが、どうしようもなかった。恐らくどんな高名な医者でも無理だろう。魔法使いの中には回復の魔法に長けた者もいるとは聞くが、本当にいたとしても国に囚われていてはどうしようもない。
死ぬには若い、だが若くして亡くなる人間も少なくはない。イオが無意識に少年の手を取ると同時に傍らに影が差した。
「どうなさいます?」
「どうって…」
黒いローブの魔法使いだ。
魔法使いは赤い瞳をイオに向け答えを待っていた。
ここに来てイオは、なぜこの魔法使いがこの場にいるのかを思い出す。
流行病の子供がいるというイオの嘘に力になれると言ったのは、傍らにいる怪しい事この上ない魔法使いではないか。
「もしかして―――助けられたり、する?」
「勿論です。」
当然のように答えた魔法使いは「ただ―――」と付け加えた。
「魔法を使えば先ほどの騎士には知られるでしょう。あの騎士、この時代に有って恐らく魔法というものを知っている。」
イオははっと息をのんだ。
助けられるのなら人の命に勝るものなどないだろう。けれどそうした場合、間違いなくこの男は魔法使いである事実を知られ拘束される。勿論一緒にいるイオも疑いの目を向けられ、取り調べの中で魔法使いである事実が露見するやもしれない。
とても危険な事だ。
だが、一人の少年の命に代えてもいい事実だろうか?
ここで少年を見捨て悠々と生きていけるほど自分は図太かっただろうか?
「魔法を使った痕跡を残さず半端に治療をするのも手ですが、その場合は生涯首から下を動かす事は叶わないでしょうね。」
命は助かりますがと付け加える男にイオは首を振った。
己が身を案じて即決できなかった自分が恥ずかしくてならない。この魔法使いは出来ると言っている。少年が運ばれてすぐにそれを実行しなかったのはイオを気に病んでだ。魔法使いに対する世の常識を教えた、魔法使いである事実を隠すイオを思って騎士の目の前で魔法で救えると口にしなかった。
目の前の男は無知ゆえかもしれないが、自分が捕まる事も何も恐れてはいない。瀕死の状態にある人間一人を容易く助けられると言ってのけるのだ。万一の時には自分を守るなど造作もないのかもしれない。
「助けてあげて、お願い―――」
イオは場所を魔法使いに譲り一歩後ろに下がった。
魔法使いは少年が魔物に負わされた傷口ではなく、荒く上下する胸に手のひらを押し当てる。
「本当にかまいませんか?」
少年の命よりイオの気持ちを優先するあたりが理解不能だが、叶うのならこの少年の未来を繋げてやって欲しいものだ。
イオが頷くと魔法使いは少年に視線を落とした。
魔法使いが触れる場所から仄かな白い光が溢れ出し、その光はゆっくりと少年の体内に呑まれるように駆け巡って行くとあっという間に消えてなくなった。
それはほんの一瞬で、光が消えると同時に土気色だった少年の肌が、ほんのりと赤みを持った健康的な色合いに変わる。まぶたを持ち上げ瞳を見せはしないが、穏やかに眠る少年が横たわる、ただそれだけの様に見える光景がそこにあった。
自分以外が魔法を使うのも、魔法で人を癒すのを見るのも初めての経験だった。
茫然と見下ろすイオに魔法使いは「おわりましたよ」と穏やかに声掛ける。
「たった…これだけ―――」
喉の奥から声を絞り出す。
何故これほど簡単に、いとも容易く魔法を使って人が救えるのか。イオが魔法を使い剣に魔力を込める作業はとても困難を極める。すべてが自己流だが、うまくいかない時はすべての魔力を使って試みても失敗に終わり、上手く行ったとしてもかなりの体力を消耗し、疲れ果て一日寝て過ごすなんて日も度々あるのだ。
それなのに目の前の魔法使いは人一人を助けるという偉業を成し遂げたというのに、涼しい顔でイオの前に鎮座している。
少年が目を覚ましてみないと確かな結果はわからないが、今はどう見てもただ寝ている少年にしか見えない。
「あなた…いったい何者?」
「ただの魔法使いですよ?」
国に属していない魔法使い、それもかなりの能力者となると、これからこの魔法使いがらみで何か起こるやもしれない。
今の時代、大陸中のどこを探してもイオの目の前にいる魔法使いのような力を持った者は存在しないだろう。魔法使いは恐怖の対象で、方法は様々だがそれぞれの国が厳しく管理しているのだ。使える魔法も人を治癒させるものはとても珍しく、ほとんどが結界を張り魔物の侵入を拒むか聖剣の生産が主となっている。
投獄もしくは処刑となる所か、力を求められ奪い合いとなり争いが起こっても不思議ではない。だが、しがない一般人であるイオにはそんな事情にまで思い至る余裕はなく。
突然二階に駆け上がると、それはすごい勢いで袋に荷物を詰め着替えを済ませ階下に降り、少年の傍らに鎮座する魔法使いに詰め寄った。
「逃げるわよっ!」
平穏無事に生きて行くにはこれしかない。
イオは目を丸くする魔法使いの腕を掴んで引き起こした。